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目ざめよ! 1977
目77 5/22 16–23ページ

生と死に対するヒンズー教の見方を考える

インドのジャムナガル市の著名な実業家であった父は危篤状態に陥っていました。幾年もの間父は心臓を患っていましたが,今度は合併症を起こしてしまったのです。

ニューヨーク州の北部に住む兄が,『できるだけ早く,一週間以内に帰国するように』との電話を受けたのは1976年2月のことでした。兄はすぐ私に連絡をしてくれ,二日後,私たちはニューヨークのケネディ空港で飛行機に乗り込みました。

帰国するのは八年ぶりのことですが,その間にいろいろな事がありました。そこで,長い空の旅の間座席に身を沈めて,多くの事柄を思い起こしました。

背景と思想

1960年代の初めころ,私は父の取り計らいで米国の大学へ留学しました。私は元々ヒンズー教徒として育てられましたが,卒業後,聖書を研究するようになって,私の宗教的な見解は変化してゆきました。やがて私は,この点に関して,父とかなりひんぱんに手紙のやり取りをしました。父は非常に信心深い人で,自ら導師に付いていたほどです。私の子供のころ,父がヒマラヤに住む導師を訪れるため毎年数週間家を留守にしたことが思い起こされます。

それで,私たちを乗せたジェット機が夜間飛行を続ける間も,私は父の状態のことをずっと考えていました。そしてこう思いました。父は,死後の命について今ではどう考えているだろうか。危篤状態にある父の確信はどれほど強固なものだろうか。

私は,父が手紙の中で述べていた事柄について考えました。例えば,1973年の8月の手紙に父はこう書いていました。「至高の実在者であるブラフマンから得られる力は,他のいかなる力をもしのぐ。……真の力があれば,死に直面してもおじけ付くことはない。死とは肉体という覆いに影響を及ぼす変化にすぎないことを,よく知っているからである。自己は死ぬことがない。それは生まれて来たことがないからである。……

「この知識を持った人は,苦難に遭っても笑みを浮かべてそれを甘受し,自分を苦しめる者のために祈る。死に際して,その人は石のように硬くなる。『神の足に触れた』からである。……ゆえに,賢人の肉体的な死は,ヒンズー教の用語でマハト-シャマディー,つまり『偉大なる法悦』として描写されている」。

父は,他のヒンズー教徒と同様,“内なる自己”,すなわち魂の不滅を信じていました。この魂は,ただ肉体,つまり“外なる自己”の中に納められているにすぎない,と父は考えていました。死に際して,“真の自己”は解き放され,“転生”する,つまり別の肉体に乗り移ります。人の行ないが立派でふさわしいものであれば,死に際してその人はより高い存在に生まれ変わるが,もしその人の生活態度が悪いと,“真の自己”は下等な動物の中に入ることさえある,と父は信じていました。

父が死に直面している現在,その信念が父を支え,助けるのにどれほど役立っているのだろうかと私は考えました。また,家族の他の人々や故郷での生活のことなども頭の中に浮かんできました。

弟も妹も,私がこの前二人に会った後に,結婚していました。二人とも自分で自分の配偶者を選びましたが,それはインドの習慣を捨てたことを意味します。社会的な習慣に変化が起きていることは知っていましたが,私は今や好奇心に駆られ,自分で物事を確かめたいと思いました。

例えば,私がジャムナガルで成長したころ,舅が嫁の顔を見たり,嫁が直接舅に話したりすることは社会的に許されていませんでした。ですから,私たちと一緒に生活していた祖父は,決して私の母の顔を見ようとしませんでした。また,祖父から話し掛けられても,母は決して直接返事をせず,それが電話の場合でも,必ず別の人を通して用件を伝えました。祖父と母が二人だけで同じ部屋にいることは決してありませんでした。

また,未婚の若い男女が手をつなぐことはもちろん,互いに話し合うことさえ社会的に許されてはいませんでした。若い男女がジャムナガルの街角でそうしているのを見たことがありません。私もジャムナガルに住んでいたときには,血のつながった家族以外の未婚の女性に話し掛けたことはありませんでした。それは社会的に許されていなかったのです。しかし,そのような習慣は現在どうなっているでしょうか。

