エフェソス
注釈 5章
神に倣ってください: パウロがこう述べたのは,親切,思いやり,許しなど,神の性質について語ったすぐ後だった。(エフ 4:32)それで,神の魅力的な性質をじっくり考えるなら,クリスチャンは最高の手本を示している神に倣いたくなるということを言っていたようだ。(詩 103:12,13。イザ 49:15。エフ 1:3,7)パウロは「倣って」に当たるギリシャ語を神について使っているが,これはクリスチャンが神と全く同じようになるべきだという意味ではない。パウロは,クリスチャンが「神に愛されている」「子供として」エホバに倣うようにと言っている。子供は大人である親に完全に倣うことはできないが,それでも,子供の心からの努力は親にとってうれしいこと。(詩 147:11と比較。)
私たちを愛し: 「皆さんを愛し」としている写本もあるが,現在の本文の読みには他の写本による強力な裏付けがある。
私たちのために: 「皆さんのために」としている写本もあるが,現在の本文の読みには他の写本による強力な裏付けがある。
性的不道徳: 聖書中の用法では,ギリシャ語ポルネイアは,神に禁じられた性的な行動を広く指す語。姦淫,結婚していない人同士の性関係,同性愛行為などの重大な性的な罪が含まれる。用語集とガラ 5:19の注釈を参照。
貪欲: ギリシャ語プレオネクシアは,より多く持ちたいという飽くなき欲望を表す。ルカ 12:15,ロマ 1:29,コロ 3:5の注釈を参照。
皆さんの間で口に上ることさえあってはなりません: 低俗な言葉遣いや「下品な冗談」はエフェソスの社会で許容されていた。(エフ 5:4)下品な言葉は,町の劇場で上演される劇や,さらにはギリシャの女神デメテルのためのテスモフォリア祭などの祭りでも使われた。その女神は下品な冗談を聞いて笑うと言われていた。パウロは,クリスチャンがそのような不道徳なことを決して口にしてはならず,喜んでもならない,と言っている。ここのギリシャ語表現は,クリスチャンが不道徳なことを決して行ってはならないという考えも伝えている。(エフ 5:3-5)
性的に不道徳な人: この表現はギリシャ語名詞ポルノスの訳で,この語は名詞ポルネイア(性的不道徳)と関連がある。用語集の「性的不道徳」とエフ 5:3の注釈を参照。
貪欲な人は,偶像崇拝者であり: 貪欲な人は,自分の望むものをエホバへの崇拝より優先させて,それを自分の神とする。その人の生活の中で一番重要なのは自分の貪欲を満たすこと。(ロマ 1:24,25。コロ 3:5)貪欲には,お金や物に対する過剰な愛が関係していることが多いが,飲食物に対する過度の欲望,権力欲,正しくない性関係など,何であれエホバへの崇拝の妨げとなる事柄も含まれる。ロマ 1:29の注釈を参照。
キリストと神との王国: パウロはここで,王国が神のものであると同時にキリストのものであることを述べている。エホバは神であり創造者であるゆえに宇宙の主権者。(詩 103:19。イザ 33:22。使徒 4:24)エホバは常に王である。(詩 145:13)しかし,エホバは他者に権威を委ねたり権限を与えたりすることがある。子であるキリスト・イエスを選び,「統治権と栄誉と王国」を与えてご自分の望むことを遂行させている。(ダニ 7:13,14)広範囲に及ぶキリストの王としての権限はエホバ神から直接与えられている。(マタ 28:18)宇宙の全てのものは子の統治に服従する立場にあるが,キリスト自身は父である神にずっと服従している。(コ一 15:27,28。エフ 1:20-22)
不従順な人たち: 直訳,「不従順の子たち」。使徒 4:36の注釈を参照。
賢くない人ではなく賢い人のように: パウロは,「光の子供」がどんな歩み方つまり振る舞い方をするべきかについてコメントを加えている。(エフ 5:8)神の言葉の真理という光によって得られる知恵は,単なる知的能力や神から見て愚かなものである世の知恵より優れている。(コ一 1:19,20; 3:19)神からの知恵はエホバへの深い敬意が土台となっている。(格 9:10)そのような知恵があるクリスチャンは,「エホバが何を望んでいるかを見極め」たいと思う。何が「主に受け入れられること」かを真剣に確かめる。緊急感を持つべき時代に生きていることを意識する。それで,クリスチャンの歩み方は,「賢くない」「無分別な」人の歩み方と全く対照的。(エフ 5:10,15-17。コロ 4:5)
