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  • わたしは共産主義者だった
  • 目ざめよ! 1970
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目ざめよ! 1970
目70 4/8 16–18ページ

わたしは共産主義者だった

1940年代の初め,当時少年であったわたしは,共産主義についてすでに多くのことを学んでいました。わたしの父が熱心な共産主義者であったからです。わたしはスウェーデンの中流家庭に育ち,多くの少年と同じように,自分の父親を理想視していました。わたしは父を助けて,共産党の宣伝ビラを近くの家々に配りました。スウェーデンにおいて共産党は合法化されており,国会にも議席を有していましたが,世間一般には受け入れられておらず,わたしは遊び仲間からの嘲笑を忍ばねばなりませんでした。

十代の少年となったわたしは,同じ年ごろの仲間とは幾つかの面で異なっていたと思います。わたしは世界が当面している問題に関心を持ち,世界の将来について真剣に考えました。そして,共産主義の理念を学ぶにつれ,共産主義だけが苦もんする人類を救うものであると信ずるようになりました。

共産主義による平和

やがて兵役につく時が来ました。弾薬その他殺人用の道具と日ごとに接するにつれ,戦争や暴力を嫌悪する気持ちが強くなりました。スウェーデンの共産党は,軍備の実質的な縮小,そしてやがては全面的な撤廃という政策をかかげていました。これはわたしの心に訴えました。わたしは武器や戦争のない将来の共産主義世界を心に描きました。そして,おもに平和な手段によって,やがては共産主義が世界を制覇するだろうと確信しました。

兵役が終わった時,わたしは世界を改革したいという願いに燃えていました。そして,そのためには共産主義の努力を支援することが最善の道であると考えました。共産党の綱領や政策について手にはいるものすべてを読みました。帝国主義や資本主義の力がどのように砕かれ,世界の諸国民がいかにして同一形態の政府の下に統合されるか,また,いかにして世界全体が階級や所得の差のない大きな単一社会となるかを学びました。

共産党は,軍備縮小・軍事条約の解消・外国駐留軍の撤兵および外国基地の撤去・核実験および核兵器の禁止・既存核兵器の廃棄などを公約として掲げていました。わたしにとって,これは最高の政策と思えました。そして,この政策を自分も積極的に宣伝すべきだと感じました。最初に得た帰依者はわたしの年若い妻でした。妻の実家は社会民主党を支持していたのです。わたしは妻とともに,DUつまりスウェーデンの青年共産主義者の組織にはいりました。DUとは民主青年同盟の略称です。

入党

1959年の秋,わたしは共産党への入党を志願しました。共産党は大衆政党というより,精鋭を集めることを目ざしていますから,党員となるためには一定の資格が要求されます。しかしスウェーデンでは,共産主義国や共産党の非合法化されている国などに比べれば,入党の資格はむしろゆるやかでした。わたしは資格にかない,党費として第1年度分40クローラ(約2,900円)を払ったのち,党員証をもらいました。妻はまだ若すぎて入党できませんでした。

共産党員およびDUの一員として,多くの共産主義者と接する機会がありました。その中には非常に良い人々もいました。しかし,DUに加入している若者の多くが,タンスその他の余興のある時でなければ会合に出席しないことには,失意を感じました。学習会の晩にはごく少数の者しか出席しませんでした。自分の務めを果たそうとしている者はあまりいないようでした。

別の考え方に接する

わたしたちの会合で宗教問題を論ずることはありませんでした。しかし党の規約は,宗教および倫理上の信条にかかわりなく,すべての党員を寛容な態度で,また敬意をもって遇すべきことを定めています。それである日,妻とわたしがエホバの証人の訪問を受けたとき,その奉仕者に同じ態度を取ってはならない理由は見あたりませんでした。わたしたちはすぐ,関心のある事柄について会話を発展させました。特に,平和な状態がどのようにして地上に確立されるかという点を論じ合いました。

初めわたしたちは,エホバの証人が語る平和な新秩序の見込みは,共産主義者が約束しているものと非常に似ていると思いました。しかし証人は,そのような新秩序を確立し,かつ維持してゆくことは,人間以上の源によらねばならないということをわたしたちに少しずつ示しました。そして人間の建てた政治体制が平和を確立する面で次々に失敗してきたことをわたしたちに示しました。

決定の時

土地のエホバの証人の会衆ともっと親しく接しようと決めたのは,1961年の初めに開かれたある党大会においてでした。その大会で座席につき,仲間の共産党員の言動を見守りながら考えたのを覚えています。このように不完全な人々の手によって,正義を実践する人間社会をほんとうに建て,かつ維持してゆくことができるだろうか。この人々は,どんな根拠に基づいて,恒久的な平和と正義と平等を保証できるのだろうか。地上のすべての資源を平等に分配する社会に必要な各個人の正直さという点で,この人々はどんな保障になるのだろうか。そのような社会を一致させてゆくには真実の愛が必要であるのに,政策の中に愛ということばさえ使わない人々が,どうしてそのような愛を保証できるだろうか。病気・老化・死など人類全体がかかえる真に大きな問題を,この人々はどのようにして解決できるのだろうか。

