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目ざめよ! 1977
目77 6/8 16–19ページ

人間の言語 ― 無類の賜物

象牙海岸の「目ざめよ!」通信員

「去る者は日々にうとし」という諺を翻訳機にかけたところ「見えない阿呆」という表現に翻訳されたという話があります。機械が壊れたのですか。そうではありません。それは罪のない間違いなのです。またそれは意志伝達の手段として知られている方法の中でも人間の言語を独特なものにしている多くの要素の一つ,すなわち人間の言語の複雑さを物語っています。

機械によれば「去る者」は,ある意味では見えないということであり,「うとし」は狂っていること,つまり阿呆の意味になるのです。とはいえ「去る者は日々にうとし」は「見えない阿呆」という意味ではありません。このたぐいの事が,翻訳機の発明者にとって頭痛の種となっています。

もちろん人間の言語が独特なのは複雑さのためばかりではありません。他にも多くの要素が関係しており,科学者の中には人間をホモサピエンス(知恵のある人)と呼ぶよりもホモエロクエンス(話す人)と呼ぶほうが適切であると唱える人さえいます。

しかし次のように反論する人がいるかもしれません。「動物の意志伝達の方法についての最近の研究が忘れられてはいないか。確かに人間は話をする。しかし動物も独自のやり方で話をする。いるかは口笛を吹き,蜜蜂はダンスをし,鳥には別個の地鳴きがあり,人間の言葉をまねする鳥さえある。また最近,“身ぶり”言葉を覚えたといわれる猿についてはどうか。彼らの意志伝達方法は人間のものと必ずしも同じではないが,その目的と結果は確かに同じではないか」。

そうであるとも言えるし,そうでないとも言えます。というのは動物も確かに意志の伝達をします。しかし原則としてその目的と結果は人間の場合と同じではありません。この疑問を解くために多くの研究が行なわれてきました。ギボン,がちょう,いるかなど,きわめて広い範囲にわたる生物の色々な呼び声が分類され,ある場合には一種の語いにまで細分されました。ギボンには明らかに9種類ぐらいの呼び声が認められ,いるかにはもっと多くが認められます。いるかは生息する地域によって“方言”まであるようです。

しかし人間の言語と動物のそれを比べるならば,人間の言語のほうが測り知れないほど,いっそう複雑であるという明白な事実を別にしても,幾つかの点で大きな相違があります。一つの相違点は意志伝達の意図です。

意志伝達の意図

それぞれ独自の呼び声を使う際に動物や鳥は,人間のように互いに意志を伝えるという目的を意識しているのでしょうか。それとも鳴き声はその時々の事態に対する本能的な反応に過ぎないのですか。動物生態学の世界的な権威コナード・Z・ロレンツによれば,意志の伝達を意図しているように見える事がよくあるとしても,動物はそのような事を意図していません。

例えば,こくまるがらすが餌をついばんでいる最中に驚かされると,「キア,キア」という警戒の鳴き声をあげて空中に舞い上がり,それを聞いた仲間のこくまるがらすも自動的に空に舞い上がります。警戒の鳴き声と他の鳥の反応が完全に一致していることから,鳥たちは話をし,鳥には言葉があってそれを理解しているような印象を与えます。しかしそうではないのです。「ソロモン王の指環」という本の中でロレンツは次のように説明しています。

「動物は鳴き声や動作によって情緒を表現するが,それによって種族の他の成員に影響を及ぼす意識的な意図は全くない。これは単独に飼育され,隔離されているがちょうや,こくまるがらすでも,類似の気分に襲われるとすぐにこれらの合図をするという事実によって証明される」― 77ページ。

人間が自分の習得した,音声による合図をする時,聞き手に何事かを伝えることを意図しています。(もちろん,ふろにつかりながら歌っている場合は別ですが。)そしてだれも聴いている人のないことに気づくならば合図をするのをやめるでしょう。しかしこくまるがらすは仲間の鳥が聞いているかどうかにはとんじゃくしません。それは人が疲れた時にあくびをするのと同様に本能的な反射作用として声を出しているに過ぎないのです。これは人間の言語との別の相違点を明らかにします。

合図の移動性

動物の合図の大部分は言語学者の言う「移動性」つまり合図をすることを必要にした事態と切り離せるという性質を備えていません。例えば,ギボンは実際に危険が存在する時にのみ,危険の合図をします。

一般に動物はその出す声を聞いて,その声を別のものに修正する試みをしません。この意味においても動物のする合図は固定されています。ある種類の鳥が生来の“語い”ではない鳴き声をまねするのは事実です。そのような鳥は他の鳥の声を習い覚え,あるいは「プリティー・ポーリー」としゃべるおうむのように人間の言葉をまねることができます。

