ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 新世ス
  • ガラテア 注釈 6章

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ガラテア 注釈 6章
  • 新世界訳聖書 (スタディー版)
  • 関連する記事
  • ガラテア 注釈 5章
    新世界訳聖書 (スタディー版)
  • ローマ 注釈 1章
    新世界訳聖書 (スタディー版)
  • エフェソス 注釈 4章
    新世界訳聖書 (スタディー版)
  • ガラテア 注釈 2章
    新世界訳聖書 (スタディー版)
もっと見る
新世界訳聖書 (スタディー版)
ガラテア 注釈 6章

ガラテア

注釈 6章

6:1

道を踏み外し: ここのギリシャ語(パラプトーマ,直訳,「傍らに倒れること」)は,小さな判断ミスから神の律法の重大な違反までを含む過ちを指せる。(マタ 6:14。ロマ 5:15,17。エフ 1:7; 2:1,5)道を踏み外す人は,神の正しい要求に沿って歩んでいない。重大な罪をまだ犯していないとしても,間違った方向に進んでいる。

クリスチャンとして十分に資格がある皆さん: または,「聖なる力に導かれている皆さん」。ここで使われているギリシャ語(プネウマティコス)は,「神の聖なる力」という表現で使われている語(プネウマ)と関係がある。(エフ 4:30)それで,会衆のクリスチャンとして十分に成長した人が他の人を正すための資格には,知識や知恵や経験以上のものが関係している。いつも神の聖なる力に導かれていることも明らかになっていなければならない。(ガラ 5:16,18,25)

正すことに努め: ギリシャ語動詞カタルティゾーは,あるものを正しい状態に戻すこと,正しく整えることを表す。この文脈で,クリスチャンとして「道を踏み外した」仲間の信者を正す必要があることに関して使われている。ここで使われているギリシャ語動詞の語形は「正すことに努め」と訳すことができ,「クリスチャンとして十分に資格がある」人が間違いをした人を正しい道に戻すために誠実に努力する,ということを伝えている。しかし,実際に正しい道に戻るかは,助言された人が良い反応を示すかどうかに懸かっている。同じ動詞がマタ 4:21では,網を「手入れ」することを指して使われている。関連する名詞カタルティスモスは,エフ 4:12で「正し」と訳されていて,骨や手足や関節を整えることを指して医学書で使われることもあった。コ二 13:9,エフ 4:12の注釈を参照。

注意してください: または,「気を付けてください」,「目を離さないでください」。ここでパウロは,原語で相手を指す言葉を複数形から単数形に切り替えている。それでパウロは,助言を与えるクリスチャン一人一人に,他の人に陥らないよう勧めている道徳面での誘惑に自分も陥らないよう注意しなければならないと言っている。この表現は,独善的になって他の人を見下さないようにという警告でもある。(コ一 10:12)

6:2

仲間同士,重荷を負い合いましょう: ここで「重荷」と訳されているギリシャ語バロスの複数形は,字義的には「重いもの」という意味で,「悩みとなるもの」とも訳せる。パウロは,「道を踏み外した」人を正しい道に戻すよう努力することについて前の節で述べた後で,この訓戒を与えている。道を踏み外した人が結果として負うものは,重荷つまり助けなしでは負うのが難しいものかもしれない。日頃から仲間が重荷を負うのを助けているクリスチャンは,愛を示すことによってキリストの律法を実践している。(ヨハ 13:34,35)しかし,パウロが3-5節で述べている通り,これは他の人の「荷」(ギリシャ語フォルティオン)つまり神に対するクリスチャンの責任を負うことを意味しているわけではない。ガラ 6:5の注釈を参照。

