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  • イタリアで高まる聖書への関心
  • 目ざめよ! 1979
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目ざめよ! 1979
目79 9/8 8–11ページ

イタリアで高まる聖書への関心

イタリアの誠実な人々の多くは,生活上の諸問題に対する解決策を求めて神のみ言葉を調べています。そうした人々は,その解決策を見いだして喜び,神のしもべになり,またそのメシア王国の宣明者になっています。幾つかの典型的な,実際の経験談は,神についてもっと知ろうとするそうした人々の強い願いやそのためにそれらの人々の克服してきた障害を明らかにしています。

名目上はクリスチャンであっても,多くの人にとって,聖書を見たり読んだりするのは初めて,という場合は珍しくありません。一人の誠実な人の場合がそうでした。その人はこう語っています。

「私はカトリック教徒でしたが,余り勤勉に教会へ通っていたほうではありませんでした。しかし,教会へ行くときは,ある種の確信と真剣さをもって行きました。それでもむなしい気持ちが心の中にますます広まってゆき,神の崇拝者としてもっとふさわしい者になりたいと心から願うようになりました。私は聖書の知識がありませんでしたので,聖書を読んでみようかと考えるようになりました。兄はカトリックの司祭でしたので,聖書を一冊求めてほしいと頼みました。兄は私に一冊プレゼントしてくれ,『読んでみたまえ,それから話し合おう』と言いました。読み始めると,間もなく,聖書の教えとカトリック教会の教えのきわだった相違に気づくようになりました。そのころ,一人の友人が,トリノで出会ったエホバの証人について話しました。そこで私は彼らを尋ね当て,聖書研究をしてもらうよう取り決めました。兄は私を思いとどまらせようとあらゆることを行ない,一時はそれに成功しましたが,やがて私は研究を再開し,進歩して,1974年にバプテスマを受けました。今では生きることに喜びがあり,神のみ言葉に対して無知であったときのむなしい気持ちはありません」。

神のお名前に関する知識は啓発を与える

「良いたより」の一つの特徴は,エホバという神のお名前を知らせることにあります。南イタリア出身の一人の人は,この知識が自分に及ぼした影響について,次のように語っています。

「私が初めてエホバの証人と接触したのはずい分昔のことです。当時,私は熱心なカトリック教徒で,日曜日のミサを欠かすことなどとても考えられない罪に思えました。ですから,私はエホバの証人が戸口へやって来ても,耳を貸そうとしませんでした。しかし,最後に私は聖書の話し合いに応じました。私が最初に学んだ事柄の一つは,私たちの神のお名前 ― エホバ ― でした。私が最も感銘を受けたのは,聖書がこの神のお名前を挙げている回数と,イエスご自身が(弟子たちにお与えになった模範的な祈りの中で)このお名前を神聖なものとすることを重要視しておられる点です。やがて私は,自分の信じてきた教えの多くが非聖書的で,人間の造り出した伝統にすぎないことを理解するようになりました。そこで,私は自分の生活に必要な調整を加えました。カトリック教会を脱退し,教区の様々なスポーツ・クラブをやめ,さらに他の面で生活を改めました。後日,私と妻は,エホバとそのみ子イエス・キリストのしもべとして水のバプテスマを受けました」。

命に関する聖書の音信は多くの人を引き付ける

聖書の中に述べられている永遠の命に対する願望は,多くの人々にとって神のみ言葉の真理を調べる動機付けとなっています。トスカナから一人の人は次のような経験を寄せています。

「私の生活は,大抵のカトリック教徒の生活と同じようなものでした。神の存在を信じ,カトリック教会の伝統的な教えに従っていました。ある日,二人のエホバの証人が戸口にやって来ましたが,私はそのとき尋ねられた質問の一つに特に感銘を受けました。それは,『お子さんたちが結婚し,孫やひ孫が成長するのを見たいと思われますか』という質問でした。私が13人の子供の父親であることをお考えになれば,私がこのことに関心を示した理由がお分かりいただけるでしょう。その上,この地方の墓地の管理人だった私は,人生の大半を死者に囲まれて過ごしていました。ですから,自分には宗教があったものの,聖書の中で言われているとこしえの命は不可能なことのように思えました。私はすぐ,その場で聖書研究に応じました。間もなく家族の者たちが反対するようになりました。地元の司祭も問題を引き起こす面で加担しました。また,失業させるという脅しなど他の難問題もありました。しかし,私は途中であきらめませんでした。そして,それは良い結果をもたらしました。妻も今では『良いたより』に関心を抱くようになり,家族は堅く結ばれています。子供たちは自分たちの信仰を築き上げるために定期的な家族の聖書研究に参加しています。私は,心の平安,神との正しい関係,そして将来に対する確かな希望を見いだすよう助けてくださったことを,エホバに感謝しています」。

