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目ざめよ! 1973
目73 5/8 8–13ページ

看護婦になるとはどういうことですか

「目ざめよ!」誌編集者に語られた体験

私は西インド諸島のジャマイカに生まれ,1940年代の後半に,そこで看護婦になりました。それはまだ私が10代の時でした。ですから私は24年間,ジャマイカとアメリカで看護婦をしてきたことになります。

私は何千人もの,ありとあらゆる病気の患者を看護してきました。手術室の中でも働きました。事故でずたずたになった人の世話もしました。また,死んでゆく人たちを慰めることや,その他看護婦に与えられている数々の仕事をし,病人の看護につきもののいく多の哀歓を経験しました。

「どうしてこの職業を選んだのですか。私なら看護婦にはとてもなれない」とよく人から言われます。「看護婦になるには生まれつきその素質がなければだめだ」という人もあるでしょう。しかしそうでしょうか。

むずかしい仕事

良い看護婦になるには,相当の教育と訓練が要求されます。また勇気と,仲間の人間を助けたいという意欲も必要です。伝染性の病気にさらされますから健康の管理も重要です。しかし,良い看護婦というのは,患者に対してとりわけ同情心が深く,患者の必要を満たすために自分の身をいとわない人です。

とはいえ,言うはやすく,行なうはかたいものです。看護婦にしてみれば,毎日毎日が,そして来る週来る週が,病気に苦しむ人や,時にはひん死の病人の世話の明け暮れです。そのために気が強くなって,患者が困っていてもそれに無関心になる恐れがあります。しかし,そうなるまいと思えばならずにすみます。患者の状態に深い同情を寄せる看護婦もたくさんいます。

私も数年前に,ニューヨークのブルックリンにあるカーソン・ペック・メモリアル病院で看護した,ひとりの若い患者を思い出します。その人はまだ36歳そこそこのやさしい人でした。3年ほど前にその人は,がんで乳房を切除してしまいましたが,再びがんの手術を受けました。見たところ病人だとは思えませんでしたが,がんはからだ中に広がっていました。

私はその人にほんとうに同情しました。というのは,その人の生きようとする意志は非常に強かったからです。その人は自分が死ぬということを一度も認めなかったと思います。しかし,二度目の手術をしてからは5週間ほど生きていただけでした。ご主人とお母さんが見舞いに来るときには,ふたりが彼女の病状を知っていただけに,哀れを誘われました。患者が徐々に死んでゆくのを見守り,またその親族の深い悲しみを見るのはほんとうにつらいものです。

とくにつらいのは,患者が自分は死なないと考えて将来のことをあれこれ計画しているのに,こちらはその患者に死の兆候が現われているのを知っている,というときです。看護婦は感情を表わさないように努力します ― 時にそれは必要です。ですから私は,病室から出なければならないこともあります。

そういう場合は悲しいだけでなく,ざせつ感も伴います。ブルックリンのセント・ジョン・エピスコパル病院に入院していた50歳くらいの患者のことを思い出します。その人は二週間前に激しい心臓発作に襲われましたが,経過は良好でした。非常によくできた人で,不平などこぼしたことがなく,いつも協力的でした。その階の人はみなその人に好感をもっていました。

その朝,私はその人のひげをそってあげ,入浴させ,そしてその人はベッドの中にすわって食事をしていました。たいへん元気そうでした。医師がはいってきて診察した時も,なかなか調子よくいっていますよ,と言いました。しかし,まったく突然に,その人は私を呼びました。私は飛んで行って,「どうかしましたか?」と,尋ねました。その人はかすかな声で,「Bさん ―」と言っただけでうしろに倒れ,意識を失いました。

これは何の前ぶれもなしに生じました。直ちに酸素吸入の応急処置が取られましたが,むだでした。その人は死んでいました。私は一生懸命にその人を看護しました。そしてきっとよくなると思っていました。ですからほんとうに淋しい思いをしました。しかしそのあとすぐに奥さんが入って来たので,私は奥さんを慰めなければなりませんでした。看護婦をしていると,こういうことにも遭遇します。時には忍びがたい場合もあります。

