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  • わたしは心臓手術を受けた
  • 目ざめよ! 1977
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目ざめよ! 1977
目77 2/22 12–16ページ

わたしは心臓手術を受けた

場所はオーストラリア,メルボルンのセント・ビンセント病院。心臓手術を24時間後にひかえていた時。子供たちのひとりからの,愛情にみちた手紙を読みながら,次のように考えたのをわたしは覚えています。「神の助けがなければ,このやっかいな病気を克服して生命をとりとめることはできない」。

何年にもわたってわたしは自分の健康がそれほど優れないことに何度も気づいていました。ただどこが悪いのかは,医者にもはっきり分からなかったのです。1973年の3月,勤めていた会社で管理職全員の精密な健康診断が実施されました。

その結果,何の異常も認められなかったものの,わたしはとうてい満足できませんでした。体のぐあいは少しも良くなかったからです。たいした運動をした訳でもないのに,よく息切れがしました。しかし時がたつにつれて,わたしの年齢の者には普通のことと考えて気にしなくなりました。わたしは48歳でした。

確かな徴候が現われる

1973年12月,オーストラリア東岸シドニーのランドウィック競馬場で開かれたエホバの証人の大会にわたしは家族と共に出かけました。駐車場は広かったのですが,会場までかなり歩かねばならず,毎日,車を置いてからわたしは息切れして他の人々の後からついて行くのがやっとでした。

大会が終わり,妻とわたしは車でジャービス・ベイに行き,海辺に休日用の小さな家を持っている妻の両親を訪問しました。ある朝,いつもの習慣通り浜辺を数マイル散歩したあとで,わたしは海に飛び込みました。しかし少し泳ぐと気が遠くなりそうになっていることに気づき,やっとのことで水から上がると,砂浜によろめいてそのまま倒れてしまったのです。

気がつくと,息子や他の人々の肩にかつがれた担架の上に横たえられていました。死者は無意識であるのに,棺おけをかついでいる人々が実際に見えるのはどうしたことだろう。そんな考えがふと心の中をよぎりました。どんな時にも,こっけいな考えが浮かぶものと見えます。

救急車で最寄りの病院に運ばれたわたしは,診察の結果,異常のないことが分かって帰宅を許されました。翌日,わたしはなんともなかったので,浜辺の散歩だけをやめて軽くひと泳ぎすることにしました。その結果は前の日と同じ事の繰り返しでした。わたしは救急車の運転手と“顔なじみ”になりました。

今度は病院でも明らかにどこか悪いところがあるのに気づきました。しかし精密検査をしなければ,その箇所をつきとめられません。西オーストラリアの自宅に帰り次第,精密検査を受けるよう勧められました。

病気が判明する

ほとんど妻の運転でわたしたちは道中無事に帰宅できました。わたしは専門医に診てもらうことにしましたが,何科の病気か分からないまま,結局,心臓の専門医の診察を受けました。

最初の診察でこの熟練した医師は聴診により心臓の弁に故障のあることに気づきました。しかし確実な診断を下すため,また他に異常がないことを確かめるために,わたしは心臓カテーテルと呼ばれる簡単な手術を受け,一晩入院しました。

ひじの静脈に挿入された管は腕の中を上方に押しやられ,ついで下方に向かって心臓部に達します。染料を溶かした液がそこで血液中に放出され,その結果,冠状動脈と心臓部の写真をビデオテープにとることが可能になるのです。これらの写真は壁の上のテレビスクリーンに写し出されて本人と医師たちがそれを見ます。これはもう普通の検査法になっていると思います。

こうして大動脈弁に異常のあることが確かめられました。また心臓に血液を与える冠状動脈のうち,一方はほとんど完全に,他方は部分的に閉そくされていました。そこでこれを矯正するための心臓手術を直ちに受けることになりました。

これには欠陥のある大動脈弁をプラスチックの弁にまず取り替えることが含まれます。この弁を通って血液は心臓の左心室から大動脈を経て全身に送り出されるのです。

次の段階は足の血管の一部を取り,それを使って冠状動脈に二本の側血行路をつけることです。冠状動脈に移植されたこれらの管は,脂肪のたい積によって閉そくの生じている冠状動脈を迂回して血液の流れる新しい通路になります。こうして血液は自由に流れるようになり,心臓は酸素を与えられた不可欠の新鮮な血液で養われます。

ついでですが,脂肪のたい積によって冠状動脈が部分的に詰まる症状は,今日珍しいものではありません。それはよくある心臓まひを含め,心臓病の原因中大きな割合を占めています。a しかしわたしの場合,明らかに心臓が実際の害を受けることなく,一時的な意識喪失というかたちで心臓病の警告が与えられたのは幸いでした。

無血の手術?

