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目ざめよ! 1974
目74 6/22 17–23ページ

外科医としてのわたしの歩み

わたしが選んだ外科医としての仕事は,人間の最古の職業の一つです。古代エジプトやバビロニアの記録は,今から四千年も昔に外科手術がなされたことを記しています。そして,考古学上の発見物は,それよりさらに以前になされた手術のあることをも示しています。

実際のところ,わたしは,外科手術は人間の歴史の当初からあったという点を述べたいと思います。聖書の創世記 2章21,22節にこう記されているからです。『エホバ神アダムを深く眠らしめ 眠りし時そのあばら骨の一つを取り 肉をもてそのところをふさぎたまへり エホバ神アダムより取りたるあばら骨をもて女をつくり これをアダムのところに連れきたりたまへり』。神がこの手術に先だってアダムを麻酔させ,事後に切開部を“縫い合わせ”たというのは注目すべき点であると思われます。そして,人間の行なった小さな手術の例として,少なくともアブラハムの時代までさか上ることができます。アブラハムは,神の命令のもとに,自ら割礼を受け,また自分の家のすべての男子に割礼を受けさせました。―創世 17:10-14,22-27。

アメリカの指導的な外科学教授はかつてこう語りました。「外科医としての訓練は,あらゆる職業また専門職の中で最も厳格かつ要求されるところの多いものであり,その責任は最も重い」。では,私をしてこの職業を選ばせたものはなんでしたか。それは,わたしのおい立ち,および,この仕事が挑戦的であるとともに満足をも与えてくれるものであることによります。

わたしの父はいなかの医者でした。米国オクラホマ州の小さな町に住み,その地方一帯の農夫その他の人々の医療上の必要に仕えていました。わたしの家には五人の男の子がおり,わたしはいちばん年上でした。

初めのうち父は郊外への往診のために馬や馬車を使っていました。しかし,父が往診のためにT型フォードを使用するようになった時,わたしはすでに父に同行するようになっていました。事実わたしは,まだ12歳にならないうちから,時おり父の車夫を勤め,また父の診療のさいに助手のようなことをしていました。

長ずるにつれ,わたしは,当時の,台所のテーブルの上でなされるような手術のさいに,いろいろな点で父の手つだいができるようになりました。今でも覚えている一つの例は,自分のらばに頭をけられ,頭皮がはがれるほどになった農夫の場合です。その手術はある木の下でなされ,わたしは父の助手として熱中して働きました。父が手術を進めている間に時おり麻酔薬が必要になると,わたしは,患者にクロロフォルムを何度か吸わせることを言いつけられました。もちろん今日ではもっと良い麻酔薬が多く使用されており,手術が木の下でなされるようなことはめったにありません。

外科医となる

高等学校を終えたのち,わたしは大学に進み,自分にとって全く自然と思える進路を選びました。それは医師になることでした。父は自分の職を継ぐようにと強いて促したことはありません。というより,そうする必要はありませんでした。父の手本,その親切さ,思いやり深い優しさ,また実際に人の助けになっていること,さらに,人々から深い敬意を受けていることなどを見て,自分も医者になりたいと思うようになったのです。

わたしはまず,オクラホマ大学医学部予科で二年制の基礎科学課程から始め,そののち同大学医学部の普通の四年制の課程に進みました。解剖学・生理学・生化学・組織学など,医学に関連したさまざまな学問はほねのおれるものでしたが,わたしにとってそれは楽しみでした。この課程の半ばでわたしは科学士号を受け,それからは,病院患者を扱う臨床経験や,通常の病院手当てを受けられない貧しい家の婦人たちの分娩を助けることも課程の中に含まれてきました。

医学教育の真剣さにもかかわらず,若さによる軽率さがときに表に出たこともあります。ある家での分娩ののち,その新しい母親は,わたしと別の医学生が“プラセンタ”(胎盤)ということばを使うのを聞きました。それは彼女にとって美しいことばに聞こえたのでしょう。彼女はそれを自分の娘の名にしたいと言いました。わたしたちはなんの説明もせず,母親のことばどおりに出生証明書を書きました。しかしながら,わたしたちはすぐ教授その他の人々の前に呼び出されてしかられ,その母親に謝って,“プラセンタ”よりもっと適当な名を考えるように勧めなければなりませんでした。

