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目ざめよ! 1973
目73 2/22 10–13ページ

人道に反する恐ろしい行為

マラウィで無防備の少数者に対して犯されてきた行為は,この国の内外を問わず,慎み深い人びとに衝撃を与えてきました。

その暴虐行為は1972年の中ばごろ,小規模な仕方で始まりました。そして,同年秋には恐るべき規模に達しました。当初,マラウィ唯一の政党,マラウィ会議党の年次大会に続いて,暴徒行為に訴える機運があおられました。同大会はエホバの証人を激しく攻撃する内容の三つの決議を採択して幕を閉じました。7月以降,同党の好戦的な青年同盟とその青年開拓者運動の会員たちが先頭に立ってエホバの証人を苦しめ,今や証人たちに対する実質上の戦いを行なうようになりました。彼らは十数人から多い時は百人もの集団となって,棒や投げ棒,パンガやおのなどで武装して村々をめぐり,エホバの証人を捜し出しては襲いかかって証人たちの所有物件を侵害しました。

サンフランシスコ・イグザミナー紙(1972年10月17日付)の常時特約寄稿家ガイ・ライトはその実情を,「信仰に対して力で対抗する,あまりにも一方的な戦い」と評しました。しかし,彼らの信仰は残虐行為などで打ち破られるものでないことを証人たちが次々に実際に示したので,信仰のほうが事実上いっそう強いものであることが実証されました。

ここに,引き起こされた残虐行為に関する目撃証人の何百件もの報告のほんの幾つかの例を掲げます。

● リロングウェのカルズィ村のディビィッド・バンダの報告は,各地の村で生じたできごとの典型的なものといえるでしょう。「国会議員のひとり,ギデオン・バンダ氏が公開集会にやって来て話をしたのは,9月23日のことでした。わたしの家はその集会場のすぐそばでしたから,拡声器から聞こえてくる話をほとんど全部聞き取れました。その集まりでバンダ氏は,先の年次集会で論じられたことを述べて話をはじめ,次いでエホバの証人に関する問題を論じました。そして,エホバの証人は党員カードを買わないのだから,証人たちを過酷に取り扱うべきであるという同年次大会の決議について述べるのを私は聞きました。

「9月25日の晩のことでした。スウィラ兄弟が私のところにやって来て,若者たちが幾つかの群れとなって,いっしょにやって来るのを見たと伝えてくれたので,私たちはすぐさま兄弟たちに危険を知らせることにしました。しかし,私たちが行動を起こす間もなく,若者たちは攻撃を始め,証人たちの家々の窓や戸を叩き破り,兄弟たちをだしぬけに襲いました。私たちはみな四方に逃げたので,おのおのがどうなったかは知るよしもありませんでした。それに,すっかり暗くなっていました。私は身をひそめ,翌朝早く警察に行って事情を報告しました。警察は私の訴えを聞くどころか,私を追い返すのでした。私がまだその警察にとどまっていたとき,他の会衆からも兄弟姉妹が続々とやって来て,同様の事件について報告しましたが,警官は,各自自分の村へ戻れと命じるだけでした」。

しかしながら,それらの証人たちは身の守りとなるものがないので,村には戻らず,市場に行きました。ディビィッド・バンダはそこで起きたことをこう述べています。

「それらの証人たちが市場に行ったということを聞くや,若者たちもそこにいって,兄弟姉妹を棒や握りこぶしでなぐり,からだ中をけりました。警察はそうした暴行をやめさせる何らの処置も講じませんでした。次いで,リロングウェの町中で暴力行為が繰り広げられました。それでも兄弟たちはどうにかしてのがれ,私たちはやっとザンビアに逃げました」。

● マウァル村のエバンズ・ノアはこう述べました。「1972年9月18日,私は兄弟たちのひとりを尋ねに行きました。すると一台の車が近づいてきました。その運転者はマラウィ議会の議員,ガムファニ氏でした。そのそばには若者が2人いました。同氏は私を捜していたようでした。というのは,彼らが近づくなり,『あいつがいる』とひとりの男の言うのが聞こえたからです。ガムファニ氏は車を止めるなり,同乗するよう私に命じました。それから,車を警察に回しました。彼は私が党員カードを持っていない理由を問いただしたのち,警官に私を拘留するよう命じ,私は7日間留置されました。その7日間,食べ物も水もいっさい与えられませんでした。