わたしは手術のために必要な手はずを整えることを求めました。しかし輸血は一切受けないことを説明しました。血をとり入れることは,聖書に基づくわたしの信仰に反するからです。医師はわたしが事態の重大さに気づいていないのかと思い,代わりの方法として,次の週あたりにかけてわたしから採った血液を保存し,手術中に使うことを提案しました。

わたしは申命記 12章23,24節(口)を読んで,血の使用に関する神の見解を説明しました。「ただ堅く慎んで,その血を食べないようにしなければならない。血は命だからである。その命を肉と一緒に食べてはならない。あなたはそれを食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない」。それで輸血用に血液を保存することは,聖書から見てわたしには異存があることを告げました。

医師はこのことについて同僚の医師三人と協議した結果,現在の事態の下では西オーストラリアで手術をすることは不可能であるとの結論に達しました。そして東オーストラリア,メルボルン市在住の医師で,高度の技術を持つ人に診てもらってはどうかと勧めました。この人はエホバの証人に無血の心臓手術をしたことがある医師です。しかし期待し過ぎてはいけないので,メルボルンの医師に症状を詳しく知らせてからの事にするようにとの話でした。プラスチックの弁に取り替え,二本の側血行路をつけ,加えて足の血管を切除すること ― このすべてを輸血なしで行なうことが普通でないと考えられたのは明らかです。

この病気のことを知った時には本当に暗たんたる思いでした。初めそれは二つの面でショックでした。第一にこれが他の人にではなく自分自身の体験として降り懸かってきたのは生まれて初めてであったことです。第二に,突然死ぬかもしれないという事は恐ろしい経験で,なれることが必要です。しかしエホバを自分の神として勇気と力をエホバに求め得たことは大きな慰めでした。

心臓をX線撮影したビデオテープを含め,検査の結果がメルボルンの医師に送られました。数日後,手術をする用意がある旨の知らせを受けて,わたしは48時間以内にメルボルンに到着することが必要になりました。到着後何時間も経ずにわたしは入院しました。

心臓手術の設備は非常に高価なため,それを備えた病院はここオーストラリアでは各州の首都に一つあるに過ぎません。メルボルンの場合,それはセント・ビンセント病院です。医師は最初の晩に病室を訪ね,命をとりとめるチャンスがきわめて小さいことを告げて,血に関するわたしの信仰のことを考えるのをやめるよう言葉をつくして説得に努めました。事実,彼は何とかしてわたしの考えを変えさせようと,おどかしたのです。それは功を奏しました!

わたしはベッドの中でひざがわななくのを感じました。彼の去って後,わたしは,手術について医師の考えが変わったのではないかと感じました。わたしもまた考え直す気持ちになりかけたのです。わたしは服を早く着て病院を出るべきか,留まって事態を最後まで見届けるべきかに迷いました。クリスチャンであることには,その夜たしかに大きな意味がありました。わたしたちがどんなに神を必要としているかを,わたしは悟りました。

医師が後に妻に語ったところによると,彼は事態を慎重にはかりました。このような手術後には患者の30パーセントが明らかに内出血を起こし,輸血しなければ重大な結果になり得ます。しかしこの同じ病院でその日に一人の患者が適合しない血液型の輸血を受けて死亡したことを新聞で読んだわたしは意を強くしました。隣りのベッドの人はこう言いました,「輸血を受けることが心配になってきました。輸血は危険を承知でするものらしいですね」。

手術の準備

手術までの一週間,わたしは落ち着くため,また検査を重ねたり,呼吸法を練習したりするための時間を病院で過ごすことになりました。心臓を切開する手術のあとで患者は最初に呼吸困難を経験します。それで何を期待すべきかを前もって知り,それに対処する方法を学んでおくことが大切なのです。これは後になって,思いの平安を得ることと本人の福祉に役立ちます。

手術前のこの週にわたしは手術に関係する大ぜいの医師の訪問を受けました。手術は高度の技術を持つ大ぜいの医師のチームワークによって行なわれます。胸腔を開くことが必要であり,そのために胸骨を縦に断ち切るということでした。これは一種のポータブル丸のこを使って行なわれます。いよいよその時になると,わたしは眠っていたのでこの“商売道具”を見る機会がなくて幸いでした。

人工心肺装置を受け持つ医師が語ったところによると,この機械は手術の間,約二時間にわたってわたしの心臓と肺の機能を肩代わりしなければなりません。普通この機械には血液を満たしますが,わたしの場合には塩溶液を代用することになっていました。血液が体からこの機械を通って流れる時に酸素を与えられ,華氏でおよそ84度(摂氏29度)に冷やされます。それから体の循環系統に送り込まれるのです。これによって医師は低温のために鼓動を止めている心臓に操作を加える貴重な時間を得ます。

