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  • 中国の壮大な記憶銀行
  • 目ざめよ! 1973
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目ざめよ! 1973
目73 11/8 13–16ページ

中国の壮大な記憶銀行

書物に記された歴史をたいくつに感じる人が多くいます。でも,わたしは歴史の本ではありません。わたしは,皆さんに巡回路を歩いていただくかたちで歴史を語るのです。わたしは台湾省にある国立王宮博物館です。

わたしの持つ宝を台北郊外シー・リンの現在地に運んで来るためには三千個の木箱が必要でした。わたしのところの陳例は一定の期間をおいて変わるので,部屋ごとに順に回って見ていただくことはできません。陳列品の変化は三か月ごとに行なっています。でも,陳列が変わるごとに一度見ていただくとしても,わたしのところにある財宝すべてを見るには十年かかると言われています。

時間をずっとさかのぼり,この東アジア地域における人間の歴史の片りんを見ることにしましょう。あの古びて乾ききった,黄褐色の骨を見てください。これは占い用の骨であり,人々はこれを使って神託を求めました。骨にはひびがいっていますが,このひびの様子が問いかけている事がらに対する答えとされました。人々は骨に小さな穴をあけて火にあて,こうしてひびができるのを待ちました。そののち,問いかけた事項をその骨の上に記録しておいたのです。これは殷王朝時代のことです。

青銅の記録

殷王朝はおそらく650年ほど続き,イスラエルでいえばサウル王の時代に及びました。その歴史はきわめて永続性のあるかたちで,つまり青銅をもって記録されました。わたしが今ご覧にいれる見本は儀式用の器具であり,家庭で日常使用されたものではありません。中国人は実際的な国民です。いろいろな器具や用具類は三本の足で立たせることができます。したがって,わたしたちの最古の容器には,四本ではなく三本の足がつけられています。それでも,これらの器は非常に美しく,豊かな装飾がほどこされています。

世界の他の人々と同じように,中国人も音楽を愛好します。わたしたちの最古の楽器の見本としてここに青銅の鐘があります。あなたはその大きさにびっくりされるかもしれません。でも,それを傾けて,中に舌がないのを見てさらに驚かれることでしょう。しかしこれはほんとうに楽器の一種です。外側からつちでたたくと,どの鐘もさまざまな音色を出すからです。その音色は鐘のどの部分をたたくかによって異なるのです。

わたしたちの青銅の記録は,歴史上最も長い王朝の一つ,周王朝の時代にまで続きます。周の時代になると中国式の龍が現われます。そして,この時代の青銅器にはいろいろな文字が記入されており,400字以上に及ぶものもあります。こうして,わたしが保存する歴史は幾時代も伝えられてきた現物から成っており,後代の歴史家ではなく,その時代の人々が自分の時代について書き記した歴史なのです。

秦は非常に短い王朝でした。紀元前3世紀に15年ほど続いたにすぎません。しかし,それが後世に残したものは長大なもの,すなわち,万里の長城です。それは2,400㌔に及んでいます。その長城の一部がここにあるというわけではありませんが,築城における中国人の技能は,わたしの建物の中に,またわたしの周囲の敷地によく示されています。わたしは二段構えの人工の台地のいちばん高い所に座っており,深く木の茂る山ふところに位置しています。これら背面の山々のくぼみには幾つものトンネルが掘られており,陳列を待つ貴重な器物の保蔵場所となっています。

イエス・キリストがこの地上に生活したころには,漢王朝がすでに200年ほど継続しており,この漢王朝はその後さらに200年続きました。この時代を代表するものもやはり青銅器です。わたしは皆さんに一つの青銅のはちを見ていただきたいと思います。それは装飾用の植木ばちですが,繩で作った網の中にからめられているように見えます。しかし,よく近づいて見ると,その“繩”も青銅でできていることがおわかりになるでしょう。

まん中につまみのついた平らな丸い青銅器が箱の中にあるのを見て,「これも楽器だ!」と言われるかもしれません。いいえ,これはシンバルではないのです。もう一度見てください。「なべのふただろうか」。いいえ,違います。その“ふた”のようなものを裏がえしてみれば,つやつやした面が現われるでしょう。それは昔,鏡として使われたのです。

陶磁器類

漢滅亡後の200年は,三王国六王朝が交互に入り乱れた混乱の時代でした。この時代,およびその後の南北朝時代と,それに続く小国の時代,隋の時代を足早に通り過ぎて,七世紀の唐の時代に入りましょう。この時代に作られた陶製の馬の像をぜひともご覧にいれたいと思います。これが作られた当初,その表面には彩色がほどこされていました。今ではその赤みがかったたてがみに,往時の鮮やかさのなごりをとどめているにすぎません。しかし,その形の美しさ,全体にこもる芸術的な感覚と自然なつりあいとが,色彩の損耗を補ってあまりあるではありませんか。この馬は一方のひづめを高く上げ,気迫のこもった姿勢で立っています。これはなかなかの大作であり,ひづめからたてがみまで75㌢,鼻から尾までは60㌢以上あります。

