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エフェソス 注釈 4章

エフェソス

注釈 4章

4:2

謙遜で: または,「自分を低く見て」。使徒 20:19の注釈を参照。

4:3

平和という絆で結ばれ: 「絆で結ばれ」という部分で使われているギリシャ語は,字義的には「何かを束ねるもの」,「つなぐもの」という意味。この語はコロ 2:19で字義的な意味で使われ,「靱帯」と訳されている。骨と骨をつなぐ強い帯状組織である靱帯のように,平和は会衆の人たちを結び合わせる強力な絆となる。そのような平和は,単に争いがないということではない。愛に基づいていて,維持するために努力が求められる。(エフ 4:2)パウロは同じギリシャ語をコロ 3:14でも使い,愛が「完全な絆」だと言っている。

聖なる力による一致を保つ: この助言の通りにするクリスチャンは神の聖なる力の導きに従い,その力が生み出すものを表すようにする。神からの「聖なる力」は強力で,人々を一致させる。(コ一 2:12。ガラ 5:22,23)前の節でパウロは,謙遜,温和,辛抱,愛など,一致を促す性質に言及している。(エフ 4:2)

4:4

1つ: パウロはエフェソスの手紙で一致の大切さを強調している。エフ 4:4-6で,天に行くよう選ばれたクリスチャンの会衆を結び合わせる要素を列挙している。

体は1つ: クリスチャンの会衆のこと。人体に例えられていて,イエス・キリストがこの比喩的な体の「頭」。(エフ 1:22,23)

聖なる力は1つ: 神の聖なる力のこと。(コ一 12:13。コ二 5:5)

希望も1つ: この文脈で,「希望も1つ」とは,特に,天に行くよう選ばれたクリスチャンが持つ希望を指す。(ヘブ 3:1)また,そのクリスチャンが天で王また祭司として仕える時,神に仕えることを望んで信仰を抱く人は皆,「腐敗への奴隷状態から自由にされ」,「神の子供の輝かしい自由」を得る。(ロマ 8:20,21,24)

4:5

主はひとり: イエス・キリストのこと。(コ一 8:6)

信仰は1つ: 神に受け入れられるただ1つの崇拝の方法のこと。この信仰は,クリスチャンが広めるキリストに関するただ1つの知らせに基づく。(ヨハ 3:16; 4:23,24。ロマ 10:16,17。コ二 4:13)

バプテスマは1つ: エフェソスの人たちは,「父と子と聖なる力の名によって」行われる「バプテスマは1つ」で,それが一致の鍵であることを知っていた。(マタ 28:19,20)パウロは3回目の宣教旅行中にエフェソスで,「ヨハネのバプテスマ」を受けた人たちに会った。そのバプテスマを受けたのは,それが有効ではなくなった後と思われる。(使徒 18:25の注釈を参照。)その人たちは神について知っていたが,クリスチャンのバプテスマについては聞いたことがなかった。パウロからキリストと聖なる力について説明された後,「主イエスの名によってバプテスマを受けた」。(使徒 19:1-6)こうしてその人たちは,エフェソスや他の場所にいるバプテスマを受けた全てのクリスチャンと一緒にエホバに仕えることができた。

4:6

全ての人の父である神はひとり: エホバ神のこと。(申 6:4)

4:8

人々という贈り物: または,「贈り物としての人々」。パウロはここで,ダビデがエルサレムの征服についてエホバに感謝している詩 68:18に言及している。エホバはシオンの山の頂にあるその町を征服することで,比喩的に「高い所に昇」った。さらに,征服した民の中から捕虜として,有用な労働者になる強力な人たちをイスラエル人に与えた。パウロは聖なる力に導かれ,この預言的な詩を,クリスチャン会衆のために征服者として行動するイエスに当てはめた。(エフ 4:10)イエスは天という「高い所に昇った」後,絶大な権威を行使して,神の羊の群れの愛ある牧者や監督として働く有能な「人々という贈り物」を会衆に与えた。(マタ 28:18。エフ 1:20,21; 4:11。使徒 20:28の注釈を参照。イザ 32:1,2と比較。)

