ソ連の宗教撲滅運動
共産主義者はロシアの政権を獲得すると,時を移さず,宗教に対する彼らの目的を明らかにしました。その目的というのは,宗教を撲滅して国を無神論の国家に変えることでした。
1990年代の初めに,レーニンが,信教の自由を認めるべきことについて書いていたのは事実です。しかし,いったんボルシェビキ派が政権を握ってからは,政府が宗教を敵と見みなし,宗教を葬り去ろうとすることが明らかになりました。「労働者党の宗教に対する関係」という論文の中で,レーニンは次のように言いました。
「『宗教は人民のアヘンである』― マルクスのこのことばは,宗教の問題についてのマルクス主義の世界的概念の基礎である。マルクス主義は常に,今日の宗教,教会,宗教組織をことごとく,[敵である]ブルジョア的な反動勢力の機関と見る」。
攻撃の開始
1917年の11月に政権を獲得するや新政府は直ちに,教会の所有地を含め,すべての土地は人民(実際には政府)の所有に帰すという法令を発布しました。この法令は,のちの教会財産没収への道を開きました。
もうひとつの法令は,どの宗教を信奉していようと,またたとえ宗教を持っていなくても,すべての市民は平等である,というものでした。この法令は,結果的には無神論を許しかつ助長するものでした。
ついで1918年の初め,政府はロシア正教会と国家との完全な分離を発表しました。この時,教会の財産はすべて,共産主義者によって引き継がれ,学校での宗教教育も禁止され,また,政府の教会に対する支払いはすべて廃止されました。
これらの措置は,攻撃の一部にすぎず,本番はこれからでした。政府の見地からして重要なことは,人びと,とりわけ若い人びとの考え方を変える必要があったことでした。1918年に制定された最初の憲法は,「すべての市民は,宗教的宣伝および反宗教的宣伝を行なう権利を認められている」となっていました。しかし1929年に同憲法は修正され,『宗教的宣伝を行なう権利』は取り消されました。一方,『反宗教的宣伝を行なう権利』はそのまま残され,「宗教的信仰を告白する権利」だけが許されました。
1929年のこの決定は宗教に非常な打撃を与えました。これによってすべての宗教は,いっさいの社会的,教育的,慈善的活動を禁じられ,宗教団体は,当局によってあてがわれた建物に閉じ込められ,宣教のための活動は何ひとつできなくなりました。そして子どもたちは学校で無神論しか教えられなかったので,宗教の前途は暗いものでした。
その影響
こうした合法的な手段や,政府の敵対的な態度は影響をおよぼさずにはいませんでした。革命発生以降,ロシア全土の教会は攻撃を受け,略奪され,破壊され,あるいは変えられて工場,倉庫,政治集会所,博物館などになりました。
攻撃されたのは正教会ばかりではありません。他の教派も攻撃を受けました。たとえばローマ・カトリックの僧職者たちは投獄され,教会の財産は没収され,カトリックが行なう学校教育にも制限が課されました。共産主義者の標準的なやり方は,法王の権威をくつがえして,モスクワのみに忠誠を尽くす僧職者の社会をつくることでした。
一部の教派は,激しい圧迫に耐えきれず完全に消滅しました。合同東方カトリック教会もそのひとつでした。この教会は,ローマ・カトリック主義と正教会の混合したもので,ウクライナ人の間で優勢でした。しかし,共産主義に反対した僧職者たちは投獄されるかまたは追放され,その他の僧職者は法王への忠誠を捨てて自分の宗教を放棄し,正教会のモスクワ総大主教の傘下にはいりました。
教会財産の没収,反対する僧職者たちの投獄や追放,教会の閉鎖などと平行して,共産主義が,新聞,ラジオ,映画,学校などを通し,猛烈な勢いで吹き込まれました。ことに破壊的だったのは,学校における反宗教的なふんいきでした。ソ連内で発行された9年生の一教科書などは,共産主義を吹き込む方法の典型をなすもので,それには次のように書かれています。
「生物界の進化の法則の研究は,唯物主義概念を解くのに役だつ…
「加えて,この教理は,生物界に現われている目的について唯物論的説明を与え,同時に下等動物から進化した人間の起源を証明することにより,反宗教闘争のための武器を与えてくれる」。
子どもたちは,無神論の教師たちの意のままになりました。しかし,一般的に言って,教会に通う親たちには,その影響を中和させる力がありませんでした。ほとんどの親は,自分の宗教の教理の根拠や,儀式が行なわれる理由についてはほとんど,あるいは全く知らなかったために,その勢いに抗する備えはありませんでした。
そのうえに,若い人びとのための大きな組織がつくられました。子どもたちのための「若い開拓者たち」,16歳から23歳までの年齢層のための「共産青年同盟」などがありました。これらの組織には,マルクスとレーニンの思想がみなぎっていました。加盟は強制的でなかったとはいえ,それに同調させようとする社会的圧力は非常に大きなものがありました。人気のあるものに参加したいという若い人びとが持つ自然の欲望も若い人びとに影響を与えました。
こうして共産主義者はいったん政権を握ると,伝統的な宗教を根絶することに力を注ぎました。そして1917年以後,第一四半世紀の間,攻撃に強弱の波はありましたが,宗教反対運動はつづきました。
なぜそれほどに反宗教的か
諸外国の人びとの多くは,こうした攻撃に反感を持ちました。しかしロシアの民衆は違っていました。彼らの多くは,起きつつあったことを,教会が犯してきた罪の報いと見ました。