ついに手術が終わり,心臓を正常の体温にもどす難しい時が来ます。その時,心臓は電気ショックによって再び動き始め,わたしは“復職”します。最後に胸腔が閉じられます。

手術の二,三日前,側血行路を担当する技術者が訪れて自己紹介をしました。彼は自分の兄弟がエホバの証人であることを述べ,エホバの証人の迷信的でないことを知っているので,わたしがこの装置を使う十三人目のエホバの証人であると語りました。またせいぜいわたしを元気づけようと,この手術で死亡した例がもう長い間ないことを教えてくれました。わたしはこの人の訪問を感謝しました。

その週の終わるころには医師も看護婦も事態にすっかり適応して,親切以上のものをわたしに示してくれました。事実,わたしは色々な人と聖書の話をしました。人間の惨めさ,病気,不完全さが身にしみて感じられるこのような場所で聖書の音信がよく受け入れられることを感じた次第です。

そして最後の晩,家族が病室を去ってからわたしは祈りによって大きな慰めを見いだしました。わたしは聖書を持ったまま眠ってしまったに違いありません。翌朝,麻酔をかけるための注射をされた時,それはまだベッドの中にあったからです。1974年2月22日の事はそれきり覚えていません。

回復

数日後,集中看護病棟で目を覚ました時,わたしは多量の鎮痛剤を与えられていました。マスク,上着,帽子で身を固めてベッドに近づいて来る妻の姿を見たのが最初の記憶です。感染の危険が大きいため,彼女は数分間の滞在を許されただけでした。しかし「お行儀よくしていてくださいね」と彼女が言ったのを覚えています。チューブやパイプでがんじがらめにされているから行儀悪くしようと思ってもできないよと,わたしは答えました。

手術の日,病院には居ないようにと医師は彼女に告げていました。そして約束通り,手術終了と同時に電話をかけ,無事に済んだことを知らせたのです。手術は全体で五時間かかりましたが,輸血をせずに成功しました。医師はこれを「臨床経験上の一進歩」と語っています。

実際に行なわれた手術は“大”手術ではなくて“量的”手術として分類されました。手術を行なったチームの細心の注意により,手術中に失われた血液は一パイントに過ぎませんでした。別に一パイントが,胸の下部から入れられていたチューブから後に取り出されました。このチューブは明らかにこの目的のために残されていたものです。

手術後二日目にわたしの精神は明らかに混乱していましたが,これは一時的なものに過ぎませんでした。四日目に術後病棟に移されてからは,体が非常に弱っていたとはいえ,その後間もなくして起き上がり,字を書けるようになりました。

手術後二週間で退院を許され,さらに一週間後,帰宅するためのジェット機に乗る前にわたしは手術をしたチームの主治医を最後に訪れました。これは通常の検査と診察のためです。医師はわたしの回復の経過を見守ることに関心を示し,西オーストラリア,パースの主治医と連絡をとりたいと語りました。わたしは「とこしえの命に導く真理」という本と聖書を渡しましたが,彼はそれを読むことを約束しました。

今なお疾病年金を受けているとはいえ,わたしは近い将来,勤めを再び始めたいと考えています。わたしの健康は著しく改善されました。わたしは毎日泳ぎ,ゴルフをし,退院以来2,000マイル(3,200キロ)ぐらいは歩いたと思います。

振り返ってみると,過ぐる二年間は一生のうちで最も報いの大きかった年であると心から言えます。なるほど,わたしが20年間勤めた会社は,健康の面で将来性をあやぶんでわたしの退職を取り決めましたが,その時は病気が悪くてそれを心配するどころではありませんでした。しかしそれ以来わたしは霊的に報いのある経験を数多く楽しみ,また多くの事をいっそう深く認識するようになりました。

病人や老人に対する理解と同情を深めたことはそのひとつです。しかし何にもまして,人生にかつてなかったほどに真の目的と意義を見いだすようになりました。わたしはわたしの神エホバに対して感ずる愛を言葉で言い表わすことはできません。

手術後六か月たってわたしは妻を伴い,家から家に証言する活動を再開できました。ほとんどすべての場合,家の人に招じ入れられ,ひじ掛け椅子に座って訪問の目的をゆっくり話すことができます。聖書に基づいたすばらしい希望を他の人々に語ることは,大いに徳を高め,また報いあるものとなってきました。

現在の状態の下でわたしの余命は短くなり,会社から見れば危険率が高いにせよ,神の王国の支配の下で人間が完全な健康と永遠の命を享受するという神のお目的を確かに知ることから,わたしは引き続き力を得ています。神の支配の下にやがて住む人々に対して聖書は次のことを約束しています。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)― 寄稿。

[脚注]

a 1975年11月8日号「目ざめよ!」誌の「心臓発作 ― この現代病に対処する」という記事をご覧ください。

[15ページの写真]

わたしは毎日泳ぎ,わたしの健康は著しく改善されました

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