4:10

全ての天のはるか上に昇った: イエスは天で他のどんな天使よりも高い地位に就いた。(エフ 1:20-23。フィリ 2:9-11)

4:11

福音伝道者: パウロがここで使ったギリシャ語は基本的に,「良い知らせを伝える人,または広める人」を意味する。この語は,「福音」つまり「良い知らせ」に当たるギリシャ語と関連があり,ギリシャ語聖書でここと他の2カ所にしか出ていない。(テモ二 4:5。使徒 21:8の注釈を参照。)全てのクリスチャンは良い知らせを伝える任務を与えられている。(マタ 24:14; 28:19,20)しかしパウロはここで,「福音伝道者」という語を「宣教者」という特別な意味で使っていると思われる。例えば,パウロ,テモテ,バルナバ,シラスは,良い知らせがまだ伝わっていない場所で伝道活動を始めるために長い距離を旅した。(使徒 13:2-4; 15:40,41; 16:3,4)

4:12

正し: 「正し」と訳されているギリシャ語名詞(カタルティスモス)はここで,あるものを正しい状態に戻すことや正しく整えることを指す。誰かを仕事に備えさせるという考えを伝えることもある。骨や手足や関節を整えることを指して医学書で使われることもあった。(コ二 13:9の注釈を参照。)イエスは,「聖なる人たち」の考え,態度,行いを神の考えや意志に沿って正しく整えることにより,その人たちを「正し」(または,「訓練し」)た。それは,イエスが会衆に与えた「人々という贈り物」つまり聖なる力によって任命された監督たちを通して行われた。(エフ 4:8,11,12。コ一 16:15-18。テモ二 2:2。テト 1:5)

4:13

私たちは皆……達し: この表現は,クリスチャンとして十分に成長することや仲間との一致を目指して各自が努力しなければならない,ということを示している。この節の十分に成長したに関する注釈を参照。

信仰の一致: この表現は,信じていることや教えていることの一致を表している。(エフ 4:5。コロ 1:23; 2:7)「一致」と訳されるギリシャ語は,「一つ」とも訳せる。

正確な知識: ギリシャ語聖書には,一般に「知識」と訳される言葉が2つある。グノーシスとエピグノーシス。ここで使われているエピグノーシスは,グノーシスの強調形(エピ,字義的には「の上に」という意味で,ここでは「さらに加えた」ということ)。文脈によって,「厳密な,真の,あるいは十分な知識」を意味する。(ロマ 10:2の注釈を参照。)パウロはここでこの語を使い,十分に成長したクリスチャンは,神の子キリスト・イエスについての十分な知識を得る点で仲間と一致していなければならないことを示している。(コ一 1:24,30。エフ 3:18。コロ 2:2,3。ペ二 1:8; 2:20)

十分に成長した: パウロはエフェソスのクリスチャンに,クリスチャンとして「十分に成長した人」つまり「大人」になるよう勧めている。(コ一 14:20)目標は,キリストの背丈に達すること,つまり神の子についての正確な知識に沿って生きることによってクリスチャンとして大人になること。そうなれば,間違った考えや教えに容易に振り回されることはない。使徒,預言者,福音伝道者,牧者,教える人がいる会衆という枠組みは,キリストの背丈に達する助けになった。(エフ 4:11-14)

4:14

人に欺かれたり: この表現はギリシャ語聖書でここでしか使われていない。直訳すると「人間のさいころの遊びで」となる。これは,さいころを使う時の人をだます行為に暗に触れた古代の慣用句。(メディア・ギャラリーの「ローマのさいころ」参照。)ここでパウロはエフェソスのクリスチャンに,子供,つまりクリスチャンとして十分に成長していない人のようであってはいけないと警告している。そのような人は経験や判断力が不足しているため,「人に欺かれ」てクリスチャンとしての進歩が停滞しかねない。エホバは,偽りを教える人にだまされないようクリスチャンを守るために「人々という贈り物」を与えている。(エフ 4:8)付録A1参照。

