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  • あなたのからだはだれのものですか
  • 目ざめよ! 1972
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目ざめよ! 1972
目72 1/22 5–10ページ

あなたのからだはだれのものですか

もしあなたがおとななら,この質問に対してどう答えますか。あなたはきっと,たいていのおとなと同じように,「私のからだは私のものだ」と答えるでしょう。

では,もしだれかが,あなたのために良いと考えられるある種の食物を,あなたが食べたくないのに食べるようにすすめるとしたらどうですか。その人があなたを捕えて,あなたののどにその食物を押し込んだとしたら,どう感じますか。

ある外科医が,あなたの健康に良いだろうと考えて,あなたの腕,足,目,またはある内臓を切除する手術をあなたにすすめ,あなたがそれを断わったとします。ところが,もし医師がとにかく強制的にその手術をしたとしたら,あなたはどう感じますか。

または,医師があなたのために良いと考える薬剤をあなたにすすめますが,あなたはそれを好まないとします。その薬剤は一部の人々には有効だったかもしれませんが,一方では何千人もの人々を病気にしたり,死なせたりしており,自分の信仰にも反するものなので,それを断ったとすればどうですか。もしその医師があなたを捕えて,問題のくすりをあなたに強制したら,あなたはどう感じますか。

成人なら,そうした処置に憤慨するでしょう。どんな危険を伴おうとも,自分のからだをどうするかについては,自分が最終的決定をくだすことを望むでしょう。だれかがあなたの意志に反してそういう処置を強制するとすれば,あなたは自分が奴隷か,囚人のように感じられるでしょう。それは,かの「暗黒時代」や,ナチ強制収容所のやりかたを思い起こさせるでしょう。

多くの国で,自分の身体に対する個人の権利は法律によって守られています。アメリカでは憲法修正第4条が,「自己の身体,家屋,書類,動産物件を不当な捜索や押収から守る,市民の権利は,侵害されてはならない」と宣言しています。

修正第13条は,「合衆国内には,当時者が当然有罪判決を受けねばならない犯罪の刑罰以外には,隷従も不本意な隷属も存在してはならない」と述べています。また修正第1および第14条は,信教の自由を保証しています。

「神の役は演じ」ない

一般的に言って,アメリカの官吏は,自己の身体を支配するこの基本的人権を認めています。たとえば,シンシナチのある病院と医師たちが,16歳の少女のガンにおかされた足を切断する権限をオハイオ州の一裁判所に求めたとき,裁判所はその求めを退けました。

ところが,医師たちは,手術をしなければ,生きのびる見込みはずっと少なくなると主張しました。では,なぜ裁判所はその求めを退けたのでしょうか。少女も母親も,医師に手術の許可を与えなかったからです。

この事件を扱ったベンジャミン・シュバーツ判事は次のように述べました。「少女は法廷で,手術をせずに,むしろ運にまかせるつもりであると証言した。もし足を切除すれば,一生は慈善事業のやっかいにならねばならない。生活を楽しむことも,結婚することも,義足を買うことさえもできないかもしれない,と彼女は言った。母親もそれに同意した」。

シュバーツ判事はさらにこうつけ加えました。「当法廷は,法廷の意思を気のすすまない人に押しつけることはしない。……私は命令は与えない。手術の問題は母親と娘の決定しだいである。私は神の役を演ずるつもりはない」― 1971年7月9日付,オハイオ州,マッシロンのイブニング・インディペンデント。

同様に,フロリダ州,マイアミの巡回裁判所の判事も,痛みを伴う医療を施されていた72歳の婦人に,「安らかに死ぬ権利」があるとの裁定を下しました。その婦人は致命的な血液障害に悩まされ,輸血を施されていました。その処置には,非常な痛みを伴う血管の手術が含まれていました。それで老婦人は,死んでもいいから,その治療をやめてほしい,と医師に頼み,「これ以上苦しめられ」たくないと言いました。