卒業後,わたしはメリーランド州ボルチモアの市立病院で一年のあいだ実習医として働きました。この一年の間に,一般内科・小児科・外科・産科・婦人科・精神科など,医学のいろいろな分科を順に経験しました。この実地の経験は,それぞれの分野にどのようなことが含まれているかを知る助けになりました。その一年の終わりまでに,わたしは外科を選んでいました。それはわたしにとって最も興味深く,また最も挑戦的なものに思えました。それからわたしは,引き続き外科学の訓練を受けるため,テネシー州の小さな町の病院に移りましたが,まもなく結核を発病しました。それは,ボルチモアで診療した結核患者たちから移ったものと思われます。このためわたしは数か月のあいだ療養所に入り,その後オクラホマの自宅に帰り,一年ほどして回復しました。

その後,カリフォルニア州サンタバーバラの郡立病院で病院住みの外科医として採用されました。その約一年後,わたしは24人ほどの開業医から成る医師グループに加入し,その外科担当員となりました。そののち二年間の休暇を取り,アメリカ有数の外科医である,ミネソタ大学病院のオーエン・H・ワンゲンスティーン教授のもとでさらに訓練を受けました。こうして,医学部予科,本科,病院での専門訓練,また実地の経験など,およそ14年にわたる勉学と訓練ののちに,わたしはようやくひとり立ちの外科医となって自分の志望を遂げました。

しかし,その時,人生に対するわたしの見方も,また外科医としてのわたしの前途をも大きく変える事が起きました。それは,輸血に関する問題,およびエホバのクリスチャン証人が提起した輸血をめぐる論争です。

輸血をめぐる論争

わたしが幼いころに受けたのは,医師としての父親の影響だけではありません。わたしの両親はともにエホバの証人でもありました。周囲何キロにもわたってエホバの証人はわたしの両親だけしかいませんでした。わたしは聖書に対する深い敬意をいだいて成長しましたが,聖書そのものに対する真の知識はほとんど持ち合わせていませんでした。これは,一つには,父が医業に非常に忙しかったためであるに違いありません。また,エホバの証人が広く行なっている家族の家庭聖書研究は今日ほどに強調されていませんでした。そのようなわけで,大学での勉学のために家を離れた時,わたしは医師を志すいなかの若者にすぎず,聖書の原則から強い感化を受けてはいながら,幾年か後になるまでその意味を深くは認識していませんでした。

わたしは医学校にいた時代に初めて輸血を見ました。それは,供血者から直接患者に血を移す初期のものであり,多少英雄的にみなされながらたいていは成功していませんでした。しかし,第二次世界大戦に伴うはなはだしい血の流出が輸血の利用を押し進めました。戦争はまた,わたしと同年齢の医師たちの多くを軍役に就かせました。わたしも陸軍軍医として働くことを志願しましたが,過去に結核の病歴があったことで退けられました。そののち,自分の病歴を特に示さないで海軍に入ることを試みましたが,何かのことでやはり明らかにされ,海軍もわたしを退けました。それでわたしは民間の外科医としての仕事を続けていました。

父は1950年初めに死にましたが,その時までわたしの生活の中心をなしていたのは,外科医としての生涯を追い求めてゆくことでした。しかし,父の死と,その葬儀のさいに聞いた講話とはわたしを大きく揺り動かし,宗教について真剣に考えさせるようになりました。

わたしにときに当惑を与えていたのは,両親がその宗教のことで常に嘲笑を受けていたことです。わたしは,両親が自分の信念にしたがって確固たる態度を取ることにいつも敬服していましたが,家を離れてからというもの,そのことについてはほとんど思いを致していませんでした。しかし今,生きることや死,また前途の希望としての神の王国に関する聖書の真理を聞き,昔の子ども時代の記憶がよみがえってきました。こうした点に関するその信念のために,父は多くの古い友人から宗教上の熱狂者とみなされ,父を気違い扱いする人さえいました。わたしは,父が教育のあるそう明な人であり,また他の人々の必要に敏感で,情趣を解する人であることを知っていました。父は研究や調査をせずに人の考えを受け入れたりする人ではなく,また,いつでも十分に考え抜いてから物事を判断する人でした。父は細心なまでに正直であり,なんの価値もない事がらに生涯をかけるとは考えられませんでした。父は宗教的な面で偽善者ではありませんでした。わたしは,神と人間に対する神の目的とについて父のいだいていた考えを細かに調べてみる必要を強く感じました。