ジャムナガルに到着する

私たちを乗せた飛行機は,2月27日の午後,インドのボンベイに着陸しました。何らかの手違いがあって,ジャムナガル行きの飛行機に私の席が予約されていなかったため,私たちは郷里から80㌔ほど離れた都市であるラジコート行きの飛行機に乗り込みました。そして,ラジコートからタクシーを使って家に向かいました。

その道すがら,いろいろな記憶がよみがえってきました。1950年代の後半,祖父は,現在グジャラート州の一部になっているサウラシュトラ州の農務大臣を務めていました。高校が休みに入ると,祖父は村々を公式訪問する際に私を連れて行ってくれました。そのとき訪れた村々の幾つかを今通り過ぎていました。遠くの方にダハロールの集会場が見えます。祖父はそこで,よく農民たちに話をしたものでした。

1950年代の後半と言えば,ほとんどの村人は,牛の糞を混ぜた泥で造った,一部屋だけの小屋に住んでいました。床も同じ材料でできていました。それは固くなった土の塊のようなものです。婦人たちは頭の上に大きなつぼを上手に載せて,村の井戸から水を運んでいたものです。タクシーの窓から見る限りでは,当時と余り変わっていないようです。

病院で

私たちが着いたときに,父は近くの病院に入院していました。父は私たちが来たことを知って喜びましたが,非常に衰弱していたため,話し合うことは事実上不可能でした。インドの病院は,米国の病院とかなり異なっており,食事の世話や看護は主に患者の家族が引き受けます。その後九日間,そのようにして父の世話ができたことは幸いでした。

午後になると,私は病院へ行き,父の傍らで夜を明かしました。父には静脈注射で栄養分が与えられていましたが,時にはスプーンで滋養物を食べさせることもありました。父が寝づらそうであれば,寝心地のよいように向きを変えてやりました。私は,父が力を回復して話し合いができるようになってほしいと思いましたが,結局一度も話し合うことはできませんでした。

父に付き添っている時間を用いて,私は聖書や「聖書理解の助け」と題する出版物を読みました。義理の妹はそれを見て好奇心を抱いたようでした。彼女は三年前に弟と結婚し,私たちの家族が住む大きな家に同居していました。彼女が父を深く愛するようになったことは感じ取れました。

父にどんな処置を施したらよいかはっきりせず,その上どんな手を打っても死は免れられそうもありませんでした。ある晩,義理の妹は病院で私と二人だけになったとき,「兄さんもみんなと同じように,動揺して,途方に暮れておられるの」と尋ねました。

私は最初,義妹が父の将来について話をしているのだと思ったので,「それほど動揺していないよ」と答えました。すると義妹はその理由を知りたがりました。そこで,創造者の目的を理解するのに役立つ聖書という本のお陰で動揺せずにすむのだと説明しました。彼女は,私が病院に置いて行った聖書を手に取って創世記の一部を読んだものの,その内容を理解できなかったと語りました。そして,「創造者とはだれのことですか」と尋ねました。

ヒンズー教では創造神や破壊神など数多くの神々の存在について教えられていることを,私たちはよく知っていました。それで私は聖書の詩篇 83篇18節(新)を開き,そこを義妹に読んでもらいました。彼女は上手な英語で次の言葉を読みました。「それにより人々が知るようになるためです。あなたが,その名をエホバという,ただあなたのみが,全地を治める至高者なることを」。

しかし,エホバという名前をこれまで見たことがなかったので,彼女はそれをどう発音したらよいか分かりませんでした。それでも,聖書の神に名前があることは分かったようです。そして,すべての物を創造した,エホバという名を持つ絶対者なる神が存在し,その方には始めも終わりもないという聖書の教えに感銘を受けていました。―啓示 4:11。詩 90:1,2。