その後の218年間に六つの王朝が交代しましたが,今わたしたちは壮麗をきわめた宋王朝に進みましょう。ヨーロッパが中世の暗黒時代に閉ざされていたころ,宋朝芸術は中国文化史上四世紀にわたって清朗な光を放ちました。文学,美術,建築,工芸は表現法において絶頂をきわめ,以後もこれに勝る時代はないと思われます。この時期の多彩な発展ぶりについてご覧にいれるものがたくさんあります。磁器類を見ながらこの時代について説明させてください。ここにある宋時代の磁器は無音のもの,つまり単色調のものであり,それによってうわ塗りの清澄さを強調しています。わたしには西欧人の友人がいますが,彼はしばしばわたしを訪ね,わたしのところにある汝器がここでのいちばんの宝であると評します。なぜだろうかと言われるでしょう。

説明すれば,まず,あの独特の色彩がなかなか出せないからです。これは汝窯の賜物とも言うべきものであり,色の変化はその窯の中で起こります。第二に,宋時代における磁器の製作は,ヒスイが持つあのソフトで透き通るようなつやや色彩と,その冷ややかでなめらかな感触をまねることを意図していました。中国人はあらゆる色のヒスイを珍重しました。しかし,彼らは特に,白色のヒスイと,あの淡い緑の色調とをまねようとしました。汝器において,それはみごとに達成されています。ここのケースの内側に手を入れることができたとしたら,あなたは第三の理由を感じ取られるでしょう。その感触のなめらかさがまさにヒスイと同じなのです。世界には汝器が約30ほど現存していることが知られていますが,そのうち23まではここに保存されています。

13世紀になると,ジンギスカンの率いる蒙古遊牧民族があらしのごとくに襲来しました。彼らは剣を携え,タタール馬にまたがって,宋王朝の静穏を打ち破ろうとしました。しかし,宋王朝が中国のおびただしい人々に残した遺産が,この異国人の蛮行によってかき消されることはありませんでした。幾つかの王統は確かに絶たれました。しかし,中国の国土はその征服者たちをむしろ吸収したのです。やがて,ジンギスカンの孫フビライが中国の絹と象牙の輝きを全く掌握し,いまや元と呼ばれる王朝の始祖となりました。

しかしやがて元も明に道をあけました。コロンブスがアメリカ大陸へ船を進めたのはこの明の時代です。明朝の磁器類が陳列されているところへ入ることにしましょう。どなたか嘆息しておられるかたがいるようですね。それは驚きと喜びがまじったものではありませんか。明時代の陶磁器類の華麗な色彩はまさに息をのむばかりです。この明時代の陳列品の中に,足高の鉢があるのに気づかれるでしょう。鮮やかな黄色の地の上に緑色の龍が描かれています。素焼きの地に図案を彫り込み,そこに色を入れるのがこの技法です。明時代の職工たちは,焼き上げのさいに色が流れ出たり無秩序に広がったりすることのないようこの技法を学び取ったのです。

明ののちに清王朝が続きましたが,それは1911年に倒れて中国王朝時代の終わりとなりました。中国はついに王制を廃したのです。しかし,中国に対する清王朝の遺産は,その時代の職工たちの残した数多くの作品だけでなく,それ以前の諸王朝の遺品を王宮に集積したことにも見られます。それがわたしの収集の中核をなしているのです。

象牙細工,漆器,ヒスイ

美しい陶磁器類はその後もずっと生産されましたが,わたしたちは今陶磁器類を離れ,この時代の代表的なものとして象牙細工を取り上げることにしましょう。訪問者の心を必ずとらえるのは,象牙玉を彫る技法です。この彫り方はきわめて繊細であり,目の細かなレースを見ているかのようです。しかし,訪問者を魅するのは単にレース模様だけではありません。一かたまりの象牙から数個の球が彫られ,その球の中にさらに幾つかの球が彫られています。そうした球の中には重なり合って動く13の層を持つものがあり,それぞれの球は他の球の中を回転するようになっています。

別の作品は世界一優雅な弁当箱ともいうべきものです。これは,象牙を彫って作った楕円形の箱を幾つも重ねたものですが,きわめて繊細にできており,一つ一つは平らなようじよりも薄く仕上げられています。また,中に入れる食物を冷たくしておくため空気の通りのよい網目仕上げになっていますが,虫などは入れないようになっています。これがのりで固めたレースでないことをよくよく納得させなければならない訪問者も少なくありません。

ミニチュア細工も中国人の特技の一つです。わたしの象牙収集物の中には,長さわずか5㌢の小さな遊覧船がありますが,その細部はきわめて精密に彫られています。船の内部には乗客の顔も見え,船室の窓はきちんと前後に動きます。