キリストの律法: この律法には,イエスが教えた全てのことと,キリストの弟子たちが神の聖なる力の導きによってギリシャ語聖書に書いたことが含まれている。この律法はエレミヤが予告していた通り,モーセの律法契約に取って代わった。(エレ 31:31-34。ヘブ 8:6-13)この律法と原則は,キリストが考え出したのではなく,法を定める偉大な方エホバから授かった。(ヨハ 14:10)「キリストの律法」という表現は,ギリシャ語聖書でこことコ一 9:21にだけ出ていて,それぞれのギリシャ語は少し違う。この律法は,「自由をもたらす完全な律法」(ヤコ 1:25),「自由の民の律法」(ヤコ 2:12),「信仰の律法」(ロマ 3:27)とも言われている。

6:5

自分の荷: または,「自分の責任」。パウロはここで,負うべきものを指すギリシャ語フォルティオンを使っていて,重さについては何も述べていない。この荷は2節に出ている「重荷」とは違うもの。重荷を負うには助けが必要なこともある。(注釈を参照。)ここで使われている語は,クリスチャン各自が負うべき神に対する責任を指す。ある参考文献はそのギリシャ語について,「軍事用語として使われ,人が背負える荷物や兵士の装具一式を指した」と述べている。

6:6

神の言葉を教えられている: ここの「神の言葉」には,神の言葉とイエス・キリストの教えが含まれる。パウロは幾つかの手紙の中で,クリスチャン会衆で教えることの大切さについて書いている。その際,指導し,説明し,論議を展開し,証拠を提出することを意味するギリシャ語ディダスコーをよく使っている。(ロマ 2:21; 12:7。コ一 4:17。コロ 3:16。テモ二 2:2。マタ 28:20の注釈を参照。)しかし,パウロはこの節で,神の言葉を「教えられている」人や「教える」人について述べる際に,より限定的な意味のカテーケオーという語を使っている。この表現は,字義的には「下に響かせる」という意味で,口頭で教えることを意味する場合もある。(使徒 18:25の注釈を参照。)「神の言葉」の真理を頭と心に響かされた人は,資格を得て,他の人を教えることができる。(テモ二 2:2)

教える人と,良いもの全てを分け合って: 「教えられている」人は生活面や信仰面でいろいろなものを,教える人と分け合うよう勧められている。この原則は聖書の他の箇所でも見られる。(マタ 10:9,10。ロマ 15:27と注釈。コ一 9:11,13,14。テモ一 5:17,18。ヘブ 13:16)「分け合う」という語は,学ぶ人が教えられる内容をよく聞いて当てはめることを意味する場合もある。信仰と確信を自分の言葉で表現することで,良い知らせを教える人になる。そのようにして,教える人と「良いもの」を分け合える。(テモ二 2:2)

6:7

ご自分を侮る者を大目に見る: 直訳,「侮られる」。ここで使われているギリシャ語は,字義的には鼻を使ったしぐさで軽蔑を表すという考えが含まれている。ある言語では,あざ笑う,鼻であしらうと表現されることもある。侮ることには,軽蔑したりあざけったりすることや,さらには誰かに反抗したり挑んだりすることまで含まれるかもしれない。ここでパウロは,神の言葉にある原則を軽視したり守らなかったりしても問題ないと考える危険について警告している。

人は自分がまいているものを必ず刈り取る: この格言は,パウロの時代によく知られたもので,恐らく古代の農耕社会に由来する。これは地面に植えたものがそこから育つという事実を述べている。古代において,比喩として普通良くないことに使われ,人は悪い行状や行いから良くない結果を刈り取るという意味だった。しかしパウロは,良い行動は「永遠の命」という良い結果をもたらすことも強調している。(ガラ 6:8)この不変の原則は,聖書のほかの部分でも述べられている。(格 11:18; 22:8。ホセ 8:7; 10:12。コ二 9:6)ガラ 6:8の注釈を参照。