満足と喜び

しかし一方,看護の仕事はほんとうの満足感を与えてくれます。看護の仕事には,人びとを助け,わずかながらも人びとを慰める機会があります。人はなぜこの職業を選ぶのでしょうか。それは,人びとが病気の時に,あるいは死にそうな状態の時に助け,少しでもらくになるようにしてあげるためだと思います。私はいつもそう考えてきました。

看護の仕事にはまた,興奮と喜びにおどる時があります。それはとくに,ひん死の患者が助かる時です。ジャマイカで看護婦になってからすぐあとに生じたできごとを思い出します。モンテゴ・ベイの病院に勤めていた時のこと,土地のある仕立屋がひどいけがをしました。ドアが急に締まって,シャツの胸にさしていた長い縫い針が胸の奥深くに刺し込まれたようでした。

病院に運ばれてきたときにはその仕立屋はあえいでいました。すぐにレントゲン写真がとられ,針の先は実際に心臓に触れてはいましたが,貫通してはいないことがわかりました。直ちに手術が開始され,胸部が切開されました。私は露出した心臓を目のあたりに見ました。針は取り出され,その仕立屋は助かりました。私は自分が,その人の命を救った手術チームの一員であったことに胸がわくわくするのを感じました。それ以来私はこの種の喜びを幾度も経験してきました。

これも私が同じ病院の手術室で働いていた時のことでした。二人の少年が,どちらも10歳くらいでしたが,学校へ行く途中,トラックにはねられ,土手に押しつけられました。ひとりの少年は胸腔が割れて,心臓や肺が露出しており,もうひとりの小年のほうは足をひどくやられていました。

救急車の乗務員が少年たちを運んできた時,私は手術室で待機していました。そして着くがはやいか,少年たちの服を傷から切り取りました。ひとりの少年の露出した心臓が鼓動しているのを目の前にしたときには恐ろしい思いがしました。これでどうして生きられるのかしら,と思いました。しかし医師団は直ちに1時間にわたる手術に着手しました。胸腔を消毒し,内部の傷を縫い合わせ,腔内に抗生物質をつめ,そしてその大きな傷口を閉じました。私は何か月もその少年を看護しました。少年は完全に回復しました。

患者から示される感謝

健康になった患者から,「あなたのおかげで命が助かりました。ほんとうにありがとうございました」と言われると,確かに励みになります。年がたつうちに,幾人かの人からそう言われました。看護は困難なことの多い仕事ですが,そう言われると,やはりしがいを感じます。

たくさんの以前の患者が,いまだに消息を伝えてきます。たとえば,あるユダヤ婦人は,休暇でどこかに行けば必ず手紙をよこします。その人は実際に気むずかしい患者で,2週間のうちに看護婦が18人もかわりました。私のほかはみなその人から離れてしまいました。患者に対してしっかりした態度を示しても親切であれば,患者はたいていそれに反応することを私は知りました。

私はほんとうに患者に同情を感じます。ですから患者を直接に看護するのが好きです。生きることにはほんとうに価値があると人びとに感じさせるよう,より多くの努力をすることができるからです。もちろん,全部の人が感謝を示すわけではありません。しかし人は,とりわけ病気の時には,思いやりや親切をうれしく思うものです。

母はあるとき私に次のことを話してくれました。ジャマイカでバスに乗っていた時のこと,母はふたりの婦人がある看護婦について話しているのを耳にしました。ふたりは,入院中その看護婦がとても親切だったことや自分たちのためにしてくれたことなどを話し合っていました。そのうちにひとりがその看護婦の名前を ― 私の名前を口にしました。母はひどく驚き,うしろを振り向いて言いました。「それは私の娘です!」。

看護婦になる決意

私が病人の看護に関心を持つようになったいきさつはちょっと変わっています。モンテゴ・ベイで休暇を過ごしていたときのこと,私は友だちといっしょに,虫垂炎の手術で入院していた少女を見舞いに行きました。病院は湾を見おろす美しい場所にありました。私はその少女に,もし私が手術を受けるようなことがあれば,この病院に来てあなたがいるそのベッドで寝たい,と言いました。

それは日曜日のことでした。そして次の土曜日には私は急患としてそこにいました。しかも同じ病室の同じベッドをあてがわれ,同じ医師による同じ手術,つまり虫垂摘出手術を受けました。