家族の者たちは私がクリスチャンになったことをすでに知っていました。私は,エホバの証人の一人として自分が携わっている全時間の伝道活動について,家族に手紙を書いてありました。ですから,父の容態が非常に心配されていた間も,死や死後の命の見込みについて多くの論議が交わされました。

魂と神の愛

親族の者たちは,父と同様,魂は不滅である,つまり“内なる自己”,あるいは“真の自己”が死後も別の形で生き続けるというヒンズー教の教えを固守していました。しかし,義妹は女医で,ヒンズー教の見解を完全に受け入れているわけではなく,その点で他の人たちとは幾分異なっていました。ですから,彼女は聖書の述べる事柄をかなり受け入れやすい状態にありました。

聖書によると,人間の魂とはあなた,つまり人間としての存在全体であり,死後も生き続ける,目に見えない別個の魂など存在しないことを説明しました。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と聖書は述べています。聖書はまた,「死者は何事をも知らない」とも教えています。(エゼキエル 18:4,20; 伝道 9:5,口)彼女がこうした考えについて聞いたのは初めてのことでしたが,この考えが自分の見てきた事柄とよりよく合致するので,納得がいったようでした。

ある日のこと機会を捕らえて,やはり医師である義弟に次のことを尋ねてみました。「魂がより良い命へ転生するか,より劣った命へ転生するかを決めるのは何ですか」。私はさらに,「魂がより優れた命として存在するようになるか,あるいはより劣った命として存在するようになるかを決定する,外部からの力があるはずです」と指摘しました。

彼は,巨大な電子計算機を持っている方として神を見ることができると答え,こう説明しました。「神は人のカルマ,つまり業を記録にとどめておかれます。その人の良い業が悪い業よりも多ければ,その人は有利な状態の下に生まれ変わります。でも,悪い業が良い業よりも多ければ,不利な状態の下に生まれ変わるのです」。

ですから,この説明からも分かるとおり,人が一生の間に行なう事柄すべてが,有利な状態の下に生まれ変わるか,不利な状態の下に生まれ変わるかを決定することになるのです。私は,「では,父が有利な状態の下に生まれ変わるか,不利な状態の下に生まれ変わるか,どうしたら分かるのですか」と尋ねました。

義弟は,私たちは父の生涯全体を知っているわけではないので,私たちには分からないと答えました。そこで私は,聖書の教えに注意を向け,こう言いました。「エホバ神は,私たちの一生の歩みすべての跡をたどるような神ではありません。悪いことをしたとしても,悔い改めて,自らの行ないを改めるなら,私たちの過去の歩みは忘れ去られる,つまりゆるされるのです。そして,エホバ神にとって重要なのは,その時点からの私たちの行動なのです」。

聖書は,エホバがご自分の民を扱う仕方について次のように説明しています。「日の出が日没から遠く離れているのと同じく,彼はわたしたちの違犯をわたしたちから遠くに置かれた。父親が自分の子たちにあわれみを示すように,エホバもご自分を恐れる者たちにあわれみを示してくださった」。(詩 103:12,13,新)人類に対するこうした愛ある扱いは,神をそのような方として考えたことのなかった義弟にとって,とても魅力的であったようです。

義妹は特に聖書の教えに好奇心を抱き,地と人類に対する神の目的を知りたいようでした。それで私は,神のご意志を行なう人々から成る「新しい地」を設立するというエホバの約束を説明しました。(ペテロ第二 3:13)聖書はこう述べています。「温和な者たちは自ら地を所有し,平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだすであろう」― 詩 37:11,新。

その時,地上に住む人々の間に見られる事態は全く異なっていることを私は指摘し,啓示 21章3,4節を読んで聞かせました。「神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。義妹は,このような聖書の教えに驚き,本当に関心を抱くようになり,さらに学ぶ意欲を示しました。

習慣の変化

数日間実家に滞在すると,社会的な習慣の変化がありありと見られるようになりました。例えば義妹は,西欧の婦人と同じように他の人々に接しました。彼女は父や私に面と向かって話をしました。私は彼女の義兄に当たるわけですから,20年前であれば,私に向かって話す際にはきっと顔をそむけるか,自分の顔をサリーで隠していたことでしょう。また,私と二人だけで一つの部屋にいるようなこともなかったでしょう。