生涯で初めてわたしは聖書を真剣に研究しはじめました。それは主として,父がそれに非常なまでの確信を置いていたことによります。わたしはひと月でそれを読み通し,また入手しうるかぎりの,ものみの塔協会の出版物を読みました。それは,聖書が神の真理であり,父はエホバの証人のひとりとして聖書を正しく理解していた,との確信をわたしに与えました。わたしはこの点で自分が何か行なわねばならないことを知っていました。こうして1950年,ヤンキー・スタディアムで開かれたエホバの証人の大会のさいに,神のご意志を行なうための自分の献身を水のバプテスマによって表わしました。葬儀のさいの同じ話に感動して聖書を真剣に調べるようになっていたわたしの兄弟ふたりもともにバプテスマを受けました。

聖書の述べることが真理であることを確信していたわたしは,血液の神聖さについて聖書の述べることをなんのためらいもなく受け入れました。それまでのわたしは幾百例もの輸血に関与し,幾多の技術的な向上による輸血処置そのものの進歩を見ていました。『血を避けるように』ということばが今やわたしにとって大きな問題を生みました。(使徒 15:20,29)わたしはサンタバーバラの医師グループとの交友を楽しみ,いつかその外科部門の主任となる見込みも持っていました。しかし,当時の“良識ある”内科および外科学は,血液の使用を必要な療法として定めていました。一方聖書は,神に受け入れられないものとしてそれを非としていました。すべての点で神のご意志を行なうという自分の献身を守るために取るべき道はほかにありません。それでわたしはその地位を離れました。

しかし,これからどうしたらよいのでしょうか。わたしには妻と二人の小さな子どもがおり,扶養してゆかねばなりませんでした。そのほか,外科医の訓練を受けるさいに作った負債をまだ返済してゆかねばなりませんでした。それでわたしは,医師を切実に必要としている場所を探すことにしました。また,輸血を断わるがゆえに手術を拒否されている証人たちがいるなら,そうした人たちを助けるために自分の外科の技術を生かせないだろうかとも考えました。

やがてわたしは,北カリフォルニアの木材切り出し地であるロイアルトンについて聞きました。そこには,連邦政府の建てた新しい病院があり,15のベッドのほか,十分な設備が整っていましたが,医師がいませんでした。そこでの医師の必要は切実でしたが,郡全体に医師は一人もいませんでした。そのころまでに,わたしは,宗教がかった医師の変わり者とみなされるようになっていましたが,そうした必要をかかえた町であればわたしを受け入れるだろうと考えました。そして実際に受け入れてくれました。

四年ほどの間,わたしはそこで一般医および外科医として働き,同時に,家から家を訪ねるクリスチャン奉仕者としても実際の経験を積みました。近隣の人々は,わたしのかばんを見てわたしがどんな仕事をしている時かを見分けました。わたしは家族とともにそこでの生活を楽しみ,聖書に関心をいだいてわたしたちとともに定期的に聖書を学ぶ人たちを大ぜい見つけました。ある時には七人の人がいっしょにバプテスマを受けました。

エホバの証人が宣べ伝える音信は,その孤立した小さな村々の人たちにとって全く新しいものであり,宣教に伴って数々の楽しい経験をしました。よく知られたひとりの村民は手術後に麻酔から覚め,死んでいる人は『何も知らない』はずだから自分がまだ死んでいないことを知っていた,と大声で語りました。また,地獄とはただの墓のことだからたとえ死んでも自分は火の燃えるしょう熱の地獄に行くのではないとも語りました。この患者は半意識状態の間に,疑問をいだいている人たちの名を挙げ,わたしがさらに詳しく説明して聞かせることを求めました。回復後まもなく,この患者もバプテスマを受けました。

医学上の狭量

わたしが,非常に条件に恵まれていたロイアルトンを去ったのはなぜでしょうか。各地を巡回する,ものみの塔協会の代表者が,わたしの奉仕,つまり,エホバの証人の会衆の主宰監督としてのわたしの奉仕がロイアルトン以上に求められている場所に移ることができるだろうかと尋ねたのです。わたしは,喜んでそれに応じますと答えました。こうしてわたしはカリフォルニア州ロディ市に移りました。

