もし永遠に生きるとすれば,あなたは何をしますか
科学者たちは長年,人間の寿命を延ばそうと試みてきました。しばしば打ち出される寿命の目標は100年です。
多くの人は,その目標が達成されるといいと思っているでしょう。ところが,永遠に生きる見込みについて話すと,その見込みは『望ましくない』と言います。なぜですか?
彼らはこのように論じます。『永遠に生きるなんて単調なことにちがいない。することがなくなってしまう』。『永遠の生命は完全さを要求する。そして完全であることは退くつなことにちがいない。病気,問題,悪業などが少しもなければ,人々は良い事柄の価値を認めなくなるだろう』。こういう論法は理くつにかなっているように思えるかもしれません。しかしそうでしょうか。
そういう見解を口にする人の多くは,人が言っているのを聞いて口まねしているにすぎず,立止まって,自分で問題をよく考えたのではありません。
善の真価を認識するのに悪は必要ではない
たとえば病気は,健康と対照させるのにほんとうに望ましいものといえますか。妻がガンで徐々に衰弱し,死んで行くのを見守る夫に,これはどれほどの説得力を持つと思いますか。実際のところ人々は,健康だから生活に退くつするのでしょうか。環境があまりにも快適なために,また良い食物があるために,生活にあきるのでしょうか。健全な仕事が十分にあり,平和と正義が豊かなために,生活がいやになるのでしょうか。
それとも,生活を退くつなものに思わせるのは,これらとは逆の事柄でしょうか。生活をいやなものに思わせるのは,多くの病気やわずらいごとや,争いではありませんか。
そればかりではありません。健全な考えをもっていればおのずとわかるように,わたしたちの肉体の感覚を鈍くするのは,病気と老衰です。これは,飲食と活動の喜びを少なくします。
完全さは退くつなものではない
完全な状態で永遠に生きれば,ついには生きる喜びがなくなってしまうだろう,と人が言うのを聞くとき,立止まってよく考えてください。ふつうの人は,1年に1,000回以上食事をします。30歳の人は,3万回以上食事をしてきたことになります。しかしその人は,ただ数千回食べただけの時よりも,食事の楽しみが少なくなったと断言できるでしょうか。わずか一日しか絶食していないからつぎの食事はつまらない,ということになるでしょうか。いいえ。食物を楽しむのにききんによる栄養失調を経験する必要はありません。それは,9本の指のありがたさを味わうために,残る1本の指を切り捨てる必要がないのと同じです。
しかし,完全な男または女は,空腹になったり,のどがかわいたり,疲れたりすることがあるのでしょうか。たしかにあります。神の御子イエス・キリストは,地上におられたとき完全な人間でしたが,それでも飢え,かわき,疲れをおぼえました。聖書にしるされているイエスの生涯の記録を読めばよくわかります。―ヨハネ 4:6,7。マタイ 4:2。ルカ 8:22-24を比較。
わたしたちは,「完全」の意味を誤解しないようにしなければなりません。神の完全さを除けば,他のすべての者の完全さは相対的であって,絶対的なものではありません。つまり,造られた目的に適合する完全さです。完全なハンマーは,くぎを打つのにりっぱに役だちます。しかし,それをのこぎりとして使いますか。もちろん使わないでしょう。のこぎりは完全であっても,なんとか使える程度のハンマーにさえなりません。それぞれの完全さは相対的で,それが設計され,作られた目的と関係をもちます。
人間の場合も同じです。からだが飢えやかわきを感じ,また長時間の活動のあと休息を望むのは正常です。こうした身体的知覚は,創造者が人間に備えつけられたものです。
では,神の王国の正しい支配のもとで,神が,「彼らの目から涙をことごとくぬぐい去られ,そして,もはや死はなくなり,嘆きも叫びも,苦痛ももはやなくなる」という聖書のすばらしい約束はどうですか。これは何を意味しますか。―黙示 21:3,4,新。
聖書はここで,エデンにおける最初の人間夫婦の反逆とともにはいり込んだ「以前の物事」が除かれることを説明しています。この「以前の物事」とは,最初の人間夫婦の罪深い行ないが,彼らの子孫である全人類にもたらした痛み,苦しみ,そして死です。―ロマ 5:12。