今では,独身の若い男女も互いに言葉を交わすようになったことは明らかです。というのは,彼らが自分で結婚の相手を選ぶことも珍しくはなくなったからです。事実,学生たちは男女一緒にピクニックに行くようになったことをも知りました。私の学生時代には,聞いたこともないような事柄です。一方,母や年長の婦人たちは,依然として昔の習慣を固守していました。

父の死

その間にも父の容態は悪化の一途をたどり,ついに自宅に戻って死を待つだけの状態になりました。3月7日,日曜日の早朝,死期が近づいているように見えました。家族の者たちが父の床の周りに集まって見守る中で,父は息を引き取りました。

義弟は聴診器を手渡すよう私に求め,それを父の胸に当てましたが,悲しそうな顔をして,シーツを父の顔にかぶせました。それは午前3時30分のことでした。父はわずか58歳で死去しました。母は,わっと泣き出し,その場にいた婦人たちもそれに倣いました。

そのあと行なわれた事柄には,宗教的な信念の根強い影響が著しく見られました。義妹は涙も乾かないうちに外へ出て行き,まだ新しい牛の糞を持って来ました。そしてその糞で床の上に長さ1.7㍍ほどの直線を引きました。それから,ガンジス川の水を幾らか床にふりかけ,そこに白いシーツを敷いて,父の遺体をその上に横たえました。

牛から取れるものは,その糞を含め,すべて聖なるものとされます。ガンジス川も,やはり神聖視されています。ですから,床のこの部分は,糞と水が施されて清められたものとみなされるのです。遺体の前では甘いかおりの香がたかれています。香は清い雰囲気をかもし出し,清い霊を近くに呼び集めると考えられています。

ほとんど間断を入れずに,義弟の先導でヒンズー教の祈りの詠唱が始まり,他の人々も自らの意志に基づいてそれに加わりました。「シュリ・ラマ・ジェイ・ラマ・ジェイ・ジェイ・ラマ」という句が,はっきりした節回しで,ひっきりなしに繰り返されました。ラマというのはヒンズー教の神の名で,この詠唱には,「ラマが勝利を得ますように」という意味があります。この詠唱は会葬者の気持ちを静め,神に注意を集中させるのに役立つとされています。少なくとも,泣き声の代わりにはなっているようです。

それが行なわれている間に,友人や親族に父の死を知らせるため,二人の使いが遣わされました。一人の友人が電話で訃報をみんなに知らせました。葬列は午前7時半,つまり父が亡くなってからわずか4時間後に行なわれることになりました。

遺体の処置

兄は,父の額にビャクダンの粉を混ぜた水をふりかけ,カンクーと呼ばれる粉末状の赤い物質を父の額に塗り,それからガンジス川の水を父の顔面にふりかけます。次に兄は,プルーディクチャーナと呼ばれる手順に従って,父の遺体の周りを五度まわります。そして最後に,父の耳元で三度,「ハリ・オホム・タツァト」と叫びます。ハリはヒンズー教の別の神の名であるので,この言葉は,「神をたたえよ」という意味になります。この句は,魂が肉体を離れて,神をたたえてゆかねばならないことを示唆しています。臨席していた他の人々も,この同じ手順に従ってゆきます。

それが済むと,私たち数人を残して,すべての人は部屋を出ます。遺体は裸にされてから洗われ,カンクーが全身に塗られます。こうした事が行なわれている間も,ある人々はサンスクリット語でマントラ(祈り)の言葉を唱えていました。私の生まれた地方の言葉であるグジャラート語でも,祈りがささげられました。それは,「主よ,この人の魂を取りたまえ。その魂が安らかに眠らんことを」というような意味の祈りです。それから,顔を除く全身が,白い布と幾らかの鮮やかな赤の絹地で覆われます。それが済むと,遺体は竹製の寝台の上に安置されます。