6:8

罪深い欲望のままにまいている人: つまり,「罪深い欲望から出る行い」にふける人。(ガラ 5:19-21)そのように「まいている」人は,実つまり結果として罪深い欲望によって腐敗を刈り取る。最初の人間は罪を犯した時,子孫全てと共に腐敗の奴隷になった。(ロマ 5:12; 8:21と注釈)この奴隷状態ゆえに人間は不完全で,それが病気,老化,死だけでなく,道徳の退廃と信仰心の欠如にもつながっている。それで,「罪深い欲望のままにまいている人」が永遠の命を得ることはない。(ペ二 2:12,18,19と比較。)

聖なる力に導かれてまいている人: つまり,神の聖なる力が生活の中で自由に働くようにして,聖なる力が生み出すものを表す生き方をしている人。そのような人は,「聖なる力によって永遠の命を刈り取ることになる」。(マタ 19:29; 25:46。ヨハ 3:14-16。ロマ 2:6,7。エフ 1:7)

6:9

諦めずに: または,「気力を失わずに」。ここで使われているギリシャ語は,立派なことを行うときに落胆したり熱意を失ったりしないようにするという考えも伝えているのかもしれない。コ二 4:1の注釈を参照。

6:10

機会: または,「良い時」。ギリシャ語カイロスは,「時期」や「定められた時」と訳されることがある。エフ 5:16(注釈を参照)の「時間を有効に使ってください」という表現で使われている。

同じ信仰を持つ兄弟姉妹: または,「信仰の家の人たち(家族)」。ここで使われているギリシャ語は,文字通りの家族や家の人たちを指す。(テモ一 5:8)ギリシャ・ローマ世界では,家の人たちという言葉が,同じ信条や考えや目的を持つ人たちから成る結び付きの強いグループを指すことがあった。これは,個人の家でよく集まり(ロマ 16:3-5),信仰面で互いに家族のような強い絆で結ばれているのを感じていた1世紀の会衆の人たちをよく表している。(エフ 2:19)

6:11

自分の手で皆さんにこの手紙を書いています: パウロは通常,手紙を口述して秘書に筆記させたが,この手紙はパウロ自身が書いたようだ。ロマ 16:22と注釈を参照。

6:12

人から良く見られようとする: または,「体面を繕おうとする」。この文脈で,ギリシャ語サルクスは,体に関連していて他の人から見えるものを指す。クリスチャンと自称していたある人たちは,神から良いと認められるためには割礼を受けることやモーセの律法のほかの点を固守することが不可欠だと教えていた。しかし,その動機はユダヤ人に良い印象を与えることだった。その人たちは,キリスト教に敵対するユダヤ人から「迫害されるのを避けたい」と思っていた。見た目を過度に気にして,割礼を受けることを主張することによって,実際にはイエスの死が救いを得るための唯一の基盤であることを否定していた。

キリストの苦しみの杭: ここで,「苦しみの杭」(ギリシャ語スタウロス)は杭に掛けられたイエスの死を表して使われている。イエスがこのように死ぬことによって,人類はもはや罪の奴隷ではなくなり,神と和解して良い関係を持てるようになった。パウロがユダヤ人に「迫害され」たのは,苦しみの杭でのイエスの死が救いを得るための唯一の基盤であることを認識して広めたためだった。

苦しみの杭: または,「処刑用の杭」。用語集参照。

6:14

処刑されて: または,「杭に掛けられて」。パウロは苦しみの杭でのイエスの死が救いを得るための唯一の基盤であると教えた。それで,世はパウロを憎み,「処刑され」るべき犯罪者と見た。同時にパウロは世を,死刑宣告を受けているものと見なした。

6:15

重要なのは,新しく創造されることです: 天に行くよう選ばれたクリスチャン一人一人は,新しい創造物。天の王国でキリストと共に奉仕する見込みを持つ,聖なる力によって生み出された神の子。(ガラ 4:6,7)さらに,その人たちが構成するのは,「神のイスラエル」というクリスチャン会衆で(ガラ 6:16と注釈),それも新しい創造物。(コ二 5:17の注釈を参照。)それで,クリスチャンが割礼を受けたか受けていないかは神にとって重要ではない。