しかしロレンツの主張によれば,鳥が,しゃべることを覚えた言葉のたとえひとつでも一定の行動と結びつけるようなことはまれで,それを実用的な目的と結びつけることは決してありません。ガイエルという名の,年とったはいいろおうむは(人が立ち上がって帰ろうとすると,太くて低い優しい声で,きまって「さようなら」と言うことを含め),かなり多くの“人間の”言葉を言えましたが,空腹の時に「食べもの」,のどのかわいた時に「飲みもの」と言うことは決して覚えませんでした。

このように「移動性」を欠くことは,蜜蜂のダンスの場合にいっそう明らかに認められます。これは手旗信号に似た一種の身振り言語であって,人間はこれを使って蜜蜂と通信することにさえ成功しています。斥候蜂はダンスのスピードによって,(つまりどれだけの努力が必要かを示すことによって)花までの距離を教え,太陽に対してダンスの進む方角によって花のありかを教えます。

しかし伝えることができるのはこれだけです。それぞれの合図は“意味”が固定しており,これを分離して他のこと,「そちらの天気はどうだい?」とか「近頃,きれいな花を見たかい?」といったおしゃべりにそれを転用することができません。ここに人間の言語とのもうひとつの相違点が出てきます。

言語の構造

動物の使う合図の方法の大きな欠点は創造の余地が無いことです。人間は聞いたことのない,あるいは使われたことのないような文でも作り出し,また理解できます。それは人間の言語の構造に由来するのです。

言語はいわゆる二重構造になっています。つまり人間の話す言葉は二つの小さな単位すなわちまず,意味の単位である単語と,次に音素と呼ばれる音声の単位に細分できます。音素を使うことにより,元の単語と全く関係のない他の単語を組立てることができます。

例えば,動物の合図にmeat(肉)を求める合図があるとしましょう。さてこの合図はそれが何であれ,肉を意味するのであって他の何物をも意味しません。しかし英語のmeatが使われるのは動物の肉を意味する時だけではありません。それは三つの明確な音声の単位すなわちm,e,tの音素に分割できます。これら三つの音素を使ってあらゆる種類の他の単語eat(食べる),tea(茶),meaty(肉の多い)のほかteem(満ちる),me(わたしを)などを作ることができます。

それで50万を超える英語の単語は50に満たない音素の組合せからできており,新しい言葉も常に造られています。一方,単語の組合せからは無数の文を作ることが可能です。これは言語構造の別の面すなわち文法という概念にわたしたちを導きます。

文法もある意味で言語の構成つまり個々の単語間の関係がからみ合った組織およびこれらの関係を支配する法則のことです。この法則を知ること,あるいは勘でそれが分かることによって,これらの様々な組合せを作り,意味の通った文を作ることができるのです。しかも以前に聞いたことのある文とは違うものを作ることも可能です。その複雑さを考えてごらんなさい。

例えば,どんなに簡単な文でも少なくともひとつの主語-述語の関係から成り立っています。子供の読物からとった,「この子豚は市場に行きました」という文において,主語すなわち話の主題は「この子豚」であり,子豚について述べられている事柄すなわち「市場に行きました」が述部です。動物の合図はこのような方法で思考を結びつけるものではありません。

動物とは対照的に,人間はこれら語群の文法上の関係すべてを理解できるだけでなく,それを変えることによって別の見方を表現できます。例えば,子豚が市場に行ったというふうに肯定もできますが,いわゆる否定への「変換」を行なうだけで,「この子豚は市場へ行きませんでした」というふうに否定することもできます。これを過去から現在に変えることもできます。「この子豚は市場に行くところです」。あるいは,「この子豚は市場へ行きましたか」というふうに質問にすることもできます。このようにひとつの簡単な文章が非常に多くの他の文の基になっているので,人は他のすべての文を別個に学ぶ必要がありません。しかしこのような変換をするには,客観性という別の能力が必要です。

客観性

日常生活に必要なこの変換をするには,各要素を自分だけに関係させるのではなくて,伝えようとするメッセージから,いわば離れていることができなければなりません。これは「客観性」と呼ばれるものです。例えば,「わたしは青い箱を赤い箱の上に置いた」と言えるだけでなくて,客観的な伝達者は,「青い箱が赤い箱の上にある」と言えるわけです。

それで脳に異常をきたした人の場合,客観的に変換する能力の失われることがよくあります。例えば,このことのために,精神分裂症患者の中には否定の変換の難しい人がいます。「彼はりんごを食べるでしょう」という文を与え,~しないという語を使って否定にするよう求めると,「彼はりんごを食べないでしょう」と言わずに「彼はなし」あるいはみかん,その他の果物「を食べるでしょう」という答えがよく返ってきます。