この寝台は部屋の中で,つまりその場で組み立てられました。それを専業としている二人の男の人が,半時間で仕上げてしまいました。この寝台は,長さ約3㍍の二本の竹ざおを,ロープでつながれた12本ほどの竹の横木でつないだものです。遺体は寝台の上に載せられ,一本のひもで寝台に縛り付けられます。それから,父の首の周りに沢山の花が飾られます。

葬列

私の兄弟二人,いとこ,そして私が,花で飾られた父の遺体を家の外へ運び出すと,婦人たちの間から大きな泣き声が上がりました。彼女たちが父の姿を見るのはこれが最後でした。婦人たちは葬列に加わらないからです。

家の外では,白や薄い色の服をまとい,首にタオルを巻いた人たちが待っていました。遺体が道沿いに運ばれて行くと,人々は整然と並んでそれに従いました。父は著名な実業家であったので,葬列には,医師,弁護士,技師,実業家,農夫,そして学者など,500人余りが加わっていたに違いありません。

45分ほどして,葬列はスマシャン(火葬場)の入口に着き,そこで止まります。父の遺体は,頭を前にしてここまで運ばれてきました。それは,父がこの世で行なって来た事柄すべてを回顧していることを示唆しています。スマシャンに入る段になると,今度は足を先頭にして運ばれます。それは,父が今やこれから起ころうとする事柄に目を向けねばならないことを示唆しています。

火葬

ここスマシャンには,実際の火葬が行なわれる縦3㍍,横2.4㍍ほどの場所があります。遺体がそこに運び込まれると,四人の男たちが火の準備を始めます。まず,乾燥させた牛の糞で,幅1.2㍍,長さ1.8㍍,高さ10㌢ほどの層を作ります。(牛の糞は,聖なるものとされているだけでなく,非常に燃えやすい物質です。)その上に,幾重にも薪をかさね,一番上に父の遺体が据えられます。

遺体から衣服や花がすべて取り去られ,牛乳から取った脂肪分の多い,バター状の抽出物,ギーが遺体に塗り込まれます。ギーは,聖なるものとされているだけでなく,非常に燃えやすい物質です。それから,薪が遺体の上や左右にも積まれ,最後に火が付けられます。

私たちが見守っていると,最初の一時間というものは,マントラがサンスクリット語で,絶え間なく唱えられました。マントラが終わるたびに,それを唱えていた人々は,「スワハー」という声を上げます。それには,「そうなりますように」という意味があります。また,「スワハー」が唱えられると,それに対する同意を示すため,弟が火の上にギーをさらに注ぎ,甘い香りのする,燃えやすい物質を兄が火の上にくべました。これらのマントラは,魂にとって有益であるとされています。例えば,マントラのうちの一つは次のようなものです。「決して死ぬことのないこの魂が,引き続き神に近付くための努力をしてゆきますように」。

遺体は二時間で燃え尽きてしまいました。灰の一部は土器のつぼに入れられて,後日,兄の手でガンジス川に沈められます。その後,参列者全員は,スマシャンにある施設で入浴します。

真の慰めと希望の基

スマシャンには,ヒンズー教の様々な教えを描写した像が数多くあります。例えば,「生命の輪」と名付けられたものは,特に私の注意を引きました。円形をした大きな記念碑には,七つの情景が彫られています。最初のものは子供の誕生を示しています。二番目は子供が学校に通っている様子。三番目は男女が結婚したところ。四番目は家庭生活の一場面。五番目は病気と老齢の図。六番目は人の死。そして七番目は人を火葬場に運んで行く場面です。

ヒンズー教では,この生命の輪を,正常な事柄,つまり物事のあるべき姿として描写しています。この循環に従えば,病気や死はいつまでもなくなりません。しかし,そのような教えは,嘆き悲しむ人たちに本当の慰めや希望を与えるものとなるでしょうか。

入浴を終えた私たちは家へ帰りました。その晩,皆が他の事柄に忙しく携わっているとき,義妹が独りでさめざめと泣いているのに気付きました。そこで私は,「どうしたのですか」と尋ねました。すると,父がいなくなると寂しくなるし,もうその寂しさが感じられる,というのです。