しかし,その地について六か月もたたないうちに,輸血の問題をめぐって市の医師たちと衝突が起きました。ある年配の証人が,わたしの援助を求めてよその町から来たのです。腹部の腫瘍のためにすでに重態であり,二段構えの手術が必要でした。しかし,第一段階の簡単な手術を始める以前に,麻酔部門と病院職員の代表たちからの反対がもたらされました。そして,その患者に輸血をしないなら,当人にどうしても必要な手術であっても拒否する,と通告してきました。宗教上の理由で患者自身が輸血を明確に断わっている,というわたしの論議は全く聞き入れられませんでした。手術は目だった危険もなく手早くすますことができる,という点も考慮されませんでした。また,そうした態度に基づく結果については当人が全面的に責任を持つという患者の意向も入れられませんでした。患者は病院を去ることを命じられました。

ついで,会合や聴聞が続き,医局員や病院管理者たちの怒りがわたしに集中しました。どんな説明も受け入れられませんでした。正式な手続きも経ぬまま,わたしはその病院の外科医としての地位を追われました。郡,州,そして全国の医師会が,わたしの会員資格を取り消しました。わたしはもはや,米国内の公に認められた病院で医師の地位に就くことが全くできなくなりました。a

これは,医師の仕事を,同情と人道に基づくものと考えていた者にとって衝撃的な経験でした。わたしのそれまでの経験や,人々との関係は,あまりに理想主義的だったのでしょうか。今わたしは,愚か者,また殺人者のごとく扱われていました。皮肉なことに,わたしを特に激しく責め立てる人々の多くは,いわゆる医療宣教師としての経歴を持つ人たちでした。医師である人々に対するわたしの特別の尊敬心はほとんど失われました。

別れのさいの病院側の通告は,エホバの証人にせよ他のだれにせよ医師の命ずる輸血に応じない者は当病院を使用できない旨病院理事会は決定した,というものでした。この決定がいかに強硬に適用されるかはその後数週間のうちに知らされました。母がわたしの家を訪ねてきましたが,わたしの家にいる間に心臓発作を起こしました。手術や輸血は全く関係していなかったにもかかわらず,病院側は彼女の入院を許しませんでした。やむなくわたしは,受け入れてくれる別の町の病院に彼女を連れて行きましたが,彼女は翌日に死にました。

患者となる証人たち

わたしは再び,どこに行ったらよいだろうか,という問題にぶつかりました。しかしまもなく,ロディから20キロほど離れたストックトンに,整骨医たちの私設の病院のあることを聞きました。わたしはそこの医師たちに相談し,自分の資格を提出し,輸血に対する自分の態度について話しました。そうです,彼らはわたしがそこの施設を使うことに同意しました。整骨医たちは医師会の除名処置に拘束されてはいなかったのです。ついでながら,年月の経過に伴って,そこの施設は大いに改良,拡大されました。こうしてわたしは,その後の14年の間,そこの病院で外科医として働くことになりました。以来,わたしの患者の中には,血に対するクリスチャンとしての態度のゆえに他の医師や病院から診療を断わられた証人たちが多くなりました。

それらの年月の間,またそれ以後も,わたしは一度といえ輸血を施したことはありません。大規模な手術をした人も大ぜいいましたが,わたしの知るかぎりでは,輸血をしなかったために命を失った患者はひとりもありません。血液に関する聖書の指示の真実さについて,その証拠をじかに見ることができたのは,わたしにとって特にうれしいことでした。医学界そのものも,血液が無害な救い手ではないことをしだいに認識するようになりました。今日,輸血は,危険な処置,他の臓器移植と同じように危険の伴う処置であることが認められています。今日の医学雑誌は,以前に唱えられたこの処置の便益よりも,それに伴う危険のほうを多く論じています。医業に携わった過去23年のあいだわたしが常道的に輸血を施してきたなら,今日認められるようになった,血液の投与に伴う数々の障害のいずれかのために苦しんだ人も多かったことでしょう。