看護婦という職業はおもしろい職業にちがいないという考えがはじめて私の心に浮かんだのは,手術後その病院で静養していた時のことでした。「私はほんとうに自分のからだのことを,自分のからだの組織のことを何も知らないと思いました。それで,身体の働きについて多くのことを学びたいと思い,看護婦になる決意をしました。

看護婦の訓練

中学校卒業後,私はすぐに看護婦を志願しました。訓練を受けるために入る病院は自分で選択ができたので,私はモンテゴ・ベイにあるきれいな病院を選び,採用されました。

私たちが受ける訓練はおもに実地訓練で,病院に着いた週から病室で働き始めました。私たちは見習看護婦と呼ばれ,全身白衣の正看護婦と区別するために,紺色の制服に白いエプロンをかけ,黒のストッキングをはいていました。

病院では午前6時に勤務につき,午後6時まで働かねばなりませんでした。日中,少しの時間休みがあり,夜間は看護の勉強をしました。しかし,2,3時間の教室での授業を除けば,わたしたちの毎日は実際の看護に当てられました。

経験を積んだ看護婦から,患者を入浴させること,かん腸,注射,包帯を取り替えること血圧をはかることなどを教わり,彼女らに見守られながらそうした仕事をするのです。アメリカなら医師にしか許されていないことまで私たちは習いました。たとえば,腕や足をひどく切った患者などの場合には,医師を呼んで手当てをしてもらうのではなく,私たち自身で傷を縫い合わせました。医師を呼ぶ必要があったのは,頭部の傷や重傷の時だけでした。

しかし今日看護婦の訓練を受ける少女たちは,ほとんど机の上だけで看護の仕事を習います。理論は学びますが実施訓練はわずかしか受けない場合が少なくありません。私が会った正看護婦の中には注射の仕方さえ知らない人がいく人かいました。大学卒のある看護婦は,8種のかん腸について詳しく説明することはできましたが,実際には一度も行なったことがないと言っていました。

試練と困惑

本で看護のことを読むのと,実際にそれを行なうこととの間には大きな相違があります。見習看護婦になってから2週間めくらいの時,ある看護婦から,死んだばかりの女の人に義歯を元どおりにはめなさいと言われたのを,私は決して忘れないでしょう。私は自分のほうが死ぬかもしれないと思いました。私は泣きはじめました。でもその看護婦は私にそれをさせました。

検死,つまり死体解剖をはじめて見たときも恐ろしい思いをしました。その晩私たちはみな気分が悪くなり,食べることも眠ることもできませんでした。医師が高く持ち上げて見せたいろいろな内臓がはっきりと頭にこびりついていました。でも私は人体の構造について学びたいと思っていたのです。そして学んだと言わねばならないでしょう。

訓練の2年めに,私は首都キングストンにある公立の総合病院に移されました。そこでは熱帯病患者の病室で働き,おもにチフス患者の世話をしました。訓練の最後の年である3年めは早く過ぎ去りました。さて,本職の看護婦として認められるかどうかは,最後の試験に合格するかどうかにかかっていました。ひとつの試験では,医師団がずらりと並んでいる前にすわって,彼らの質問に答えなければなりませんでした。また実施試験では,医師たちが見守るなかで,尿の中の糖の検査をしなければなりませんでした。私はあがってしまって,手は震えていましたが,試験にはパスし,本職の看護婦,つまり登録正看護婦になりました。

助産婦になる訓練

しかし私は,登録正看護婦として勤務につく前に,キングストンのビクトリア・ジュビリー病院で6か月間,産科学を学びました。公認助産婦の資格を得るには,少なくとも40人の赤ちゃんの出産を助け,きびしい試験にパスしなければなりません。

最初の助産は忘れることができません。それはたいへんなお産でした。私は生きた双生児が生まれると思っていたのですが,その双生児は浸軟児で,私の手の中に出てきたふたりは死んでいました。私は死ぬほど驚きました。

