「タザラ」― アフリカ経済にとって恩恵となる新しい鉄道
ザンビアの「目ざめよ!」通信員
私もそこにいました。ですから,去る10月,西部ザンビアのカピリ・ムポシであった事が,その場にいた全部の人々にとって極めて感動的なものであったことをよく知っています。幾千人ものザンビア人と多数の中国人が,ある特別の催しのためにそこに集まっていました。彼らの興味は何にあったでしょうか。それは,ザンビアの太陽を浴びて光る,幾両かの客車を連結した青色の真新しいジーゼル機関車でした。「タザラ」(「タンザニア・ザンビア鉄道局」にちなんで命名された)として知られている珍しい鉄道の開通式がそこで行なわれるため,群衆は,最初に走る汽車の出発を見ようとして集まっていました。新しい鉄道は全長1,850キロ。カピリ・ムポシからタンザニアの海港ダル・エス・サラームまで通じています。
開通式は興奮に満ちたものでした。新聞は何週間も前から,ほとんど毎日のように,その鉄道が輸送するものやザンビアにもたらす益,工事の進行ぐあいなどを盛んに報道しました。多くの記事はこの鉄道を,「ザンビアの新しい生命線」,「ザンビアの大動脈」,「偉大なウフル[「自由」という意味]鉄道」とほめたたえました。
私も,タザラ鉄道でダル・エス・サラームへの初旅に上る汽車の乗客の一人でした。それで,この新しい交通機関についての興味深い事実を二,三お話しすることにしましょう。
変わっている点
もしあなたがほかの国の汽車に乗りつけている人であるなら,初めてタザラ鉄道を走るときには驚くかもしれません。あなたはこの鉄道が単線であることにすぐに気付くでしょう。「ええっ? じゃ逆方向に走っている汽車はどのようにしてすれ違うのですか」とあなたはおっしゃるでしょう。それは極めて簡単です。約13キロ置きに側線すなわち待避線があって,一つの汽車がそれに待避している間に,他の汽車が通過するのです。
もう一つあなたの目をとらえるのは,軌道の土台であるまくら木が,木ではなくてコンクリート材であることでしょう。この熱帯地方では,木材のまくら木を使うことは,白アリに非常なごちそうをしてやるようなものなのです。また,根を深くおろす草を鉄道の築堤に植えることにも多くの努力を傾ける必要がありました。草は地を縛り,11月の間ザンビアに降りそそぐ大雨に洗い流されないように,土を守るのです。
トンネルは全部で19ありますが,そのうちの18は,タンザニアの中心部に近い,距離にして150キロの一つの保線区の中にあります。この箇所で鉄道はウズングワ山脈を貫いて進みます。興味深いことに,敷設作業員たちが敷設予定表に挑んで最大の能率を上げたのは,このむずかしい地域においてでした。
中国の援助
タザラ鉄道は大いに必要とされていたものです。ザンビアは陸地に囲まれた国ですから,経済面で生き延びるためには,食糧,原料,採掘用具などを輸入しなければなりません。また商品を輸出することも必要です。ザンビアの輸出による収入の90%を占めるのは銅です。鉄道はザンビアの対外貿易の機会を増やすのに必要でした。しかし,そのような大がかりな計画に必要な資金はどこから出たのでしょうか。
私は,カピリ・ムポシを出発してからしばらくの間このことを考えていました。列車は,樹木の茂った,なだらかに起伏する高原を横断していました。この地域では,新しくできた道路に平行して汽車が走っているので,中国人の運転する灰色のトラックがたくさん目につきます。彼らはそれとすぐにわかる青色がかったグレーの制服を着ています。この敷設工事に従事した中国人労働者は,最近の概算では1万5,000人から4万2,000人とされています。ですからこの鉄道は,ザンビア人とタンザニア人の労働者の助けを得て中国人が建設した,と言えるかもしれません。
それにしても中国はどんないきさつから,アフリカの鉄道の敷設と関係を持つようになったのでしょうか。まず,資金獲得の第一歩は,世界銀行への借款申し込みでした。しかしそれは拒絶されました。次いで,アメリカ,イギリス,西ドイツ,フランス,ソ連などから資金を借りる努力がなされましたが,それらの国にも断わられました。
しかし1965年の初頭,見通しは明るくなりはじめました。その当時タンザニアのニエレレ大統領は中国を訪問しましたが,同大統領の帰国前に中国は,タンザニア側の鉄道敷設資金を一億ポンド(当時の日本円で約1,000億円)まで融資する約束をしました。2年後にはザンビアのカウンダ大統領が北京を訪問しました。その時には,ザンビア,タンザニアそして中国の政府は一つの協定を結びました。そして中国はそれに従って,測量,設計,施工,設備などに必要な資金をさらに無利子で貸与することを約束しました。