4:15

真理を語り: ここで使われているギリシャ語動詞は意味が広く,「真実に満ち」とも訳せる。それで,「真実をつくし」,「真理に生き」と訳している聖書もある。パウロは14節で,偽りを教える人たちの欺き,ずる賢さ,たくらみを糾弾し,本当のクリスチャンの行いとの違いをここではっきりさせている。エフ 4:25でも同じようなことを強調している。そこはゼカ 8:16から引用しているようだ。真実さに関するエホバの基準はずっと変わらない。エホバはご自分に仕える人たちに,言葉と行いによって常に真実を守るよう求めている。(レビ 19:11。格 19:9)

4:16

各関節: 人体は関節によってつなぎ合わされ,組み合わされている。イエス・キリストは「各関節……により」,天に行くよう選ばれたクリスチャンの会衆という体の各部に必要なものを与えている。そのことは,信仰を強める食物の分配,会衆内での意思疎通,活動の調整のための取り決めによって行われている。このようにして,「体」は信仰面で養われ,各部は割り当てられた務めを果たすための指示を受け取る。(エフ 4:7-16。コロ 2:19の注釈を参照。)パウロが使った「関節」という語は,医師がよく使う言葉だっただろう。エフェソスには医学校があったという考古学的証拠があり,パウロがこの人体の例えを使ったのはそのためかもしれない。

見事に組み合わされて: パウロが使っているギリシャ語動詞はこの文脈で,人体の多くの部分が協力する様子を表現している。体の各部は全体の健康に貢献している。同じように,クリスチャンは会衆でキリストという頭の下で共に働いている。(エフ 1:22,23; 4:4,15)皆が協力して働き,頭であるキリストにいつも進んで従うなら,会衆は十分に成長し,愛に満ちた雰囲気を保てる。(コ一 12:14-27。コロ 2:19; 3:14)パウロは同じギリシャ語をエフ 2:21(注釈を参照)で使い,会衆を「しっかりと組み合わされ」た建物に例えている。

協力し合います: 直訳,「一緒に行かされます」。ある辞典によると,このギリシャ語動詞には,「一つにまとめる」,「一致させる」という意味がある。

4:17

むなしい: または,「空虚な」,「はかない」。ある辞典によれば,クリスチャンではない人々は「むなしい事柄に考えを集中させて歩んでいる」というのがこの節の考え。その歩みは挫折や失望に至る。そのような理由もあって,パウロはクリスチャンに,もう「クリスチャンではない人々のように……歩んで」はならない,と言っている。「むなしい」と訳されているギリシャ語については,ロマ 8:20の注釈を参照。

4:18

思考が闇に覆われて: パウロは信仰のない人の知性について述べているのではない。聖書ではしばしば,特に神に関連して理解が欠けていることが闇に例えられている。(ヨブ 12:24,25。イザ 5:20; 60:2。ヨハ 8:12。コ二 4:6。エフ 1:17,18; 5:8,11。ペ一 2:9。ヨ一 2:9-11)エホバ神とイエス・キリストを知るようになっていない人たちは,物事を行う時に導きとなる光や方向感覚がないので,「思考が闇に覆われて」いる。(ヨハ 17:3。ロマ 1:21,28。コ二 4:4)

神による命: ある参考文献によると,ここで「命」と訳されているギリシャ語は,「本質としての命」,「絶対的な意味での命」を意味する。それでパウロが言っているのは,思考が闇に覆われ神についての理解が欠けているため,人々は命の源であり永遠に生きる希望の源であるエホバから遠く離れている,ということ。(詩 36:9。ロマ 1:21。ガラ 6:8。コロ 1:21)

無感覚だ: 直訳,「鈍くなっている」。正しくないこの世の考えや精神に染まっている人々は,心が無感覚つまり鈍くなっている。(コ一 2:12。エフ 2:2; 4:17)そのため,神についての知識を得たいとは思わない。ここで「無感覚」と訳されているギリシャ語名詞は,たこができて無感覚になった皮膚を特に指す医学用語に由来している。ここでは,心が神に対してだんだんと固くなって何も感じなくなる様子を表すのに使われている。