わたしたちは,あらゆる種類の異常分べんの扱い方を教えられました。たとえば,赤ちやんは頭から出てくるのが正常なのですが,時には足とか手が先に出てきたり,ちがった角度で出てきたりすることがあります。そういう場合の助産の仕方も学びました。以来その種の分べんをたくさん扱いましたが,併発症も起こらず,赤ちゃんたちは無事に生まれてきました。また,へその緒が赤ちゃんの首に巻きつくこともあります。その場合にはどうするかも学びました。

しかし私たちがとくによく教えられたのは,分べん中母胎に裂傷が生じないよう,胎児をたくみにあやつる方法でした。多くの医師の間では,母親の陰門を切開して胎児を出し,そのあと切開箇所を縫い合わせるのが標準的なやり方になっています。医師たちが,陰門外側切開術と呼ばれるこの手術を行なうのは,そのほうがやさしいからです。しかし熟練した助産婦は,ほとんどの場合,母親の陰門を切開して広げることをせずに,出産を助けることができます。私は何百という赤ちゃんを取り上げましたが,陰門外側切開術が必要だったときは,片手で数えるほどしかありません。

ジャマイカでは数年看護婦として働き,助産婦をつとめ,看護学校の生徒の看護婦を訓練しました。そして1958年にニューヨークへ来ました。

不注意

外来診察室で働くようになったのは3年前のことですが,それまでは私はブルックリンの病院で病床の患者の世話をしていました。もちろん,まちがいはだれにでもあることですが,時には医師と看護婦の両方が不注意なのにあきれたこともあります。手術をして,道具やタオルが患者のからだの中に入れられたままになっていた例をいくつか知っています。

たとえば,数年前のこと,私はブルックリンに住んでいたある患者を看護したことがありました。その人は腹部の手術を受けて帰宅するが早いか激しい痛みを訴えました。夫は腹を立てて,そんなのはなんでもない,大丈夫だ,と言いましたが,彼女の痛みはとまりませんでした。そこでまた病院に連れもどしてレントゲンをとりました。その人のからだの中には医師が使用したピンセットがはいっていました。

ある医師たちは非常に不注意で投げやりに私には思えました。ひとつの例ですが,手術をする前には医師は,心臓を検査するための心電図,レントゲンその他を含め,いくつかのテストをしなければならないことになっています。しかしこれをしなかったために重大な結果を引き起こした例を私は知っています。

私がブルックリンのある病院で看護したひとりの患者は,倒れてひじを折っていた人でした。それだけのことでした。骨を継ぐためにその人は手術室に連れてゆかれました。ところが麻酔をかけられたあと,彼女の心臓は停止状態に落ち入りました。つまり心臓がしだいに働かなくなっていったのです。その場で心臓切開手術が必要になりました。その人は一度も意識を取りもどすことなく数日後に死亡しました。もしテストが行なわれていたなら,心臓の状態がわかり,用心することができていたはずです。

こうしたことは,人びとの予想以上にしばしば起きているのです。私はそうしたことが起こるのを見てきたので知っています。ここニューヨークの病院で働く私の友だちもそうです。悲しいことですが,近ごろの看護婦や医師の中には,患者の福祉に無関心に思える人が少なくありません。彼らのおもな関心はむしろもうかるお金,つまり給料にあるようです。

自分が交替して看護婦を休ませる時には,その投げやりな看護の仕方に彼女たちの注意を引かねばならないことがしばしばありました。患者は不快な思いをしていました。看護婦たちはベッドを変えるとか,患者を起こして少しの運動をさせるとか,入浴をさせるといったことをしないのです。彼女たちがしたことといえば,ぬれた布切れで顔をふくことだけでした。それは看護とは言えません。

近ごろの看護婦の怠慢を見ると胸の悪くなる思いがします。その怠慢は,さもなければ生きたかも知れない患者を死へ追いやったと私は信じています。気分の悪い患者がしきりにベルを鳴らしていても,看護婦は机のところへ腰かけたまま返事をしません。彼女たちの関心は,たばこと楽をすることだけにあるかのようです。

もちろん,全部の病院がそうだとは限りません。全部の看護婦や医師がそうだとも言えません。事実,大部分の医師や看護婦はそういう人ではありません。しかし,患者の利益よりも自分の利益への関心のほうが強くなっていく傾向のあることは確かです。他の医師や看護婦たちもこの事態に対するとまどいをよく口にします。