ディビッド・ポッパー判事は述べました。「人には苦痛をさける権利がある。……彼女が生きるか死ぬかは,私には決められない。それは神にかかっている」。同判事は,その老婦人に医療を拒否する権利があると判断し,医師たちのその治療を強制的に中止させました。

血を拒否する

この事件では,老婦人は輸血に異議を申し立てたのではありません。反対したのは,激しい苦痛を伴う,その治療方法でした。

では,もしほかの人々が輸血そのものに異議を唱えたとしたらどうですか。成人なら,そうした医療を拒否して,他の療法を選ぶ権利があるはずです。

メディカル・エコノミックス誌の共同編集者,ウィンフィールド・ミラーは,ある人々が輸血を拒否する理由のひとつを指摘して次のように述べました。「医療において血液ほど致命的な誤りを犯す大きな危険性を伴う生化学的薬剤はない。血液銀行の血液のびんが1本残らず,いわばニトログリセリン同様の危険性を宿すものであることを知って残念な思いをした医師はひとりや二人ではない」。

1971年6月14日号,ウォール・ストリート・ジャーナル誌の論説記事は,「輸血だけで毎年推定18万人のアメリカ人が血清肝炎にかかり,うち3,000人が死亡し,3万人は何週間もベッドに寝たきりになる」と述べています。

この悲劇的な数字は,輸血のただひとつの合併症 ― 血清肝炎から生ずるものです。しかしながら,合併症はほかにもあるのです。「外科処理における合併症」という本には,「輸血の合併症による蓄積死亡率」という見出しのもとにこうしるされています。

「輸血のわずか三つの合併症(溶血反応,血液過剰,血清肝炎)による年間死亡者数は,1万6,500人と計算されている。この数字を出すにさいして用いられたいくつかの仮定は挑戦に会うかもしれないが,この処置が多くの人命を奪い,病気を誘発する事実に対しては,異論をさしはさむ余地がない……廃疾や人命の喪失という点から見て……輸血はわれわれの大きな健康問題のいくつかに匹敵するものである」。

一例として,イリノイ州最高裁判所は,1971年のはじめ,患者が輸血から肝炎にかかった場合,病院はその損害賠償をする義務を負わねばならない場合があるという裁定をくだしました。

こうした事柄を考えるとき,輸血を望まぬ成人に輸血を強制すべきでしょうか。道理をわきまえた人なら,そうした危険性をもつ製剤に関して,しかもそれが当人の信仰に反するものであればなおのこと,成人には当然選択権があることを認めるでしょう。

患者の要求を尊重する

多くの医師は患者のこの選択権とその行使を認めます。たとえば,1970年のこと,心臓病専門医チャールス・W・ピアース博士は,あるエホバの証人の心臓切開手術を,血を用いずに ― それが患者の要求だったので ― 行なって成功しました。傍観者たちは,その患者の急速な回復ぶりに驚きました。ルイジアナ州,スライデルのセントリー・ニュース紙は次のように伝えました。

「この方法は,ひとりエホバの証人のみならず,心臓切開手術を受ける患者の大多数にとっても大恩恵となると信ずる,と同外科医は述べた。『われわれはこの技術を先天性心臓欠陥の切開手術百例に続けて用いた。死亡はわずか一件だけだった』と彼は説明した」。

ピアース博士の話によると,血を使わないことによって,伝染性肝炎にかかる可能性と,アレルギー反応の危険は,事実上除かれました。そのうえ博士は,血を使うと,手術の直後しばらく,心臓,肺,腎臓の機能の衰える場合があることを指摘し,「しかし[血を用いない]この方法を講ずると,それらの器官の働きはほとんどいつも満足すべき状態にある」と述べました。

これは,広く知られている心臓外科医デントン・クーレー博士と,そのチームであるテキサスの医師団が行なってきたこととよく似ています。1970年12月6日付,アリゾナ・リパブリック紙はそのことについて次のように伝えました。

「心臓の手術中に起こりうるあらゆる事態のうち,常に最大の問題の一つとなってきたのは,輸血の合併症であった。患者は,肝炎,ショックにつながる反応,輸血した血が患者の血液型と合わないおそれなどの危険にさらされる。しかし今やこの問題は,ヒューストンの一医師団によって解決されたように思われる。彼らはただ輸血をやめただけである。

「この思いきった処置をとったのは,有名なデントン・クーレー博士のひきいる外科医のチームであった……

「この処置は[エホバの]証人の患者の手術にさいして効果を発揮したものであるが,現在,同外科チームは心臓患者すべてに用いており,手術後の合併症の減少という結果をもたらしている。

「『われわれは,いかなる状況のもとでも輸血をしない,という契約をエホバの証人と結んでいる。したがって,エホバの証人の患者は危険を覚悟している。彼らのためにはわれわれは手元に血を用意することさえしないからである』とクーレーは言う……

「『われわれはエホバの証人の患者に生じた結果にすっかり感心させられたので,この方法を他の心臓病患者すべてに用いることにしたのである。われわれは驚くべき成功を収めたので,[心臓]移植にもこの方法を用いた』とクーレーは語る」。

こうした医師たちは患者の要求に耳を傾けます。そうするのは唯一の正しい道であることを理解しているのです。また,益も刈り取りました。以前には知らなかったことを学んだからです。しかも,ある医療を拒否したためになんらかの危険があれば,患者は甘んじてその責任を負うのです。もっとも,それは当然のことです。

「暗黒時代」に類する決定

それにもかかおらず,ニュージャージー州最高裁判所は1971年7月,これとはまさに逆の判断を下しました。事故にあった,正常な精神の成人,22歳のデロレス・ヘストンに輸血を強制する下級裁判所の命令を支持したのです。

ヘストン嬢は,どんな状況のもとでも輸血をしないでほしいと,くりかえし医師その他の人たちに告げました。彼女は,意識を失った場合のために,同じことを書いたカードを身につけてさえいました。しかし,その願いは完全に無視されました。下級裁判所は強制的に輸血することを許可したのです。目撃証人のトマス・キーニーは,彼女が強制的に手術室に連れていかれたときの模様に関する次のような公証記録を提供しました。

「ベッドに移されるあいだ,彼女は,『私を放っておいて私を放っておいて』とずっと叫びつづけた。

「彼らがデロレスを車に乗せて廊下をひいて行くあいだも,彼女はずっと,『私をほっておいて』と叫んでいた。

「ドロレスはまた,『だれか助けて! やめさせて!』と叫び,かまわないでほしいと再三くり返した。また,車で廊下を運ばれたさい,廊下に立っていた[友だち]ボブ・ディナルドのそばを通りかかったとき,『ボブ,助けて』と彼に言った。彼女は手術室に入れられるまでずっと叫びつづけた」。

別の目撃者の証言によると,手術室のドアがとざされたあとでさえ,彼女の抵抗する声が聞えたということです。しかし,助けることはできませんでした。裁判所の命令は,力づくでも,必要なら警官の助けを借りてでも実施できるからです。

こうして,ヘストン嬢は取り押えられたうえ,当人が徹底的に反対した医療を強制的に施されました。法律は,婦女子を捕えて犯す者を犯罪者,強姦者とよびます。では,この女性を取り押え,当人の意志を無視して,その身体を犯し,同様のことをした医師や官吏たちについてはなんというべきでしょうか。これはまったく「暗黒時代」か,ナチ強制収容所でのできごとのような話です。

ヘストン嬢が事故に会ったのは事実です。医師たちは,輸血をしなければ死ぬ,と感じたのでしょう。しかしこれまでも多くの人が医師からそう言われてきましたが,輸血を拒否した人たちのほとんどは生きのびました。たとえ生きのびなかったにしても,輸血を受ける受けないは,本人の決定すべき問題でした。

肝炎だけで障害を起こして死亡する人が18万人もいるという恐るべき数字を見ればわかるとおり,輸血を受ける,あるいは受けない場合のいずれにも確かに危険があります。しかしここで争点となっているのは,どちらの危険を覚悟するかを決定し,その結果に甘んじる権利が個人にあるということです。

矛盾

問題のニュージャージー州最高裁判所の見解はジョセフ・ウェイントローブ裁判長によって書き著わされました。それで,3年ほどまえ(1968年12月3日),ペンシルベニア州イーストンのエクスプレス紙にのせられた次の記事には興味深いものがあります。

「ニュージャージー州最高裁判所長は月曜日,『出所のいかがわしい』血液を輸血に『使っている』ということで,病院と営利血液銀行を強く批判した。

「最高裁判所長ジョセフ・ウェイントローブのこの批判は,プレインフィールドに住むファンニー・ルー・ジャクソン夫人の事件の審理にさいして述べられたものである。

「ジャクソン夫人は輸血のために肝炎にかかったと主張し,プレインフィールドのミューレンバーグ病院と,ニューアーク市のイースタン血液銀行を相手取って訴訟を起こしている……

「『あなたがたは,二,三ドルの金をせしめるために過去の病歴を平気で偽わるような,赤線区域に住むのんだくれやなまけ者から血液を得ている』と裁判長は病院と血液銀行の弁護士たちに言った……

「裁判長は,わが身に注射針をさして肝炎の危険に身をさらす麻薬中毒者から採血された血液の使用を特に憂慮すると述べた」。

それにしても,1971年のヘストン嬢の事件で,同判事は,輸血を「純然たる確立された処置」と呼んだのです。同判事はもっと分別があってしかるべきでした。3年前の彼自身の証言や,この面でさらに深い知識をもつ権威者たちが医学雑誌にきわめて詳細に書いてきたことから考えればなおのことです。

意見書のなかでウェイントローブ判事はまた,『自殺未遂は普通法上の罪であって,ニュージャージー州法のもとでは現在,無法者の犯罪と考えられている』ということも指摘しました。しかしどこに自殺未遂のなんらかの証拠があったのですか。そんなものは一つもありません。ヘストン嬢は死ぬことを望みませんでした。自殺を計ったこともありません。それどころか,医療を受け,必要なら手術も受けたいとさえ考えていました。血液の代用物質数種類を含め,自分がよいと思う医療を受けることにはなんの異存もありませんでした。

しかし,人命を奪うということについて言うならば,毎年,輸血が原因で死亡する何千もの人々についてはなんというべきですか。もし,輸血を受けずに死の危険をおかすことが犯罪とされて法廷命令が出されるのであれば,輸血のために殺された患者の医師たちを逮捕する法廷命令をなぜ出さないのでしょうか。結局のところ,そうした医師たちは,毎年多数の人命を奪い,幾千人もの人々に障害をもたらした点で責任があるのです。輸血拒否は違法行為と考えられ,毎年何千もの人々を不具にしたり殺したりすることは合法と考えられているのでしょうか。輸血を拒否する人を犯罪者とみなし,殺人者は犯罪者でないと考えるのは道理にかなっていますか。

動機は常に純粋とはかぎらない

輸血がよいと考える医師をも含め,大多数の医師は,誠実な見方をします。それにしても,決してまちがいをしないとは言えません。また実際にまちがっている人もいます。なかには,医学の分野における,とりわけ血を用いずになしうることに関連した最新の発見に単に気づいていない医師もいます。またあまりにも誇りすぎて,自分が無過誤な人間でないことを認めようとしない医師,患者の権利などには一向に意に介さない医師もいます。

一部の医師には,動機と誠実さが疑わしい人がいます。なぜなら,人命を救いたいから輸血をするのだと言いながら,回れ右したとたん,堕胎手術を行なったり,あるいはそれに賛成したりするからです。それは命を取ることです。ニューヨーク市だけでも毎年なんと16万5,000人の命が取り去られているのです。母親たちが輸血を拒否したために16万5,000人もの赤ん坊が死んだとしたら,どんな騒ぎが生じ,どれほどの法廷命令が出されるかを想像してごらんなさい。しかし,堕胎によって命を奪われるのは胎児であり,抗議できるおとなではないばっかりに,この合法化された殺人行為は,多くの医師によって行なわれているのです。

喫煙は肺ガンを発生させて多くの人命を奪い,アルコール中毒はさらに多くの人々の命を縮めています。だからといって,医師は法廷命令を得て喫煙者やアルコール中毒者を捕え,強制的に医療を施しますか。そんなことはしません。有害なことがこれほど明らかな習慣でさえ,それが輸血を拒否するために死ぬかも知れない人の何千倍もの人々を殺しても,そうした習慣をやめるやめないは個人の自由にまかされているのです。事故で毎週平均1,000人以上が死亡し,その40倍もの人々が負傷するからといって,人々の車の運転を禁止する法廷命令を取りつけることを真剣に提案する人がいるでしょうか。

ですから,よしあしは別として,危険を伴う習慣はたくさんあります。個人には,その危険を甘受するかどうかを決める権利が付与されているのです。ではなぜ,輸血を拒否する彼女の場合だけを取り上げて,当人が望まぬ医療を強制するのでしょうか。とりわけ,その治療自体危険で,彼女の信仰に反するばかりか,当人はそれに代わる医療なら進んで受ける気持ちがあるというのに。

1971年8月9日号,ニューズウィーク誌にのせられた一記事は,患者の権利に対する一部の医師の考え方に言及しています。南アフリカのクリスチャン・バーナード博士がある人の心臓と二つの肺を別の人に移植したあとのこと,同記事は次のように伝えました。

「同じ日の午後,死んだ提供者ジャクソン・グンヤの妻ロサリン・グンヤは,涙を流しながら,グルート・シュフール[病院]当局は,夫の臓器を摘出する前に夫の死を知らせてくれなかったし,まして移植の許可を求めることなどしなかった,と記者に語った。『私は決して夫のからだから心臓を取り出すことなど許さなかったでしょう。こんなひどいことがあるでしょう』かと彼女はむせび泣いた」。

病院当局は,グンヤ氏が既婚者だとは知らなかったとは言いましたが,グンヤ夫人は,夫の死去の前夜,夫を尋ねていたことが知られています。また報道員は,死者の親族をさがし出すのに30分もかかりませんでした。その気があれば,医師たちにも同じことができたのではないでしょうか。南アフリカのケープ・タイムス紙は社説でこう述べました。「[バーナード教授が]『わたしたちは彼が独身だと思っていた』と言ったことが記録に残ったのは残念なことである。いくらアフリカ人の独身者でも,兄弟や姉妹たちがいる」。

ですから,正しい動機をもち,患者の要求や権利を尊重する医師や官吏が多数いる一方,尊重するどころか,踏みにじる人たちもいるのです。今日,そうした態度の人間が存在しうるということは,考えねばならない事柄です。このことからすれば,一部の人たちの考えは,「暗黒時代」やナチ強制収容所の精神からさほど隔たっていないことがわかります。

しかし,神から与えられた選択権を患者から奪う者は,特にその選択権が神と当人との関係にかかわるものである場合には,みずからの行為をいつか申し開きしなければならないでしょう。しかもほかならぬ神に対して申し開きしなければならないのです。その時には,法廷命令を得るために裁判所にかけつけるわけにはいきません。なぜなら,裁判所はもはや権威を有さなくなるからです。そのかわりに,そうした人々は宇宙の最高の審判者と正面衝突して恥辱をこうむり,永久に失せてしまうでしょう。―申命 32:35,41。

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