4:19

道徳感覚がまひしていて: この表現は,字義的に「痛みを感じなくなった」という意味のギリシャ語を訳したもの。ここでは,倫理的また道徳的に無感覚という意味で比喩的に使われている。そのような人は良心の呵責も神に対する責任も感じなくなっている。(テモ一 4:2)

恥知らずな行い: ギリシャ語アセルゲイアは,神の律法に対する重大な違反であり,恥知らずで不敬な厚かましい態度が表れた行為を指す。用語集とガラ 5:19の注釈を参照。

あらゆる汚れた事柄: 「汚れた事柄」という語(ギリシャ語アカタルシア)は意味が広い。ここでは比喩的な意味で使われていて,性的なこと,話すこと,行動,宗教面において,清くないこと全てを指す。(コ一 7:14,コ二 6:17,テサ一 2:3と比較。)この語は,そうした悪い行いや状態が道徳的に忌まわしいことを強調している。(ガラ 5:19の注釈を参照。)パウロは,そうしたことが貪欲なまでに行われていたことを述べている。「貪欲」と訳されているギリシャ語プレオネクシアは,より多く持ちたいという飽くなき欲望を表す。パウロは「貪欲なまでに」と言うことにより,「汚れた事柄」には深刻さの程度がさまざまなものがあることを示している。ロマ 1:29の注釈を参照。

4:23

考え方: または,「精神的傾向」,「思考を方向づける力」。ギリシャ語では,プネウマという語と「思考」を意味する語が使われている。プネウマはここで,何らかの言動へと駆り立てる力という意味で使われている。(用語集の「プネウマ」参照。)それで,ここのギリシャ語表現は,人の考え(精神態度や欲求や動機)に影響を与えてそれを形作る力のことを言っている。不完全な人間は,間違った考えを抱く傾向があり,それによって思考が物質主義的な方向や罪深い欲望に従う方向へ動かされる。(創 8:21。伝 7:20。コロ 1:21; 2:18)クリスチャンになりたいと思う人は,「考え方を新しくする」必要がある。そうすれば,思考を方向づける力によってその人の考えが神の考えと調和するよう正しい方向へ動かされる。(コ一 2:15の注釈を参照。)クリスチャンになった後も,聖書を学び,神の聖なる力が自分の内で働くようにして,考え方を「新しくする努力を続け」る必要がある。

新しくする努力を続け: ここのギリシャ語動詞は現在時制で,継続的な行為を表す。それは,考え方を変化させる過程がずっと続くことを示している。(フィリ 3:12,13)

4:24

新しい人格: 直訳,「新しい人」。クリスチャンは,「古い人格」(直訳,「古い人」)を悪い行いと共に脱ぎ捨てるだけでなく(エフ 4:22),「新しい人格」を身に着けて本当に変化しなければならない。「神の意志に沿って形作られる」この新しい人格は,エホバ神の性格を反映している,つまり神の性質に沿っている。(コロ 3:9,10)エホバは,崇拝者たちがご自分に似た者となり,ガラ 5:22,23に挙げられているような美しい性質を反映することを望んでいる。ガラ 5:22,エフ 4:23の注釈を参照。

4:25

隣人: マタ 22:39の注釈を参照。

4:26

腹が立っても: パウロは詩 4:4から引用し,クリスチャンが怒りを感じるのは間違いではないことを示している。エホバもイエスも悪や不公正に対して怒りを表すが,その怒りは正しさと完全な判断によっていつも制御されている。(エゼ 38:18,19。マル 3:5の注釈を参照。)クリスチャンも正当な怒りを感じるかもしれないが,パウロは罪を犯してはなりませんと言っている。クリスチャンは,怒りが,制御されない激怒や暴言や暴力に発展することがないようにする。(エフ 4:31)詩 4:4は神に仕える人たちに,怒りを感じる気掛かりなことを個人的な祈りの中でエホバに伝えるようにとアドバイスしている。