堕胎と輸血

ニューヨーク市内の方々の病院で行なわれる胎児の大量殺りくは,今日の堕落を示すいまひとつの例だと私は思います。現在起きつつあることがあまりにもひどいので,ある市立病院などは,堕胎手術室で働く看護婦がいなくて困っています。

最近のニューヨークの堕胎にかんする法律は,妊娠後24週間まで堕胎を許します。24週間もたてば胎児はからだの各部分がはっきりしてきて,人間であることが容易に認められます。堕胎された胎児のなかには生きのびたものさえいます。しかし看護婦たちは,今後は生きて出てきた胎児は死なすように言われました。ある登録正看護婦は,この問題について,一看護雑誌に非常に興味深いことを書いています。彼女は次のように述べました。

「道徳面からの考慮はさておき,現在,胎児は法律により一個の人間と見なされている。胎児は相続する権利や,出生前に損害を加えた者に対して訴訟を起こす権利を与えられている。…したがって女には胎児を殺す権利はない。出世後,その子をたたいたり,虐待したり,あるいは殺したりする権利がないのと同じである」― 1970年12月の「アメリカン・ジャーナル・オブ・ナーシング」。

私が働いている病院では,一週間に何十人もの少女が堕胎手術を受けに来ます。そのなかにはほんの数か月間に二度も手術を受けた少女たちがいます。私はおもな責めは医師たちにあると思います。というのは,医師たちはそうした少女の手術を拒否しないからです。この仕事は非常にはやっていますから,医師たちはおもにお金に関心があるのだと思います。私個人は堕胎とは全く関係を持っていません。堕胎と関係のある書類さえも扱いません。私の良心がそれを許さないのです。

輸血にかんしても同様の立場をとっています。患者が輸血から肝炎になるのを私は見てきました。回復しない人もいます。またある患者は,循環過重その他の,輸血に対する有害な反応のために死亡します。ですから私は輸血が人の命を救うよりもむしろ殺すものになりうることを知っています。私の知っている医師の中には,血をできるだけ使わないようにしはじめた人たちがいます。『血を避けなさい』という神の戒めに従うことは,人の精神的,肉体的健康に確かに寄与すると私は信じています。―使行 15:28,29。

病人の看護を通して認識したこと

私は病人の看護を通して多くのことを学びました。ひとつには,私は看護によって,人体がいかにすばらしくつくられているかを認識させられました。身体は確かに偉大な創造者のみ手のわざです。看護婦になって間もない時にある事が起きて,私はつくづくそのことを考えさせられました。

ある晩私がジャマイカの病院の手術室で働いていたとき,小さな女の子を連れたふた親が青くなって飛び込んできました。女の子が,英国の半ペニー銅貨を飲み込み,それが喉頭につまったのです。レントゲン写真を見ると,銅貨の周囲に粘液が生じています。口から取り出せない以上すぐに手術が必要です。ところが,いざ手術という時になって停電になってしまいました。それで医師は,私がかざす懐中電灯の光の中で,その非常にむずかしい手術を行ないました。

それを見守っていた私は,感嘆せずにはいられませんでした。「あの指。なんと器用なのでしょう」とその時思ったのをおぼえています。私たちはほんとうに神を恐れるべきではないでしょうか。神から与えられたその医師の指のおかげで,少女は救われました。

とはいえ,医師や看護婦にできることが何ひとつ患者の死をくい止めえないこともしばしばあります。またしても患者に死がのぞむ時のあのやりきれない気持ちを,私は何度も味わいました。『なぜ人間は苦しみ,死なねばならないのだろう。人びとがこうして死んでいくのは,ほんとうに神の目的なのだろうか』と不思議に思うことがしばしばありました。

しかし私は,自分がその答えを求める気になり,しかも新しい事物の体制をたてるという神のすばらしい目的を理解するよう助けられたことを非常にうれしく思っています。その新しい体制の中では,『死もなく,悲しみも,叫びも,苦痛も』ないのです。(黙示 21:3,4)看護婦である私は,その約束の成就をとりわけ楽しみにして待っています。

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