時間を有効に使って: 直訳,「定められた時を買い取って」。または,「良い時を買い取って」。この表現はコロ 4:5にも出ている。この助言は,他の事柄から時間を買い取ること,重要でない活動をクリスチャンの活動に置き換えることを意味する。それで,これを当てはめるには犠牲が求められる。パウロは,一般的な意味での時間ではなく特定の時間や時期について言っていた。エフェソスのクリスチャンは当時,恵まれた時期にあり,ある程度自由にクリスチャンの奉仕を行うことができた。パウロは,その良い機会を無駄にしたりせず活用し,可能な限り時間を有効に使うようにと勧めていた。
エホバが何を望んでいるか: 使徒 21:14の注釈,付録C3の序文とエフ 5:17を参照。
酒に酔ってはなりません: パウロは,酒に酔うことについて,「堕落」に当たるギリシャ語と関連付けて警告している。節度を欠いた飲酒はたいてい,行き過ぎた行いや,無謀なもしくは乱暴な振る舞いにつながるから。エフェソスでは,ぶどう酒の神ディオニュソス(バッカス)をたたえる祭りが行われていたので,この助言は特に適切なものだった。そうした祭りでは,飲み過ぎ,熱狂的な踊り,性的に堕落したことがよく見られた。
堕落: または,「放蕩」。このギリシャ語はテト 1:6とペ一 4:4にも出ていて,「無規律」や「荒れた状態」とも訳せる。関連するギリシャ語が同じような意味で,放蕩息子の行いに関してルカ 15:13(注釈を参照)で使われている。
詩や神への賛美の歌や崇拝の歌: 1世紀のクリスチャンはエホバを賛美する時に,聖なる力の導きによって書かれた詩を引き続き使っていた。「詩」に当たるギリシャ語(プサルモス)はルカ 20:42; 24:44と使徒 13:33でも使われていて,ヘブライ語聖書の詩編を指す。加えて,クリスチャンによって作られたと思われる「神への賛美の歌」と「崇拝の歌」もあった。パウロはコロサイの手紙で,クリスチャンが「詩や,神への賛美の歌や,……崇拝の歌」によって,教え合い,励まし合うことに言及している。(コロ 3:16)
心から: または,「心の中で」。聖書の中で「心」という語はたいてい,考え,意図,性質,気持ち,感情全てを含む人の内面を指す。(詩 103:1,2,22と比較。)こことコロ 3:16で使われているギリシャ語表現には広い意味があり,心の中で声を出さずに歌うという考えも含むと理解できる。それは,メロディーと共に神への賛美の歌に表現されている感情で心が満たされている状態。「心から」と訳されているギリシャ語表現は,心のこもった仕方で,正しい心の態度で歌うという考えを含むだろう。
音楽に合わせて: または,「音楽を奏でて」。ここで使われているギリシャ語動詞(プサッロー)はもともと,「弦楽器を演奏する」ことを意味した。「音楽を奏でる」や「賛美して歌う」という意味のヘブライ語に対応するものとしてセプトゥアギンタ訳でよく使われており,楽器の伴奏を伴う場合にも(詩 33:2; 98:5)そうでない場合にも(詩 7:17; 9:11; 108:3)使われた。この動詞はギリシャ語聖書でロマ 15:9(「賛美して歌う」),コ一 14:15,ヤコ 5:13(「賛美の歌を歌う」)にも出ている。ある辞典はこの表現を「旧約聖書の用法に沿って,楽器の伴奏の有無に関わりなく,賛美の歌を歌うこと」と定義している。