聖書が述べていることは明らかに,人の目にごみがはいっても,涙腺が開いてそのごみを洗い流すことはもはやなくなる,という意味ではありません。触感,圧迫感,痛みなどの感覚をつくり出す人間の神経系統の反応についても,同じことが言えます。完全な人間でも,草の中にかくれたいばらを素足で踏むなら,完全な神経がその傷に反応しますからやはり痛みを感じます。そして,血液中に備わっている防御機構が無数の白血球とともに,傷をいやしにかかります。しかし完全な人間の場合は,それが原因で壊疽になることはありません。また完全な人間は,過酸性消化不良,かいよう,偏頭痛,関節炎,心臓病,ガンなどに悩まされることもありません。そうしたものから解放されることは,たしかにわたしたちの幸福をそこなうどころか,いっそう増すものとなるでしょう。
興味を引くものは永久にある
しかし永久に生きる人は,知力と体力を使う事柄を常に見いだすことができるでしょうか。その知性と脳力への新しい挑戦となるものを見つけるでしょうか。会話はいつまでも活気のある楽しいものでしょうか。それとも,みんなが知らないものはない,という段階にすぐに到達するでしょうか。
することも,学ぶ事柄も尽きてしまうだろうと考える人たちは,創造者がこの遊星を造られたとき,いかに巨大な,そして立派な設備の作業場と実験室をもうけられたかを,考えてみようとしないのです。現在までに,人間がつくりあげてきたものを考えてごらんなさい。コンピューター,テレビ,飛行機,ロケットなど,人間の複雑な発明品がすべて,宇宙のある遠い場所から運ばれた材料で作られていないことを,忘れないでください。そうです,それらは,わたしたちが住む地そのもの,そして地の,化学元素・鉱物・金属の宝庫から取って作られたのです。なんと広大な可能性があることでしょう。
今日では,研究により,知識が非常な速度で増加するので,個人も組織もついて行けないほどです。寿命がたいへん短いために,人々は,多くの事柄について少しずつ知るか,少しの事柄について多くを知るかのどちらかで満足しなければなりません。人々の知識は広くて浅いか,または深くて狭いかのどちらかです。多くの場合人々は,ごく狭い限られた分野での専門家になり,短い寿命が尽きぬうちに「名を挙げる」ことを試みます。科学者たちは言います。ある研究分野で,ひとつの扉を開く「かぎ」を発見するたびに,その向うに多くの他の扉を必ず発見すると。ですから,みんながなんでも知っていて,話すことがなにもないという,「物知り」ばかりで地球が満ちる恐れは確かにありません。
あなたはご自分の家をどれほどご存じですか。生まれてこのかた,どのくらいそれを見てきましたか。いいえ,あなたが住んでいる家ではなくて,あなたが住むこの遊星 ― 宇宙飛行士が「宇宙の宝石」とよぶ,太陽のこの巨大な衛星のことです。
世界旅行者たちですら,ほんとうにくわしく知るのは地球のごく一部で,たいてい主要都市と,いわゆる「おもなおもしろい場所」を知るくらいのことです。なかには,アリゾナ州のグランド・キャニヨン,ノルウェーのフィヨルド(峡江),アフリカのセレンヂチ平原,ニュージーランドはサウスアイランドの雪をいただくアルプス,タヒチの熱帯風景などを見た人もいます。
すべての高山,すべての深い渓谷,すべての滝,肥沃な谷,蛇行する川,テーブル状台地,陰の深い森,岩の荒い海岸などを見たと思っても,そうしたものはほかにもたくさんあって,それぞれが独自の美と,まなこをうばう魅力をもっています。
植物,動物,そして人々
植物学者は,33万5,000余種の植物をあげています。アメリカだけでも1,035種の樹木があります。砂漠に育成する糸ランから,堂々たるジャイアント・セコイアに至るまで広範囲にわたり,美しい色のサトウカエデ,ホワイト・アシュ,ブルー・スプルースなどもその中に含まれます。
地に咲く花の組み合わせを作るとすれば,100年間も,毎日ちがった組み合わが作れます。それでも,アサガオからオシロイバナ,かれんなケマンソウやスズランから,直径1㍍,重量7キロという大花の,インドネシアに育生する巨大なラフレシアといった,無数の種類に,ちょっぴり手をつけた,という程度でしょう。
また地に住む動物はどうですか。生物学者は,80万種を越えるこん虫はいうにおよばず,哺乳動物は5,000余種,両棲類3,000種,は虫類6,000種,鳥類9,000種,魚類3万種をあげています。