「私のからだが弱ったのを見て取った警官は,草を食べ物に変えて見ろと言って私を嘲笑しはじめました。ついに,警察側はどうしても私に党員カードを買わせることができないのを知って,私を釈放し,自分でどうにかして家に帰れと命じました。何も食べていなかったので私は弱っていましたが,35㌔余の距離を歩いて,どうにか無事に家に着きました」。

ところが,それからほどなくしてエバンズ・ノアと他の十人の証人たちは自分たちの村を捨ててマラウィを去らねばなりませんでした。

● マラウィの主要都市,ブランタイア地区でリチャディ・ニヤスル,グレイソン・カピニンガと他のエホバの証人たちは,マラウィ会議党の南部地区の本部に連行され,党員カードを買わない理由を問われました。自分たちは聖書の信仰ゆえに政治的な関係はいっさい持たないことにしていると答えたところ,証人たちは,青年開拓者と青年同盟の会員およそ16人に引き渡され,彼らはかわるがわる証人たちをひとりびとり殴打しました。それでも証人たちが党員カードを買うのを拒んだところ,若者らは塩と唐がらしをまぜたものを証人たちの目にすり込みました。ある人たちは,釘のささっている厚い板で背中やでん部を打たれました。痛さを表わした人は,さらにひどく打たれたあげく,「神に来てもらって救ってもらえ」と言われました。そのうえ,彼らは1本のびんを割って,割れたガラスの破片で何人かの男子の証人たちの『ひげをそり』ました。9月22日,ブランタイア地区のジャステニ・ムクフナは殴打されて,ついに片腕を折られました。

● マラウィ湖南端のケープ・マクレアで,証人のひとり,ゼルファト・ムバイコは草の束をからだに結きつけられ,その草に石油をかけて,火をつけられました。彼はやけどがもとでなくなりました。

だれも容赦されなかった

暴徒のしわざは残忍をきわめ,エホバの証人で年齢や性別のゆえに容赦された人はいませんでした。リロングウェからは全員がのがれえたわけではありません。たとえば,証人のひとり,マゴラ夫人は身重だったので,速く走ろうにも走れませんでした。彼女はマラウィ会議党の党員に捕えられ,市場の近くで多数の町民の目の前で激しく殴打されて死亡しました。だれひとりとして彼女を助けようとはしなかったのです。どうして介入しなかったのかと問われた一警官は,『警察の権力は奪われてしまったからだ』と答えました。

● ブランタイア南部のタトンダ地区ではスミス・ブバラニとその年老いた母そのほかエホバの証人の男女が青年同盟の会員たちに殴打され,失神したまま地面に放置されました。青年同盟の会員のひとりは証人たちのポケットをさぐって,ある証人のお金を見つけ出し,それから,そのお金で証人たち各人のために党員カードを買ってきて,それぞれの証人の名前を書き込み,地面に横たわっている失神した証人たちのそばに投げつけました。そして,青年同盟側は,証人たちは今や屈服し,信仰の点で妥協したと言いました。ところが,スミス・ブバラニの母が意識を取り戻して党員カードを見るなり,たとえ死んでも党員カードは受け取らないと断わりました。すると人びとはまた彼女を殴打し,再び失神させました。

● ムチンジのクエレ村の73歳になるイズラエル・フィリはこう述べました。「1972年の7月中,私たちはマラウィ会議党が党員カード検査運動を全国的に開始する予定だという噂を聞きました。そうなれば,エホバの証人は苦境に立たされるということがわかったので,私たちは村を離れて森林地区に身を穏すことに決めました。私たちエホバの証人は全部で30人でした。私たちは森林地区に2か月間とどまっていましたが,10月5日,突如私たちは大勢の若者たちの一団に取り巻かれてしまいました。それら若者たちはみな,私にとっては見知らぬ人でした。

「私が歩いて逃げようとすると,数人の若者が私をつかまえて,私を棒で打ったり,私のからだを所きらわず蹴ったりしはじめました。他の兄弟たちがどうなったか見届けることは私にはできませんでした。ついに暴徒は私を失神させて地面に置きざりにしました。意識を取り戻したのち,他の兄弟たちを捜そうとしてみましたが,兄弟たちを見いだせないまま,私はマラウィを去ってザンビアに行くことにしました。私はからだ中がはれて,両眼は出血であふれていましたが,それでもエホバの助けを得て,何㌔かの道のりを歩き,ようやくのことでザンビアのサマンダ病院にたどりつくことができました」。