こうしてわたしたちは時代を下って現代にまで達しましたが,彫りをほどこした漆器類についてはまだお話ししませんでした。器物の表面に漆を塗り,それを乾かしてやすりをかけ,その上にまた漆を塗るというようにして,合計36回も慎重に塗り上げます。ついで彫り師がそれを引き取りますが,彼の仕事は,器物本体の木の部分ではなく,その上に塗った漆の層を彫ることです。違った色の漆を塗ってあることもあり,彫り師は自分の望む色の層まで彫り込み,それを突き抜けないようにします。わたしのところには,三色模様を深く彫り出したものもあります。

わたしのところに最も豊富にある収集物の一つはヒスイです。これまで取り上げなかったのは,それが特にどの王朝に属するものでもないからです。ヒスイに対する中国人の敬意は,中国文化史というつづれ織における長い縦糸をなしています。わたしのところには,世界最古また最大のヒスイ類が集まっています。また,後代のヒスイ装飾品の一つとして,茎の白い中国キャベツ(白菜の一種)を模したものがあり,その上方には緑の葉と緑色のバッタ二匹も配されています。これは塗料や染め粉などはいっさい使わず,ヒスイ原石におけるしま模様の流れを見込む彫り師の練達した目によって成し遂げられているのです。

巻き軸

絵画類についてはどうでしょうか。数々の巻き軸において,わたしの中国史は最も明快になります。あなたがわたしのところを訪ねてくださることがあるとすれば,二つの有名な巻き軸のうち,せめてその一方でも展示されている時であるようにと願います。「中華都市図」は過去の王朝時代における人々の生活模様を精彩に描き出したものです。それは横に巻く,手持ちの軸であり,全長は11.5㍍もあります。見る人が最初に前にするのは河口の様子です。そして,目は河岸に沿って上り,田園部,郊外部を経て,最後に都市に至ります。幾千という人の姿が細密に描かれています。これによって人は,過去における生活,服装,通商の様子を見ることができます。ことば以上に表現力のある,過去の絵模様を見ているのです。

もう一方の大きな手巻き軸は「百駿図巻」と呼ばれるものです。これは長さ7.7㍍の風景画ですが,その中にたくさんの馬がいて,あらゆる種類の馬のあらゆる生活様態が描き出されています。死んで横たわった馬も一,二頭います。しかし,まず質問させてください。中国の絵画には独特の手法があることにお気づきですか。何がいかにも中国画らしい感じを出させているかがわかりますか。二つの重要な点があります。見た感じですが,これは常に,見る人がかけ金で空中にかけられ,上空からその情景を見ているかのような感じで描かれています。もう一つの点は陰影がないことです。距離の感覚は色の濃淡により,近いものは濃く,遠いものは薄く描き出されます。

ところが,この「百駿図巻」には陰影がほどこされていることに気づかれるでしょう。さらに,馬の目には陽光部があります。これも中国画人の用いなかった手法です。それでもなお,あなたはこれを中国画であると感じることでしょう。それはまちがいではありません。この絵の筆者は中国画の技法をことごとく使い,その上に前述した西洋画の二つの技法をつけ加えたのです。この画家は中国では郎世寧として知られています。彼は1700年代の初め清朝に仕えた画家ですが,本名はジュセッペ・カスティリオーネといい,イエズス会士として中国に来た人です。外国人でありながら中国人から中国画家とみなされているのはこの人だけです。

仏教の儀式に使われた器具類

中国に浸透してゆきながら,なかなか吸収されることなく,やがて中国人のどっしりとした包容力の中に消え去ったもう一つの外国からの力があります。それは仏教であり,インド由来の形式と用語とを保って,中国人の思想と生活に対する働きかけを続けています。博物館のわたしがなぜこの点を言うのでしょうか。それがわたしの記憶銀行の中にとどめられているからです。チベットから秘密(秘伝を授けられた者だけが知る秘儀を特色とする)仏教が伝来し,北平の王宮とジェホールにある夏の王宮で受け入れられて施行されるようになりました。わたしの収集物の中にはそうした儀式のさいに使われた器物もあるのです。それはさながら死に対する求愛行為のように見えます。鉄でこしらえた頭がい骨のじゅず,しゃれこうべがたくさんついた象牙細工の前かけなどをご覧にいれることができます。これらは僧侶が身に着けるものです。

じゅずの使用,またわたしが展示している僧職者の衣しょうなどに,宗教上の基本的な類似点を認めるかたが多いでしょう。わたしの収集物の中にある僧冠は西欧諸宗教の場合のそれと非常によく似ています。訪問者の多くはその点に注目します。あなたはこうした展示物をさらにご覧になりたいですか。一度わたしのところをお訪ねください。

わたしたちは,わたしの歴史書からご覧にいれるべき事がらのうち,そのほんの表層をかいま見たにすぎません。また,わたしの国,および,地上で最も数の多いわたしの国民の歴史についても,そのほんの一端をお話ししたにすぎません。わたしには非常に長い記憶があるのです。―寄稿

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