これらの生物のなかで,あなたがほんとうによく知っているのは,どのくらいですか。本や動物園で見たことがあるものも,いくらかあるでしょう。しかし,いく種類くらいの生物を彼らの自然の生息地で観察したことがありますか。その興味深い性質を見守り,それぞれの異なった性質を研究したことがありますか。たとえばハチドリは,黄玉色のハチドリ,のどの部分がルビー色のハチドリ,長さ5センチほどの小さな蜜蜂ハチドリなど400種ほどいますが,そのうちであなたがよく知っているのは何種類くらいですか。これらの鳥は生きた宝石であり,燃えるような赤,濃い紫,輝くようなオレンジ色,またエメラルド・グリーンとたま虫色の光を放ちます。あるいはあなたは,威風堂々とした巨大なコンドルや,翼幅が3.6㍍もあるアホウドリを観察したことがありますか。
陸や海や空の生物をひとつ残らず知るには,長い時間がかかるでしょう。現在の寿命では知りそめる程度にすぎませんから,それよりもずっと長い時間がかかるでしょう。
しかしながら,そうした生物よりもはるかに大きな興味の対象は地に住む人々です。人々も,容ぼう,服装のスタイル,食物の好み,建築様式,音楽,その他の目だつ特徴で,花とほとんど同じほどの多様性をもっています。完全になるということは,この多様性と個性をなくすることではありません。バラが完全であるためには,みな赤でなくてはならないということはありません。それと同じです。
地の多くの人種を知るということは,現在容易ではありません。事実,多くの場合ますます危険になってきています。しかし,聖書が約束する永遠の命は,自分の創造者と彼の真理,正義,および正しい規準を愛し,それに対して感謝の念をもつ人々だけに与えられるものです。彼らは,愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制という神の霊の実を結ぶことによって,この地球を,親切で,協力的で,寛容な,思いやりのある人々の霊の園にします。―ガラテヤ 5:22,23。
ですから,工芸,金属細工,建築,造園,室内装飾,芸道,音楽,文学などにおける彼らの才能や能力は,正しい動機にもとづいて用いられます。このことは,新しい高度な表現と美を刺激するでしょう。そのような人々に会い,その活動の産物を見,また彼らと知り合う楽しみは,絶えることがないでしょう。
神をよりよく知る
こうしたことに加えて,永遠の命は,宇宙の主権者エホバ神をいっそうよく知ることを可能にします。これほど生活をより豊かに,より満足を与えるものに,あるいはより高潔にする事柄は,ほかにありません。
人は永遠にわたり,わたしたちの創造者である神についてますます多くのことを学ぶことができますが,それでも,しりつくすことはできません。クリスチャン使徒パウロは,わたしたちの創造者にかんし,つぎのように書きました。「ああ神の智慧と知識との富は深いかな,その審判は測り難く,その途は尋ね難し。『たれか〔エホバ〕の〔思い〕を知りし…(や)』」― ロマ 11:33,34。伝道 3:11,〔新〕。
同使徒はまたエホバ神について,「それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ……」と書いています。―ロマ 1:20。
多くの惑星,星,星雲を擁する宇宙を知れば,神のおそるべき力と卓越した知恵に,疑問をさしはさむ余地はなくなります。神は最高の物理学者であり,化学者であり,数学者であり,設計師であり,建築師です。昔の詩篇作者は,感激してつぎのように書きました。「われらの主エホバよ,汝の御名は地にあまねくして尊きかな,その栄光を天におきたまへり 我なんぢの指のわざなる天を観 なんぢの設けたまへる月と星とをみるに 世人はいかなるものなればこれを聖念にとめたまふや」― 詩 8:1,3,4。
目に見える創造物が,その創造者についてあかしをするとはいえ,創造者と,その属性,目的,物事の仕方,規準をほんとうに知るようになるのは,神のことばである聖書によります。
実際に,完全な状態で永久に生きることが退くつなはずはありません。それは永久に,喜びと楽しみとおもしろさに満ちた生活となるでしょう。
それにしても,もし人間が永遠の生命をもつならば,人々はどこに住みますか。また地球は,全部の人間を養うことができますか。
[16ページの図版]
人間は一生の間に,地上の美しい場所を知りつくすことができるだろうか
[17ページの図版]
あるいはあらゆる種類の鳥や人を知りつくせるだろうか