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目ざめよ! 1977
目77 5/22 13–15ページ

さまざまの文化の入り混じる“人種のるつぼ”

オーストラリアの「目ざめよ!」通信員

皆さんは,オーストラリアを訪れたことがありますか。たとえ訪れたことがなくても,その大陸の高温で乾燥しきったさばくや,広大な森林地帯などについて聞いたことがおありでしょう。そのように聞いて,オーストラリアが,主に粗野な辺境開拓者たちの住む国であることを連想しますか。

確かに,この大陸には広大なさばく地帯があります。オーストラリアの面積は米国とほぼ同じですが,人口は米国の7%足らずです。とはいうもののオーストラリアは,都会人の国と呼ぶのに最も適しています。1,300万人の住民のうち,半数以上は都会に住んでいるのです。

しかも,それらは,古めかしい“辺境”都市などではありません。それどころか,中にはニューヨークやロンドン,また世界の他の大都市特有の,超高層ビルや交通渋帯や雑踏などの見られる都市も幾つかあります。旅行者たちは,宿泊場所として多くのホテルやモーテルがあることに気付きますし,数多くあるレストランは大抵どこの国の人の味覚をも満足させてくれます。

オーストラリア社会独特の現象といえば,近年に見られた目ざましい成長ぶりです。1945年以来,人口は600万近くも増加しました。それらの人々は一体どこから来たのでしょうか。鉄鉱石の採掘が行なわれている西部のある町の管理者は,町の住民について次のように語りました。「大抵の人は私と同じようにオーストラリア生まれではありません。私はドイツ生まれで,この国に来て17年になります。ここはちょうど人種のるつぼのようですが,それでいいんですよ」。戦後に移住してきた人々が,この大陸の住民の40%を占めているのです。

オーストラリアの人口のうち移民の占める率がこれほど高いのは,なぜでしょうか。ここで,歴史上のいくつかの重要な出来事を簡単に振り返ってみるのは,興味深いことでしょう。

オーストラリアの初期の移住者

オーストラリアの原住民が,インドネシアの多島海を経てアジアから移住したことは明らかです。今日生存しているその子孫は“アボリジニー”と呼ばれています。それは,“最初から”という意味のラテン語アーブ・オウリギネという句から来ています。アボリジニーの大部分は,現在でも,作物の栽培などせず,仮の住みかを造るだけの遊牧民の生活を続けています。

しかし,これらオーストラリア原住民の多くが自ら取り入れている生活様式が原始的だからと言って考え違いをしないでください。それは,知性の欠如を表わしている訳ではありません。アボリジニー定住地の管理者は,「彼らはただ我々のような考え方をしないだけである」と述べました。アボリジニーの持つ鋭敏な知力を示すものとして,ブリタニカ百科事典(1976年版)は,オーストラリアのアボリジニー言語が260近くもあることを述べています。「各部族は少なくとも一つのはっきりした言語を話すが,多くの地域では,二種類,あるいはそれ以上の言語を使えるのが普通である。……一般的に言って,オーストラリアの言語には文法的な面でかなりの複雑さが見られる」。

オーストラリアにわずかな人しか住んでいなかった16世紀から17世紀にかけて,ポルトガル,スペイン,オランダ,英国などの探険家が大陸の一部を発見し,その沿岸地方の地図を作りました。しかし,それらの人々はこの地に定住しようとはしませんでした。1770年には,キャプテン・ジェームズ・クックがオーストラリアの東部を英国領土とすることを宣言しました。

その後まもなくして,移民が始まりました。しかし,その移民は非常に変わった方法で行なわれました。どうしてそう言えますか。18世紀初頭に,英国は囚人たちをアメリカの13の植民地に送り込んでいましたが,1776年にそれらの植民地を失ったため,急いで,流刑植民地とするのに適した新しい土地を捜し始めました。そうした最初の植民地は,1788年に,オーストラリア南東部ニュー・サウス・ウェールズのシドニーに建設されました。有罪判決を受けて英国からオーストラリアへ運ばれてきた罪人たちが,最初の“移民”だったという訳です。それらの流刑囚たちの多くは,刑期を終えてからもオーストラリアにとどまりました。

天然資源の魅力

そうした初期の時代にオーストラリアに移住した人で,自由な人はほんのわずかでした。事実,その当時,自由な人が移住することは余り勧められていませんでした。ところが,そのような事態を一変させるような出来事が起こりました。それは何だったのでしょうか。

1800年代の中ごろ,オーストラリアで金が発見されたのです。この出来事は,世界中の冒険好きな人々を引き付けずにはおきませんでした。ドイツ人,ハンガリー人,スカンジナビア人,ポーランド人,米国人,中国人などが群れをなして採金地へ押し寄せて来ました。そのために,囚人の輸送は急に中止されることになりました。

オーストラリアには,金のほかにも,ニッケル,銅,アルミニウム,亜鉛,鉄などの重要な金属が埋蔵されていることが分かりました。オーストラリア西部の鉄鉱石採掘場で働いている一人の人は,最近,次のように述べました。「ここの鉱床は,世界でも有数のものであり,その長さは4マイル(約6.5㌔),幅は4,000フィート(約1.2㌔),深さは500フィート(約150㍍)もある。そして,これが採掘し尽くされても,鉱床はまだほかにもある」。確かに,最近行なわれた調査により,オーストラリアには,まだ,ばく大な量の重要金属が埋蔵されていることが分かりました。