怒ったまま日が沈むことがないようにしましょう: ユダヤ人にとって,日没で1日が終わり次の日が始まった。それでパウロはここで,次の日まで怒りを長引かせないようにと警告している。イエスも弟子たちに,憤りを抱き続けないようにと警告した。(マタ 5:22)怒りが長引くと,個人間や会衆で,苦々しい気持ち,恨み,分裂が生じかねない。(レビ 19:18。詩 36:4。ガラ 5:19-21)パウロは,クリスチャンが問題を早く,できればその日のうちに解決するのに役立つ実際的な助言を与えている。(ロマ 12:17-21。エフ 4:2,3)

4:27

悪魔に隙を与えてはなりません: この表現は,もっと字義的に訳せば「悪魔に場所を与えてもなりません」となり,怒りを長引かせる危険に関するパウロの警告に説得力を加えている。(エフ 4:26の注釈を参照。)怒りや敵意を心の中に持ち続けるクリスチャンは,比喩的な意味で,悪魔が占める場所を作っている,つまり与えていることになるかもしれない。そうするなら,サタンはそのようなクリスチャンに重大な罪を犯すよう働きかける機会を手にすることになる。(詩 37:8)クリスチャンが怒りを長引かせて会衆の一致を壊すなら,悪魔のために働いていることにもなるかもしれない。(ヤコ 4:1,7)

4:28

もう盗んではなりません: パウロの言葉は,エフェソスに住む貧しい労働者にとって特に意味があったかもしれない。ある人たちは仕事が不安定な季節労働で,必ずしも家族の必要を十分に賄えなかったかもしれず,盗みを働く誘惑に駆られたかもしれない。ここでパウロは,どんな理由があるとしても盗まないようクリスチャンに強く勧めた。自ら働くべきだった。(申 5:19。テサ一 4:11)以前パウロはエフェソスの長老たちに,自分が一生懸命働いたことを思い起こさせた。(使徒 20:17,34。使徒 18:3の注釈も参照。)パウロの助言に従うために,エフェソスのクリスチャンは神が生活に必要なものを与えてくれるというキリストの約束を信頼する必要があった。(マタ 6:25-33)

4:29

不快な言葉: 直訳,「腐った言葉」。「腐った」に当たるギリシャ語は,腐った果物,魚,肉にも使われる。(マタ 7:17,18; 12:33。ルカ 6:43)この語は,不健全な話,暴言,下品な言葉を強烈に表現している。クリスチャンはそういう言葉を使わないようにし,「励ましの言葉を述べて,聞く人のためになる」ようにする。「塩で味付けされた」言葉を使う。(コロ 4:6と注釈)

4:30

神の聖なる力を悲しませてはなりません: 「悲しませる」に当たるギリシャ語は,「悲嘆させる」とも訳せる。パウロは擬人法を使い,人格を持たない聖なる力がまるで人のように悲しむことがあると言っている。(ヨハ 16:8,13,ロマ 8:27の注釈と比較。)神は聖なる力を使って,ご自分に仕える人たちを導いたり強くしたりする。聖なる力は,その人たちの中に良い性質を作り出す。それが「聖なる力が生み出すもの」。(ガラ 5:22-24)聖なる力に感謝せず,その働きに抵抗し,聖なる力の導きによる聖書の助言に逆らう人は,実際には聖なる力を「悲しませて」いる。(エフ 4:17-29; 5:1-5。イザ 63:10。使徒 7:51)

証印を押され,贖いによる解放の日を待っている: 天に行くよう選ばれたクリスチャンは,エホバの聖なる力によって証印を押されている。その証印は,その人たちが神の所有物で,天での命を受ける者であることを示す。コ二 1:22の注釈を参照。

4:32

親切な人になり: エフ 4:31で,パウロは良くない態度や言動を挙げた。それに対してここでは,親切など良い性質を表すようエフェソスのクリスチャンに促している。(コロ 3:12,13)「なり」と訳されているギリシャ語動詞は,親切にする面で改善が必要だったことを示しているのかもしれない。

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