エホバに向かって歌い: このような表現はヘブライ語聖書によく出ていて,歌でエホバを賛美するという考えを伝えている。(出 15:1。代一 16:23。詩 13:6; 96:1; 104:33; 149:1。エレ 20:13)聖書全巻の約10分の1はエホバの崇拝と関係した歌で,主な例は,詩編,「ソロモンの歌」,「哀歌」。イエスの時代も,神への賛美の歌を歌うことは神に仕える人の習慣だったようだ。(マタ 26:30の注釈を参照。)コ一 14:15のパウロの言葉からすると,クリスチャンの崇拝では決まって歌が歌われていたようだ。(使徒 16:25。コロ 3:16)この節で神の名前が使われていることについては,付録C3の序文とエフ 5:19を参照。
キリストへの畏れを抱いて: 聖書でこのフレーズが出てくるのはここだけ。「畏れ」に当たる表現は「深い敬意」または尊敬を指す。(ペ一 3:2,15)それは明らかに,イエスに対して恐怖を抱いたりびくびくしたりすることではない。(ルカ 5:9,10と比較。)イエスは天の王,また裁く方としてエホバから任命されており,クリスチャンがエホバだけでなくイエスにも敬意を持つのはふさわしい。(啓 19:13-15)こうした敬意のこもった畏れを持つ人は皆,進んで従うだろう。
従……ってください: このギリシャ語表現は「自分を従わせる」という意味があると理解でき,強制されてではなく自主的に従うことを示している。パウロは,続く部分で結婚生活の中で従うことについて話す前に(エフ 5:22-33),同じ原則がクリスチャン会衆で広く当てはまるという前置きをしている。(ヘブ 13:17,ペ一 5:5と比較。)それで,平和の神がこの原則を家族の中でも当てはめてほしいと思っていることは明らか。(コ一 11:3; 14:33。エフ 5:22-24)
妻を愛し続けてください: この節でギリシャ語動詞アガパオー(愛する)は現在時制なので,「愛し続けて」と訳されている。コロ 3:19でも同じ語形が使われていて,同様に訳されている。夫は妻をずっと愛し続けるように命じられている。(エフ 5:28,33)そのようにして,クリスチャン会衆に絶えず愛を示しているイエスに倣う。
神の言葉という水で洗って: パウロは神の言葉の真理を,清める働きをする水に例えた。イスラエルの花嫁が身を洗って着飾ったように,キリストの花嫁であるクリスチャン会衆も洗われて清い状態でなければならない。イエス・キリストは結婚の準備として,会衆が道徳面でも崇拝面でも清く,汚点も傷もない状態になるようにする。(ヨハ 15:3。エフ 5:22,23,27。ペ二 3:11,14)キリストの弟子たちは神の言葉の正確な知識を持っているため,自分の考えや行いの中に汚れや傷がないかを識別できる。生活の中で聖書の原則を当てはめるなら,神の言葉が水のように働き,重大な罪からでさえ「洗われて清くなる」ことができる。(コ一 6:9-11。ヘブ 10:21,22)
愛: パウロは,ギリシャ語動詞アガパオー(愛する)をこの文脈で何度も使って,夫が妻に示すべき愛を説明している。(エフ 5:25,33)そしてその愛はキリストが会衆に表す愛と同じようなものであると述べている。(エフ 5:25の注釈を参照。)対応する名詞アガペー(愛)は,コ一 13:4-8で詳しく説明されている。クリスチャンが家庭内で示す愛は,心からの愛情とエホバ神の正しい基準に従おうとする決意が組み合わさったもの。コ一 13:4の注釈を参照。
体: 直訳,「肉」。ギリシャ語サルクスはここで,体という意味で使われている。ロマ 3:20の注釈と比較。
にしっかり付き: または,「とずっと一緒にいて」。マタ 19:5の注釈を参照。そこでは,関連するギリシャ語動詞が使われている。
深く敬うべきです: このギリシャ語動詞は意味が広く,「敬う」,「畏敬する」としている翻訳もある。この語はほかの多くの文脈で,「恐れる」とも訳される。夫は自分を愛するのと同じように妻を愛するので,妻に恐れや恐怖を抱かせたりしない。この文脈が示している通り,愛あるクリスチャンの夫は自分に敬意を払うよう妻に要求したりしない。むしろ,キリストが会衆を扱うのと同じように妻に接して,妻から深い敬意を勝ち得る。(エフ 5:25)さらに学者たちは,妻に向けたパウロの言葉は夫に対する命令形の指示とは違ってもっと柔らかい言い方になっている,と述べている。