● ブランタイア南東のカブンジエ村ではエホバの証人の男女全員が激しく打たれたあげく,裸で道を歩かされました。彼らの子どもたちのひとりは,殴打されて死にました。マラウィ北部のヌクホタコタでは,妊娠中の証人の一女性が衣服を脱がされたうえ,激しく打たれました。会議党の地方の一指導者は子どもたちに命じて彼女の腹部を蹴らせました。それは流産を起こさせようと考えてのことでした。

胸の悪くなるような性的暴行

エホバの証人の女性に対する性的暴行の例はあまりにもおびただしいうえに,その詳細をここに述べるにはあまりにもいまわしいものがあります。その典型的な例を次に掲げましょう。

● カスングのモトンソ村の17歳になるラハブ・ノアは述べました。「1972年9月26日,私たちは,若者たちが村々を回ってエホバの証人を襲い,証人たちの家や資産を破壊しているという知らせを受けました。兄弟たちは,まず森林地区にのがれて身を穏し,それから夜ザンビアに逃げるべきだと提案しました。5人の姉妹と3人の兄弟たちでなる私たち一行は無事に村を出たのですが,狭い道の途中で20人ほどの一群の人びとに出会いました。彼らは党員カードを見せるよう要求しはじめました。私たちはひとりとして党員カードを見せることができなかったので,彼らは棒やこぶしをかざして私たちを打ちはじめました。次に,私たち全部を裸にして,さらに打ち叩きました。それから,10人ほどの一群の若者が私をわきへ押しのけ,私は他の人たちから離れた所に連れてゆかれ,数人の者たちに手足を押えられたうえ,他の者たちによって強姦されました。私は8人の者がひとりずつかわるがわる私を犯すのを見ました。それら一群の人たちの中には私たちの知っている人はひとりもいませんでした。彼らは私をさんざん打ったあげく,私たちを放置して去ってゆきました。あとでわかったのですが,私たちのグループの他の4人の姉妹たちもやはり強姦されました」。

● リロングウェのニヤンクフ村のフナシ・カチパンディは彼女の経験をこう述べています。「1972年10月1日,エホバの証人が襲われているという報告を聞いたので,私はザンビアに逃げることにし,直ちに,19歳になる娘デイルズ・カチパンディを連れて家を出ましたが,ほどなくして見知らぬ若者たちの一団につかまりました。彼らは党員カードを見せるよう要求しましたが,私たちは見せることができませんでした。彼らは私たちを連れ戻して,チレカ市場の近くの自分たちの事務所に連行しました。そして,私の目の前で5人の若者がかわるがわる私の娘を輪姦しました。ついで,そのうちのひとりが私をつかまえて,地面に倒したのです。私は妊娠9か月の身重で非常に弱っていましたので,私を犯すようなことをしないでほしいと訴えましたが,その男は一片の人情も示してはくれず,私の娘の目の前で私を強姦しました。それから,彼らは私たちを置いて去って行きました。私はこれらのことを警察に報告しました。警察側は私たちの述べたことを記録に取っただけで,何もしてはくれませんでした。翌朝,私は子どもを生み,それから同じ日のうちにザンビアに向かい,途中何度も休んで,ようやくザンビアに着きました」。

他の多くの事件の場合,犠牲者は暴徒の名前を知っていました。その中には,マラウィ会議党の要職者もいました。

● カムフィンガ村ではグゥズィ村のマティリナ・チツロはマラウィ会議党の支部の議長カチゴンゴによって強姦されました。1972年10月2日,ムコムベ村ではベレニカ・ホスィテニが,同党地方支部の議長と書記の手で同党の事務室に一晩中監禁され,そのふたりによって強姦されました。その同じ事務室で,ネゼリヤという名の別の証人は7人の男によって輪姦されました。ザンビアにのがれたそのふたりの女性は,こうむった身体的な虐待のため入院して手当てを受けました。

繰り返して述べますが,これらの事件は例外的なものではありません。記録された何百件もの事件のほんの一部にすぎないのです。

しかし,エホバの証人に対してなされた今回の全国的な規模の攻撃には,1967年当時に始まって証人たちを苦しめた以前の迫害よりもなおいっそう重大な意味を持つもう一つの著しい事がらが見られるのです。

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