手術のためストックトンのわたしのところに来た証人たちの多くは,わたしの深い敬意と嘆賞をさそいました。クリスチャンとしての良心のゆえに,彼らは自分の命また愛する者たちの命の危険を恐れませんでした。そして,病院職員たちは彼らの態度を尊重しました。証人たちは敬意のこもった協力的な人々であり,看護婦その他付き添う人々のことを常に思いやりました。事実,彼らは非常な信望を得たために,病院管理者たちは,入院を認める以前に患者の支払い能力を確かめるという形式手続きを彼らに対して省略するようになりました。

そのりっぱな態度によって証しをしたのは手術のために来た人たちだけではありません。ひとりの土地の証人の主婦がいましたが,その婦人は毎日病院を訪ね,エホバの証人として登録されている人たちを見舞いました。彼女の訪問は特に感謝されました。遠くから来て,ほかにだれも見舞う人のいない患者も多かったからです。そうした患者の願いや望みに答える彼女の親しみや思いやりの深さは,病院職員に大きな感銘を与えました。彼女がそうした患者と個人的な知り合いではないことを知っていたからです。

ある時,ひとりの証人が,1,600キロ以上も離れた所から,わたしのところに大きな手術を受けに来ました。その患者に付いた看護婦は,なぜその人がそれほど遠い所からやって来たのか不思議に思いました。その人はその外科医と知り合いだったのですか。そうではありません。その外科医の評判を聞いたことがあったのですか。そうです,聞いたことがありました。しかし,ここまで来たほんとうの理由は,この外科医が自分と同じくエホバ神を崇拝し,それに仕えていたからです。看護婦はそのことをわたしに伝えながら,エホバの証人たちを緊密に結び付けているのは,エホバに対するこの共通の崇拝と奉仕であることを認めました。

学びつづける

米国外科医師会は,外科医のあるべきすがたについて14世紀に書かれたものを好んで引き合いに出します。それは次のように述べています。

「外科医に求められるのは次の四点である。第一に,学識があること,第二に,熟達していること,第三に,創意があること,第四に,順応性があること。

「外科医は確かな事がらについては大胆であり,危険のある事がらについてはむしろ小心であるべきである。そして,欠点のある処置や作業はすべて避けなければならない。外科医は病む人に対して慈しみを持ち,自分の仲間を思いやり,徴候に基づく判断において慎重でなければならない。また,慎しみと,品位と,温順さと,あわれみと,同情心とに富むべきである。金銭的に貪欲であってはならず,過度の要求をする人であってはならない。むしろ,外科医の受ける報酬は,その仕事,患者の資力,問題の性質,そして外科医自身の尊厳に応じたものであるべきである」。

疑う余地のないことですが,こうした高い規準にかなうためには,絶えず努力を重ねてゆかねばなりません。人は学びつづけてゆくことが必要です。医学関係の書物は非常に多く出版されており,進歩についてゆくためにはそれらを調べ,あるものについては注意深く研究もしなければなりません。医学関係の会合やゼミナールも,必要な勉学を続けてゆくために大切です。経験と熟練によって,技術も向上してゆきます。忙しい外科医は毎日数度の手術をしなければならないこともあります。

努力して行なうどんな仕事の場合でもその成功を見るのはうれしいことですが,そのことは医師について特に言えます。患者が重い病気から回復してゆくのを見ると,深い喜びを感じます。人はそうした成功の例から学んでゆきますが,自分の失敗や過ちから学ぶことも確かです。もとより,外科医の過ちには大きな犠牲が伴いがちであり,外科医は常に慎重でなければなりません。しかし同時に,自分に対して正直であり,過ちというものが起こりうるものであることも認めなければなりません。外科医も患者もこうしたまじめな経験を通してそれぞれに何かを得ます。現代においてハムラビ法典が施行されていないのは幸いなことです。その法典のもとではいかなる外科医も過ちから学ぶことができませんでした。刑罰としてその手を切断されることになっていたからです。