そこで私たちは,再びエホバ神について話し合い,私は,「エホバについてこれまでに学んだ事柄は,あなたを幸福にしましたか」と尋ねました。それに対して彼女は,「はい,もしこのすべてが実現するのなら,確かに喜ぶべき理由があります」と答えました。

その時まで,私たちは復活について話し合っていませんでした。そこで私はこう尋ねました。「あなたが知っていたときと同じ性格を持った父に,もう一度会えるとしたら,どんな気持ちがしますか。もう一度会いたいと思いますか」。もちろん,「はい」という答えが返ってきました。

そこで私は聖書を開き,使徒たちの活動 24章15節を読みました。そこにはこう書かれています。「わたしは神に対して希望を持っていますが,その希望はこれらの人たち自身もやはりいだいているものなのであり,義者と不義者との復活があるということです」。彼女は,初めて「復活」という言葉に出会ったようです。それは新しい概念だったのです。私は,復活は再生や輪廻と違い,死んで全く無意識になっていた者が実際に生き返ることであると説明しました。また,これまでに存在した人々の大半は,より良い状態がもたらされるときに,地上での命を再び受けることも話しました。

義妹はこの聖書の教えを理解することができました。聖書の教えを学ぶことに深い関心を抱いていたからです。そして彼女は,その教えをヒンズー教の輪廻の教えと比較することもできました。ヒンズー教の教えによれば,人はやはり地上で命を再び受けますが,異なった人格を持つ者としてその命を受けるのです。その魂がある人の子宮の中に入り,別の人物として再び生まれて来るとされているからです。その結果,父が再び生まれて来ても,義妹は父を見分けることができないのです。それで,復活に関する聖書の教えは彼女を引き付けました。彼女は父が死んで寂しく思っており,自分が知っていたときと同じ父に再会したいと切に願っていたからです。

さらに,輪廻の教えによれば,人はこの体制下で再び命を受けることになり,その状態の下では人は相変わらず病気になって死んでゆくということをも指摘しました。一方復活は,エホバ神が王国政府によってこの腐敗した体制を終わらせた後に行なわれます。(マタイ 6:9,10。ダニエル 2:44)その後,神の新しい事物の体制下で,啓示 21章3,4節に書かれていたような状態を享受できます。病気や嘆き,そして死さえも過去のものとなるのです。

援助が必要

話をしているうちに義妹の涙も乾き,ずっと気持ちも落ち着いてきたようでした。しかし,私は数日後出発することになっていました。それで彼女は,『だれが私を教えてくれるのか。どうしたら,聖書からこれらの事柄を学べるだろうか』ということを心配していました。

私は聖書と数々の聖書研究の手引きを義妹に贈りました。そして特に,「人生にはこれ以上のものがある!」と題する小冊子に彼女の注意を向け,それを用いて聖書を研究する方法を示しました。最近手紙をやり取りした中で,私たちはこの小冊子に基づいて,聖書的な問題について論じ合いました。

ジャムナガル市およびインドのその地方にはエホバの証人が一人もいません。しかし,この訪問を通して,特に若い人々が神のみ言葉の真理を探しており,必要とされる援助が与えられればそれに答え応じることが分かり,私はうれしく思いました。神のご意志であれば,活ける神エホバに関する真理を学ぶよう,その地方の人の幾人かを援助する器にやがてなることが私の願いです。その真理こそ,人をとこしえの命へ導くものなのです。(ヨハネ 17:3)― 寄稿。

[19ページの拡大文]

「私は,『では,父が有利な状態の下に生まれ変わるか,不利な状態の下に生まれ変わるか,どうしたら分かるのですか』と尋ねました」。

[21ページの拡大文]

「遺体は二時間で燃え尽きてしまいました」。

[23ページの拡大文]

「復活に関する聖書の教えは彼女を引き付けました」。

[17ページの写真]

私の妹と義理の妹

[20ページの写真]

「牛から取れるものは,その糞を含め,すべて聖なるものとされます」。

[22ページの写真]

「生命の輪」と名付けられた記念碑

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