あるチンパンジーは,人間がチンパンジーのために作った(話し言葉ではなく)簡単な合図の仕方を使うように何百時間も訓練された末にそれを覚えましたが,それでもこのような客観的な変換をする能力は非常に限られていました。彼らは客観的に物を見る能力の点で二歳ぐらいの幼児の域を出ません。しかしその年齢の幼児の持つわずかな能力が,特別な訓練などを全く必要とせずに発達することを考えてごらんなさい。しかもわずか数年のうちに複雑な言語を次第にあやつるようになる幼児の能力は,チンパンジーをはるかうしろに引き離してしまいます。

言語の源

著名な言語学者ノーム・チョムスキーは,この特異な言語能力が,ある程度まで先天的つまり生まれつき「備わった」ものに違いないという説を述べています。そうでなければ,まだ成長しきっていない子供に見られる複雑な言語能力の急速な発達をどのように説明できるだろうかと,彼は問いかけています。外国語の習得を試みるならば,おとなは子供がいかに大きな事を成し遂げているかを認識できます。

大英百科事典に次のように出ています。

「ゆえに,正常な人間はだれでも,言語の習得,言語の使用,文法的な構成という先天的な能力を持って生まれてくる。……人間の子供は聞くという経験から得た材料をもとに新しい,そして文法的に正しい文を作ることがすぐにできるようになる。人間社会のおうむとは異なって子供は言葉をそのまま口まねすることだけに限られてはいない」― 1976年版マイクロペディア,第10巻650ページ。

動物はこの“備えつけの”言語習得感覚を持っていません。近頃,評判の高度に訓練されたチンパンジーでさえ,人間の考えた簡単な合図の仕方を使うだけであって,彼ら自身の自然の意志伝達方法は通例,主として単独の呼び声と身振りであって反射的な合図に過ぎません。進化論者によって「動物の世界で遺伝的に最も人間に近い」とされるこのような霊長類でさえ,実際には「[音声の]言語の習得に対してはきわめて抵抗の大きいことが証明された」のです。―同書649ページ。

音声による人間の言語が動物の世界に起源を有するのでなければ,どのようにそれは始まったのですか。それは進化の過程にある原始的な人間が仲間との意志の伝達を図るために用いた,ぶうぶういう声や,うなり声,ぜいぜいさせて言う声からですか。「そうとすれば,文明の程度が低く,原始的な未開民族の間にこのような言語が使われているはずである」と,言語学のマリオ・ペイ,コロンビア大学教授は述べています。しかし「全くそうではない。事実はむしろその反対である。原始的な部族の言語は概して構造が複雑であり,一方,文明の程度がもっと高い部族の言語は,その歴史をさかのぼるほど複雑になり,込み入ったものになるように思われる」―「人間の音声」,21ページ。

言語は時間的にさかのぼるほど,もっと複雑? これは確かに進化を思わせるものではありません。この点は公正な言語学者によっても認められています。例えば,ジョン・ライオンズは,「言語学における新しい視野」という本の中にJ・C・マーシャルの論文「人間と動物における意志伝達の生態学」を紹介するにあたって次のように述べています。

「マーシャルは入手し得る証拠を要約し,次のように結論している。すなわち進化論的な仮説は,言語に関しては最近の研究によって確証されるどころか,経験的[観察に基づく]基礎を欠いている」― 1970年,229ページ。

事実ライオンズは次のように続けています。「言語は動物の意志伝達の形態として知られているあらゆるものと全く異なっている。また『知識の莫大な集積にもかかわらず,学者はいまだに言語の生物学上の理論を提出できないでいる』(241ページ)」。同様にペイ教授も次の事を述べています。「哲学者は別として言語学者が言語の起源に関する題目を放棄し,パリの言語学協会がこの問題を論文にとり上げるのを禁ずるまでになったのも不思議ではない」―「人間の音声」,22ページ。

言語の起源の問題に言語学者がこれほど触れたくないのはなぜですか。それはすべての確実な証拠が彼らの行きたくない方向 ― 進化論から遠ざかる方向を指し示しているからではありませんか。それでペイはこう述べています,「問題のこの部分は解くことができないようだ。……もし[言語が]“自然”に発生したものであるならば,我々の言う“自然”とは何か。全くの偶然? 理知のある宇宙の主権者?」―同書。

この問題に対するあなたの答えは進化論的な偏見によって足かせをかけられていますか。それとも言語をそのあるがままのもの ― エホバという唯一の名を持たれる宇宙主権者からのすばらしい,無類の賜物として受け入れますか。

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