しかし,天然資源はあっても,第二次世界大戦終結時でさえ,オーストラリアの人口は749万1,000人にしか達しておらず,これは一平方㌔に一人という割合でした。住宅,学校,病院などの不足は深刻な問題でした。石炭の産出と鉄鋼生産は低下し,運輸業も同様でした。町中が停電になることもよくあり,人手がどうしても必要でした。その必要はどのようにして満たされたのでしょうか。

“人種のるつぼ”の成員

1945年には政府の移民計画が実施されました。この時期は,そうした試みを実施するのにちょうど適していました。戦禍を被ったヨーロッパの人々の多くは,オーストラリアでの新しい生活を夢見て人生の再出発を願っていたからです。

第二次世界大戦直後は,移住して来る人もわずかでしたが,やがて,人々は洪水のように押し寄せて来るようになりました。第二次世界大戦以来,300万人以上の移民がオーストラリアに移住して来たものと推定されます。その中には,イタリア,ギリシャ,オランダ,西ドイツ,ユーゴスラビア,ポーランド,オーストリアなどから来た人々が含まれており,もっと最近は,南米から移住して来た人々もいます。新しく到着した人々の約65%は,オーストラリア政府から財政的援助を受けました。また,多くの移民たちは,政府が準備した宿所に落ち着きました。こうした大規模な移民計画を実施した結果,オーストラリアの人口は,1945年以来,二倍近くになりました。

しかし,そうした多種多様な人々を一緒にするのは賢明なことでしたか。最初のうち,批判的な人たちは,移民計画は不幸な結果に終わるだろうと言い切っていました。彼らは,かつて白人と中国人採金者の間に苦々しい出来事が起きたことを思い起こしました。また,北部熱帯地方のサトウキビ畑で働かせるために賃金の安い労働者を移住させた結果,アングロサクソン系以外のあらゆる国籍の移民に対して人々は敵意を抱くようになりました。移民計画は昔の争いをむし返し,暴力沙汰をさえ引き起こすことになったのでしょうか。

最初のうちは,未知の言語や文化を持ち,仕事や生活,また食事などの習慣も異なっている移民たちが波のように押し寄せて来たため,ある程度のいら立ちが見られました。そうした特殊性に加えて,“新オーストラリア人”(移民はこう呼ばれるようになった)は,大抵,他の人々よりも機敏に働きました。このことが恐らく,失業するのではないかという不安感を“従来の”オーストラリア人労働者に抱かせ,彼らのいら立ちのもととなったのでしょう。「あのオーストラリア人たちは,我々のことを外国人と呼んだ」と,オーストラリアの最西端,カーナーボンに移住したポルトガル人のある農夫は語りました。「オーストラリア人は,我々がトマトやアマトウガラシ,その他あらゆる野菜を栽培するのに,一生懸命働きすぎると言って,我々を嫌っている。我々は仕事のやり方を知っており,働くのが好きだ。私はけさも,1,100箱のトマトを出荷してきた」。

これらの問題に加えて,移民たちは精神的な面での問題にも悩まされました。多くの人々にとって,生活様式の変化は相当なもので,ホームシックにかかることも珍しくありませんでした。また子供たちは,親よりも速く英語を覚えたので,通訳としての役目を果たし,英語を話せない親に代わって家族の種々の責任を負わねばなりませんでした。子供たちは,南欧風の厳しい両親の権威と,オーストラリア社会の自由な生き方の間に立って戸惑いを感ずるのです。

多くの文化から益を得る

しかし,全体的に見れば,深刻な問題らしいものは何も起きませんでした。異なった国籍の労働者たちは,お互いに学び取るところがあることを知りました。事実,もし移民たちがいなかったら,産業はこれほど発達しなかったでしょう。今では,街路でも,オーストラリア人の家庭でも,英語だけでなく他の様々な言語を耳にします。

店には普通,店員が話す言語を示した看板が掛けられています。ニュー・サウス・ウェールズのウロンゴングにある製鋼所の工場新聞には,四か国語の欄があります。それによって,二万人ほどの工員の必要が満たされます。その約半数は,40余りの異なった国々から来た移民で占められているからです。

それぞれの民族集団の高齢の人々は,各々の文化を保存しようとしており,そのことはオーストラリアの生活に色彩と変化を添えています。イタリア人のサトウキビの町,ギリシャ人の漁村,ドイツ人のぶどう園などがあり,中国人の寺院さえ,この“地球の裏側の国”で見ることができます。それは変わった建築様式の建物で,歴史的建造物として政府の保護を受けているのです。

エホバの証人は,この“人種のるつぼ”のようなところで,喜んで隣人に聖書の真理を分け与えています。エホバの証人は,伝道する際に数か国語の聖書文書を携えて行くことが必要な区域が少なくないと感じています。ギリシャ語,イタリア語,スペイン語,スラブ語,そしてアラビア語を話す人々の必要を顧みるために,20の大きな会衆があります。ハンガリー人,ポルトガル人,シリア人の間でも定期的な集会が開かれています。幾千人もの移民たちは,母国語で聖書の真理を聞くことができた結果,生活を聖書の原則に調和させるよう大きな変化を遂げてきました。

オーストラリアの人々は,世界でも類を見ないほど複雑な多文化の社会を構成しています。しかし,オーストラリア人が訪問者に手を差し出して,“やあ,ごきげんいかがですか”と暖かく話し掛けるのを聞けば,来たばかりの人でも,暖かで誠実な印象を受けることでしょう。皆さんもそのうち,私たちを訪ねて来られてはいかがですか。

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