6:16

この指針に従って: ここで使われているギリシャ語(カノーン)は,測定の道具として使われた「アシ」に当たるヘブライ語(カーネ)から来ている。(エゼ 40:5)パウロはこの語を比喩的に使い,「神のイスラエル」の人たちが従う「指針」を表現している。その人たちがキリストを通して示された惜しみない親切に信仰を抱き,それに沿って行動するなら,罪深い人間がそれまで決して持つことができなかったような「平和が与えられ,憐れみが示され」ることになった。(ガラ 3:24,25)用語集の「正典(聖書正典)」と比較。

神のイスラエル: この表現は聖書に1度しか出ておらず,後にイスラエルと呼ばれたヤコブの実際の子孫ではなく,天に行くよう選ばれたクリスチャン全体を指す。(創 32:22-28)前の節(ガラ 6:15)が示すように,「神のイスラエル」を構成する人たちに割礼は求められていなかった。預言者ホセアは,異国人を含む人たちに神が恵みを示すことを予告していた。神はこう言っている。「私の民ではなかった人たちに,『あなたは私の民である』と言う」。(ホセ 2:23。ロマ 9:22-25)「神のイスラエル」に生来のユダヤ人と改宗者たちも含まれていたが(使徒 1:13-15; 2:41; 4:4),それは退けられたその国民のうち「残りの者だけ」だった。(イザ 10:21,22。ロマ 9:27)パウロは後にローマの人たちに,「イスラエルの子孫が皆,真の『イスラエル』なのではない」と書いた。(ロマ 9:6)使徒 15:14,ロマ 2:29; 9:27; 11:26の注釈も参照。

イスラエル: 「神と闘う(神に対して粘り強い)者」もしくは「神は闘う」という意味。この名前は,祝福を得るために天使と取っ組み合いをした後,ヤコブに与えられた。ヤコブはエサウとは違い,神聖な物事の価値を認識し,神の恵みを得ようと精力的に励んだ。(創 32:22-28。ヘブ 12:16)「神のイスラエル」に属する人たちは,ヤコブに倣い,同じ種類の信仰と神の意志にしっかり従う態度を表している。この節の神のイスラエルに関する注釈を参照。

6:17

イエスの奴隷の焼き印: 「奴隷の焼き印」と訳されている語(ギリシャ語スティグマの複数形)は,ギリシャ語聖書でここにしか出ていない。この語は一般のギリシャ文学で,記号や文字で構成された焼き印を指し,それは奴隷を見分けるのにも使われた。しかし,傷痕も指すかもしれない。パウロは,迫害者たちによって付けられた体の傷のことを指していたのかもしれない。その傷はキリストの忠実な奴隷であることを証明するものだった。(コ二 4:10; 11:23-27。フィリ 3:10)もしくは,パウロは実際の焼き印ではなく,どのようにクリスチャンの奉仕を行い,聖なる力が生み出すものを示し,キリストの奴隷であることが分かる生き方をしていたかについて述べていたのかもしれない。

6:18

正しい精神を示している: ここでギリシャ語プネウマが使われている。その語は,ある特定の仕方で語ったり行動したりするよう人を駆り立てる内面の力つまり精神の傾向を指す。例えば,聖書は「物静かで温和な精神」(ペ一 3:4)や「温和な精神」(ガラ 6:1,脚注)について述べている。パウロはテモ二 1:7で,「臆病な」精神と「力と愛と健全な」精神を対比している。そしてテモテへの手紙の最後に,「主が,正しい精神を示しているあなたと共にいて……くださいますように」と言っている。(テモ二 4:22)個人と同じく集団も,特定の精神を示すことがある。パウロはガラテアの手紙のこの結びの言葉やフィリピの手紙で,ギリシャ語の複数代名詞(「皆さん」)を使って,会衆の全員が神の意志とキリストの手本に沿って正しい精神を示すようにという願いを言い表している。(フィリ 4:23)

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする