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目ざめよ! 1971
目71 6/22 13–14ページ

窮地に立たされる医師たち

アメリカ,イリノイ州の病院当局者と医師たちは,1970年の後半に高等裁判所が下した判決に大いに驚かされた。彼らのろうばいは全米の医師たちの大きな反響を呼んだ。

これほどまでに彼らを動揺させた判決とは,いったいどんな判決だったのだろう。イリノイ州の最高裁判所は,患者が輸血から肝炎にかかる場合は,病院に損害賠償の義務がありうると判定したのである。

この判定に多くの医師はショックを受けた。しかし,実際にはそれほど驚くべきことではなかったはずである。なぜかというと,輸血は患者を害し,殺すことさえあるという証拠が,ここ数年の間に膨大な量に達しているからである。

医療界の新しい事情にくわしい医師たちはこれが事実であることを知っている。「メディカル・エコノミックス」誌の編集者ウィンフィルド・ミラーは次のように述べている。「医業において輸血ほど大きな致命的過誤の危険性をはらむ生化学的物質はない。血液銀行の血のびんがすべてニトログリセリンのびんと化す可能性のあることを知って,嘆いている医師はひとりやふたりではない」。

医学当局は,アメリカだけで毎年約3,000人が輸血による肝炎で死亡することを認めている。さらに,重い肝炎にかかる者は3万人,軽い者はその数倍に上ると推定されている。輸血による他の併発症で死亡したり,病気になる人もいる。

そうした死や病気のゆえに,近年,医師や病院に対して訴訟を起こす事件がふえている。アメリカで全国的に知られている血液学者レスター・アンガー博士は,「私の記憶では今ほど輸血を原因とする訴訟事件の多かったときはない」と言った。

重大な意義をもつ訴訟は,イリノイ州最高裁判所に提出された訴訟であった。事件はフランシス・クニンガムに関係していた。この夫人は1960年,貧血症の治療のためイリノイ州バーウインのマクニール・メモリアル病院に入院した。そして治療の一環として数パイントの輸血を受けた。ところが血液が汚染していて,重症の血清肝炎にかかった。彼女は5万ドルの損害賠償を要求して病院を訴えた。

下級裁判所は彼女の訴訟を棄却した。しかしクニンガム夫人は上級裁判所に上訴した。彼女の弁護士たちは,売り手は自分の生産品の安全性に対して責任があるとされた他の判例をいくつか引用した。血液はひとつの製品である。したがって病院はそれに欠陥があるときには責任を取るべきである。と彼らは論じた。

イリノイ州最高裁判所はその意見に同意した。そして,製品の売り手は「その製品に起因する損害に対して法律的に責任を取るべきであり,全く何の過失もない個々の消費者に損害を負担させるべきではない」と判定した。アメリカ法廷専門弁護士協会もその判定に賛成した。教会,学校,Y・M・C・A・孤児院などもこの責任を免除されていないのであるから,病院も責任を免除されるべきでないと彼らは指摘した。

最高裁のジョン・カルバートソン判事は,血は『製品』ではなく『奉仕』であったのだから病院が起訴される理由はないとする抗弁を却下し,血液は「人間の使用に供される自然の状態のままの」他の品物と同様ひとつの製品であると判定した。イリノイ州の法律では,毒キノコの配給者は,キノコが「調理,かんづめ,袋づめその他の方法で処理されていなくても」その害に対して責任があるとしており,同判事はそのことを指摘した。

この判決が下された結果,医師たちは多くの訴訟事件が自分たちを襲ってくるのを感じている。しかし彼らは自分以外にだれをとがめることもできない。何年ものあいだ彼らは,輸血を必要としない証拠があるときに,それが絶対に必要だと主張として輸血を強行してきたのである。血以外の多くの物質が十分役にたっている。

ヒューストンにあるテキサス心臓研究所の心臓専門医陣は,1970年8月10日号の「アメリカ医学協会誌」の中で次のように書いている。(デントン・クーレイ博士も同研究所の一員である。)「あらゆる手術において,可能な時はいつでも輸血をしないのがわれわれの方針である。……輸血は導管手術に必要な付きものではなく,かえって肝炎の危険を招くなどの不利な点をもつことをわれわれは発見した。……輸血を拒否する患者は,通常,重大な危険をおかすことなく大手術を受けることができ,手術後の経過もよい」。

医師はこうした発見を考えに入れて,血の使用をすいせんするにしても,それを拒否する患者の権利も尊重されるべきことを忘れてはならない。そしてアメリカの裁判所はだいたい同じ意見をもっており,患者はどんな治療でも,自分が望まぬならそれを拒否する権利をもつと判定している。

医師の働きはたしかに貴重なものである。患者のために示すその尽力と援助は称賛に価する。しかし医師が患者の願いを無視するならば,もはや患者を助けていることにはならない。そのような医師は,自分がほんとうに気にしているのは何か ― 患者か,それとも自分の職業と評判か,自問してみるとよいだろう。

良心的な理由から,危険のひそむ輸血を拒否した患者に対して,いっさいの治療をことわった医師も少なからずいる。なんの助けも与られないので,ある患者たちは自分の希望を入れてくれる医師のいる病院へ移らねばならず,その間に貴重な時間をむだにさせられた。また,『命を救う』ためといって,おとなや子どもに輸血を強制する裁判所命令を得ようとした,あるいは,それを実際に得た医師もあった。しかしその同じ医師が一方では,命を断つ中絶手術を行ない,またそれをよしとするのである。控え目に言っても,そうした行動は首尾一貫していない。

そういう医師の場合,どこに問題があるのだろうか。パロアルト市のアービン・ニコルス博士はこう言った。「われわれの態度の中には,……患者が自分の命令に応じないなら……といううぬぼれに関係したものがある,と私には思われる」。ロサンゼルスのジョン・モートン博士も同じ意見である。「われわれはうぬぼれから,われわれのすすめが受け入れられないのなら,患者はよそへゆくべきだと,考えすぎるのかもしれない」。

しかし今,輸血の危険に立ち向かわない医師たちは,深刻なジレンマにおちいっている。彼らはおそらく高価な訴訟に直面することになるだろう。

患者の福祉を気づかう誠実な医師は,自分が患者の主人ではなく,実際には雇われている者であることを認める。自分たちがすすめることも自由であれば,患者がそれを受け入れ,あるいは拒否することも自由であることを理解している。そしてすすめが拒否されるとき,それに代わる,彼らが知るかぎりの最善の治療法をすいせんする。彼らは最善をつくして患者を助ける。そのような思いやりのある医師の働きに対して,病人はほんとうに感謝するのである。

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