そのとき突然,自分の名前が演壇で読み上げられるのが聞こえました。わたしは耳をすませました。党執行機関のある職務にわたしが選出されたのです。どうすべきでしょうか。その晩,大会の終了後,その職務を引き受けることができない旨,議長に伝えました。

その後しばらくして,わたしは党から籍を抜き,同時に,妻とともにDUを脱退しました。議長は,「信仰上の理由で脱党する必要はない。党員の中には牧師さえいるのだ」と言って,わたしたちを説得しようとしました。しかしわたしたちは,牧師を手本にする必要はありませんと答えました。

二つの道を比較する

党から離れても,共産主義との結びつきはまだ残っていました。自分たちがどんな道を進むべきかについて,まだはっきりしていなかったのです。1961年7月,いわゆるオースターショベカン(バルト海週間)が東ドイツのロストックで開かれることになっていました。これは主としてバルト海沿岸諸国の代表が集まる共産主義者の国際大会として毎年開かれるものです。わたしは妻とともに出席を計画していました。しかし困ったことに,エホバの証人の国際大会もそれと同じ週にコペンハーゲンで開かれるのです。わたしたちはロストックへ行くことにしました。

ロストックに滞在した間ずっと,わたしたちは“自分たちの大会”と,エホバの証人がコペンハーゲンで開いている大会とを比較していました。“自分たちの大会”の出席者の行動を見て,エホバの証人の行動と比べましたが,“仲間の出席者たち”の行動には失望を感ずるものが多くありました。彼らはたばこをすい,酒を多く飲み,その道徳心は高くありませんでした。争いや,いざこざがよく起きました。わたしたちは,『コペンハーゲンに集まったエホバの証人の間にこのようなことはないだろうね』,と語り合いました。スウェーデンで見たエホバの証人たちの良い行動を思い浮かべていたのです。エホバの証人はたばこをすったり,酒に酔ったり,不道徳な行為に携わったりしないことを知っていました。また,証人たちが政治問題に関して全く中立の態度をとっていることも考えました。

エホバの証人が戦争への不参加という点で一貫した態度をとってきたこともわたしたちの心をとらえました。共産主義者は戦争とくに核戦争の恐怖をよく口にします。しかしわたしたちは,なぜ共産主義者も,エホバの証人のように戦争とのかかわりを全く絶たないのだろうかと自問しました。核兵器による殺人をやめようとこれほど論じ合う共産主義者自身が,銃を持って殺人の演習をしているのはなぜだろうか。それによって殺される者になんの違いがあるだろうか。バルト海週間の間,共産主義者はバルト海を“平和の海”と呼び,バルト海沿岸諸国は無核地帯となるべきだと唱えました。しかしバルト海岸からわずか1,600キロ北東のノバヤゼムリヤで超大型の水爆を爆発させているソ連がどうしてこの主張に加わったのだろうか,と考えました。

いろいろな疑問が次々に浮かびました。もとより共産主義者がこれらの疑問に対して彼らなりの説明をすることは知っていました。しかし今,わたしたちが願っていたのは単なる説明以上のものでした。共産主義の方法がほんとうに人々を平和に生活させるのだという証拠を求めていたのです。そうした証拠はありませんでした。一方,エホバの証人の間にはきわめて好ましい雰囲気がゆきわたっていることを知っていました。それでロストックからの帰途,わたしたちふたりは,場違いの所に来ていたという点で同意しました。コペンハーゲンに行って,エホバの証人とともにいるべきであったことに気づいたのです。

1961年の秋,わたしたちは自分たちの家および生活の中から,政治関係の書物と無神論的な本のすべてを除き去りました。1961年はわたしたちにとって大きな変化の年となりました。その年の12月31日,わたしたちは,水のバプテスマを受けエホバ神に献身したのです。以来わたしたちは,幼いむすこを含め,他の人々に,神が建てる平和な新しい事物の体制について積極的に教える活動に加わっています。

最近5年の間,わたしたちは全時間の宣教奉仕者となり,時間の大半を聖書について伝道し教えることのためにささげることができました。そして1969年8月,エホバの証人がデンマークのコペンハーゲンで「地に平和」国際大会を開いたとき,わたしたちはそこに出席し,より良い体制に対する希望だけでなく,それを実現する真の手段,つまり,すでに統治する神の王キリスト・イエスの下にある,神の御国について,さらに多くのことを学びました。―寄稿

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