このほかに中国は,ザンビア人とタンザニア人の職員に鉄道を運営し維持させるための訓練を施すことに同意しました。その後1970年の7月に北京はもう一度,1億6,700万ポンド(当時の日本円で約1,436億2,000万円)の無利子の借款に応じました。これはザンビアとタンザニアの間で均等に分けられ,1983年から30年にわたって返済されます。敷設工事は1970年の半ばに開始され,そして1976年7月14日,中国の首相代理は,完成した鉄道を正式にザンビア,タンザニア両政府に引き渡しました。
経済上の利益
タザラ鉄道にかけられている希望は大きく,特にザンビアとタンザニアにはかなりの経済上の利益をもたらすことが予想されています。この鉄道は,農業と畜産の発達を促すものと期待されています。例えば,ザンビアの国境から50キロほど行ったところにムベヤというタンザニアの町がありますが,このムベヤの周辺の高原や丘陵地帯は,穀物,脂肪種子その他を栽培する相当の潜在能力を有しています。またタンザニアの中ほどにはキロンベロ渓谷があり,この渓谷は現在でもサトウキビの主産地となっています。よくかんがいされた肥沃なキロンベロの土壌は,大きな可能性を宿しています。サトウキビのほかに,イネや野菜の栽培,家畜の飼育にも適しています。港町ダル・エス・サラームへの輸送が鉄道で簡単にできるということは,農業生産が促進される十分の理由となるでしょう。
タザラ鉄道は工業の発達も大いに刺激するにちがいありません。ムベヤからダル・エス・サラームまでの銅輸送の貨物料金が安くなるのは一つの利点でしょう。トラックで運搬する現在の方法には多くの問題があります。重量を平均に配分しなければならないので,銅棒をバラで輸送することが必要です。そして港に着いたらそれらを荷置台に乗せなければならないので,そこでまた手がかかるうえに,保管料を取られます。しかし鉄道輸送の場合は,鉱山で銅をすぐに荷置台に乗せることが可能です。そのため,一トンにつき2.70ポンド(約1,270円)もの費用の節約になります。
工業を発達させるもう一つの潜在力として,ムベヤの東方200キロのところに,鉄鉱石の鉱床と石炭の炭層があります。その埋蔵量は,鉄9,000万トン,石炭15億トンと見られています。「アフリカ・ミドルイースト・ビジネス・ダイジェスト」によると,中国はもう一つの借款に応じました。このたびの額は6,500万ポンド(約305億5,000万円)で,鉄を豊富に埋蔵するこの地域に完全な製鋼工場を建て,また鉱床と新しい鉄道とを結ぶ支線を敷設するのに用いられます。
ムベヤの場合にはソ連が,新しいセメント工場建設のための資金を供給する約束をしています。キロンベロ渓谷にはパルプ・製紙工場を建てることが今考慮されています。またザンビアのカサマには,自動車組立工場が二つできる予定です。一つはメルセデス・ベンツ,もう一つはトヨタ・トラックの工場です。
ダル・エス・サラームは発展に対応できるか,
ダル・エス・サラームに到着した私たちは,気持ちのよい歓迎を受けました。真昼の暑い太陽が照りつける中でタンザニア人たちは,「ジャンボ! ジャンボ!」と興奮して叫びました。これはスワヒリ語で,「今日は」という意味です。彼らの背後には,インド洋があり,海岸はヤシの木で縁取られていました。
しかし,多くの人の胸には一つの疑問がありました。鉄道はザンビアが必要とする輸入品をすべて運ぶことができますが,ダル・エス・サラームの港は,需要の増加に対処できるのでしょうか。
確かにこの港は近年急速に拡張されました。しかし問題はたくさんあります。昨年中ザンビアの荷は港にたまりがちでした。それは,ザンビアにトラックが十分にないためだ,とある人たちは言い,他の人々は,東部アフリカ港湾組合が付ける荷物の順番の番号があいまいなためだ,と言います。また,クレーンとかフォークリフトといった港の備品の多くが,整備されないために,あるいは代わりの部品の来るのを待っているために使えない,ということもあります。
ダル・エス・サラームが,タザラ鉄道によって生ずる需要の増加に歩調を合わせられるかどうかは,将来にならねば分かりません。いずれにせよ,タザラ鉄道がアフリカ経済にとって恵みとなることは,間違いありません。
[25ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
アフリカ
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