適正な判断を下すことは,良い外科医であるための基本的な要求です。ベストセラーとなっているある外科医の自伝によると,物事を判断すること,取捨選択して物事を決定してゆくことは,外科医の仕事の最も重要な部分となっています。外科医は勤勉な研究と,経験と,技術の向上によって,自分の仕事の面で進歩してゆくことを願います。多くの医師は,患者の患部だけに注目するのではなく,“その人の全体”に目を向けることの大切さを強調します。当然のことながら,成功している外科医は,自分の患者についてその全体を見ることを学び取っている人です。それは,患者の患部だけでなく,その感情,不安,希望,またその良心上の意向をも考慮に入れる人です。外科的にせよあるいは他の方法にせよ,病気を首尾よく処理してはいても,患者の良心上の意向を無視して,患者個人の存在を無思慮に抹殺している場合があります。外科医は,患者の望まない治療法を強制しながら,それで正当であると感じるかもしれません。病気に対する自分のまさった知識からしてそれを当然と考えるかもしれません。しかし,患者の良心上の意向を考慮することができないなら,それは,判断を左右する精神構成上の欠点となります。患者について,“その人の全体”を扱っていないことになります。

現代外科学の業績

現代外科学の遂げた進歩には目ざましいものがあります。これはもはや,患部を体から切り取るだけの仕事ではありません。再構成や矯正という面でも多くの進歩が見られました。切断した四肢を再接合することができ,新たな関節を造ることも,また先天的な障害を持つ心臓や脚部を調整することもできます。進歩した新たな技法によって出血の制御が以前より容易になっています。手の込んだ精密な外科的処置として,レーザー光線を用いるものも多くあります。外科医は,自分の仲間である麻酔医や,手術チームの他の要員の技術の進歩についてもすぐに認めます。また,創意に富む技術者たちも,新しい道具や装備の開発に寄与しています。

今日では,腎臓・心臓・肺臓・肝臓など,臓器の移植についても多くのことがなされています。しかし,そうした処置についてはかつての父のことばを思い出します。医学校を出て家にいた時,わたしは,不妊手術を求めていた父の患者のひとりに精管切除手術を施しました。わたしは自分が新たに覚えた技術を誇りに思い,父はどう考えるかを尋ねました。父は,「患者はそれで満足しているだろうが,創造者はどうみなされるだろうか」と答えました。臓器の移植に対する創造者の見方であると信じている事がらに基づき,わたしはその聖書的な妥当性については大きなためらいをいだいています。

そうです,わたしたちは,創造者を除外して外科医術について考えることはできません。アレクシス・キャレル博士が「人間,この知られざるもの」という本の中で述べている点でもありますが,「[現代の外科医術]は,その非常な創意と,その方法における豪胆さとによって,往時の医学上の野望をことごとく凌が」したとはいえ,「最良の病院においてさえ……傷の治ゆは,何よりも[体の]適応機能に依存している」という事実は依然として変わりません。言い換えれば,いっさいのことは,創造者が人体に付与された治ゆ力にかかっているのです。

クリスチャン奉仕者としての活動

現代外科学の業績は目ざましいとはいえ,外科医でありまたクリスチャン奉仕者であるわたしは,霊的な価値が物質的また身体的価値に優先する,というイエスのことばに同意します。(マタイ 16:26)これは何を意味しているでしょうか。人々に永遠の生命の希望をさし示すことのできるクリスチャン奉仕者は,人々の命を幾年か伸ばすだけの現代の外科医よりも多くのことを成しうるという点です。わたしが数年前,サンタバーバラでの報いある仕事をすすんで離れたのはそうした理由によります。さらにわたしは,今日の外科術が必要のない時代が近いことにも気づいています。仮にわたしが自分の歩みをやり直すとすれば,外科医となるための長期の学校教育と訓練は選ばず,自分の時間をただクリスチャン宣教奉仕にささげる道を選び取るでしょう。

今日,わたしは豊かで充実した生活を楽しんでいます。わたしの二人の子どもはともに成人して結婚し,やはりクリスチャン奉仕者として,一人は会衆の長老,一人は遠い土地で宣教者として奉仕しています。わたし自身は,妻とともに,ものみの塔協会本部職員の一人として全時間のクリスチャン奉仕に携わり,仲間の全時間奉仕者や他の人々の必要に仕えています。そうした特権すべてがわたしに大きな益を与えてくれるものとなったことも述べねばなりません。わたしは,知恵ある聖書記者が記した,箴言 10章22節のことばに心から和することができます。「エホバの祝福 ― それが人を富ませるものであり,彼がそれに苦しみを加えることはない」― 寄稿。

[脚注]

a その間に数度の拒否がありましたが,結局12年後,わたしはあらためて加入申請をするように招かれ,元どおり医師会員としての地位を全面的に与えられました。

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