多数のロシア人がどう感じたかを理解するには,教会,とりわけ正教会が,ツアーたちの人民圧制における主要分子であったことを知る必要があります。僧職者たちは,利己的にも自分が有利な地歩を得るために,幾世紀にもわたって支配者に迎合し,民衆の必要を無視し,彼らを無知のままにしておきました。大多数の民衆は事実上,支配者や富裕な階級の奴隷でした。そして僧職者たちはその状態を維持することに努めました。僧職者の多くは貪欲になり,不道徳で,権力に飢えていました。
歴史家たちは,正教会がとくに腐敗していたことを認めます。モーリス・ヒンダスは,「ハウス・ウィズアウト・ア・ルーフ(屋根のない家)」の中で次のように述べています。
「村のバツシュカ[司教]は,多くの場合彼自身無知で,ウォッカにおぼれ,教区民の中の魅力的な女性を誘惑することにやぶさかではなかった。…
「ムジク[農夫]は善悪について,教区の司祭よりも,放浪するこじきや巡礼者が語る物語,彼らが歌う民謡などから学ぶほうが多かった。…
「ロシア正教会が,ツアーの国家に完全に従属し,屈従した責をのがれることはできない。ツアーの国家は,ミルユコフに言わせると,『宗教の生きた若芽をすべてまひさせたものである』」。
この著者はまた,ロシアの文芸批評家ビサリオン・バイリンスキーの次のことばを指摘しています。「すべてのロシア人の目には,司祭は,大食,けち,追従,破廉恥の生きたシンボルではないだろうか」。
正教会が自分自身の目的を推進するためにツアーの軍隊を用いたことについて,ロシアの哲学者,故N・ベルディフは,「ロシア共産主義の起源」という本の中で次のように評しています。
「高位僧職者たちは,そのような反キリスト教的『政策』を正当化できるであろうか。なぜ彼らは愛の行為に訴えずして力に訴えるのか。…この忌むべき働きにおける教会と国家の連合を,われわれは驚きをもって見るのである。多数の人びとが信仰を失うに至った原因は,まさにこの教会の国家に対する屈従にある」。
ロシアに起きた事柄に対する責任の大半が宗教の犯した罪にあることは,宗教指導者自身も認めています。ある共産国に住む一神学者は,ハーパーズ誌に掲載されたある記事の中で,次のように述べています。
「私は共産主義者ではなくてクリスチャンである。しかし私は,共産主義の台頭に対して責任があるのはわれわれ,すなわちわれわれクリスチャンだけであることを知っている。われわれは世界で果たすべき責務を有していた。イエス・キリストは,その責務がなんであるかをわれわれがいぶかる余地を残してはいない。われわれは失敗した。『言うだけで行なわなかった』。…共産主義者もかつてはクリスチャンであったことを忘れてはならない。もし彼らが正義の神を信じないとすれば,それはだれのせいだろうか」。
疑いもなく,ロシアの教会の腐敗は多くの人びとを,神から,聖書から,キリスト教から引き離しました。『もしこれが神を信ずる宗教であるなら,神はいないと信じるほうがましだ』と人びとは考えました。
したがって,ソ連の指導者たちは理由があって宗教に猛烈な反対をしているのです。しかし,不幸にして彼らは,神への真の信仰と偽善的な宗教とのちがいを見分けることをしませんでした。憤慨のあまり,宗教という宗教をすべて追放する決意をしました。
僧職者の妥協
最初のうちは多数の僧職者が,共産主義者の宗教への侵入に抵抗しました。しかし,時がたつにつれて,しだいに多くの僧職者が妥協し,共産政府の道具になりました。しかしその政府は,宗教を葬り去ろうとしていたのですから,妥協したそれらの僧職者たちは,実際には自分の墓穴を掘る手助けをしているのです。
そのひとつの例は,総大主教のティホンです。真理をまげるよりも死に甘んじたイエス・キリストとはおよそ異なり,ティホンは妥協しました。1923年,獄から釈放されたのち彼は,国益に反する事柄にはいっさい携わらないことを約束する宣言書に署名しました。彼は1925年に死亡しましたが,その少し前,全ロシア国民に,「ソビエト政権を誠実に支持し,公益をはかり,国家の新秩序に反対する公然の,あるいはひそかな運動を排斥するよう」要求しました。
彼の死後,教会はもはや総大主教の選出を許可されませんでした。しかし教会の他の高位僧職者たちは,たいていの場合彼の指導に従いました。そのことは,1927年に,(総大主教の次に位する)首都大主教セルゲイが声明を発表したときに明らかになりました。「ザ・ファースト・フィフティ・イヤーズ(最初の50年)」という本によると,セルゲイはその声明の中で,「教会とその追随者たちの支持および政治的協力を約束」しました。彼は僧職者たちに,ソビエト政府に対する忠誠の保証書を提出することを要求し,それをしない者は教会から放遂すると言いました。
僧職者たちのそうした妥協にもかかわらず,共産主義者たちは多方面にわたって宗教反対運動を継続しました。とくに,1936年から1938年にかけて政治的粛清が行なわれた時,教会は残忍な攻撃を受けました。1930年のセルゲイの主張によると,163名の司教は政府の忠実な支持者でしたが,1939年に残っていたのは12名以下でした。40人の司教は銃殺されていたと言われました。そして推定一万の教会が閉鎖されました。「最初の50年」が述べているように,「1939年の教会は崩壊寸前の状態」でした。
しかし1939年になって,変化をもたらすあることが生じました。それは第二次世界大戦のぼっ発でした。同大戦はソビエト政府と宗教との関係に影響をおよぼしました。