老齢の人々も神に仕えることを願っている

イタリアでエホバの証人の宣明する「良いたより」は,「老齢の人々」をも含むあらゆる年齢層の人々を引き付けています。お年寄りは,当然のことながら,命について真剣に考え,将来に対する希望を求めています。60歳になる一婦人は,自分の経験を次のように語っています。

「10歳のときから,ということは50年間にわたって,私はミサに出席し,毎朝聖体拝領にあずかっていました。やはり敬虔なカトリック信者だった長女が,エホバの証人と話をしました。そのとき問題が持ち上がったので,資格のある司祭に会って,ある教理上の問題点をはっきりさせねばならないと感じました。私たちの相談に応じた神学者が,リンボも煉獄も存在しないとはっきり述べたとき,腰を抜かさんばかりに驚きました。自分の信じていた事柄すべてが,自分の周りで崩れ去っていくかに思えました。自分が一生の間行なってきた事柄,例えば,死者のために唱えた祈りやミサなどは,すべてむだだったのかもしれないことに気付いたのです。私たちはさらに話し合いを続け,三位一体の説明を求めました。娘はこう尋ねました。『もしイエス・キリストが神だったなら,イエスが神自身であることを知りながら,なぜサタンはイエスを誘惑しようとしたのですか。サタンはそれがむだであることに気付かなかったのかしら』。司祭の答えはとても受け入れ難いものでした。こう言ったのです。『サタンはイエスが神であったことを知らなかったのです』。それ以来,私たちは,聖書だけを基にして,エホバの証人と話し合うことにしました。やがて私は家族の他の者六人と共に真理を受け入れ,今ではエホバ神の,バプテスマを受けた真の崇拝者になっており,み言葉の真理に従ってエホバ神にお仕えすることを喜んでいます」。

自分の宗教を変えるのはふさわしいことか

宗教界に入るという所まで行った人が,自分の宗教を変えて,神の是認を受けることができますか。カトリックの元修道士は,自分の経験を次のように語っています。

「私の35回目の誕生日は,自分にとって大変記念すべき日になりました。それは,長年の間生活してきた修道院を離れることに決めた日と時を同じくしていたからです。どうしてそんな決定をしたと思われますか。それは自分の経験した幻滅の結果です。その環境にただよう冷たい雰囲気,修道院長に話しかける際の格式張った言葉遣い,黙想と告解のための定期的な隔離,禁欲のため,長期間にわたって続けられる清貧と服従の誓い ― このすべては,その生活を非常に不幸なものにしました。不満の別の理由は,聖書が神のみ言葉であると自分で確信していながら,それを理解できないことでした。私は修道院長等に質問をしましたが,『そうした事柄を理解することはできません』というのがいつもの答えでした。長年の修道士生活の後,私はついに修道院を離れる決意を固めました。大修道院長は,私の誓いからの特別免除を渡し,怒りを満面に浮かべ,『さあ,地獄行きのパスポートだ』と言いました。

「その後,私は市内に職を見付け,個人の家の一部屋を借りました。ある晩,夜遅く帰宅し,通りがけに家主の奥さんにおやすみのあいさつを言おうとしたところ,二人の男性の話を聞いて行かないかと奥さんから声を掛けられました。見ると,その人たちは聖書を研究していたのです。私は『なんてことだろう,プロテスタントの家で間借りをするなんて』と早合点してしまいました。ともあれ,私はその招きに応じました。そしてその後,自分の部屋での聖書研究に応じました。私は自分の宗教を再吟味するようになりましたが,それは自分のすでに知っていた事柄を確認するにすぎませんでした。その上,カトリック教会は空しくて冷たいと感じていました。それから私は,エホバの証人の王国会館で行なわれている集会に出席しました。何という相違でしょう! みんながだれかれなく話し掛け,互いに相手をよく知っていました。そして,有益な教訓が与えられていたのです。ほどなくして,初めてのことでしたが,日曜日のミサに欠席するだけの勇気を得ました。後にエホバの証人の地域大会に出席し,他の会衆にも同じ信仰と霊があるかどうか注意深く見て回りました。しかし,出席しているすべての人の間に,同一の霊,信仰,そして兄弟愛があるのを見て,得心させられました。ついに私は,修道院を出てから丁度一年目に,バプテスマを受けました」。

使徒パウロの書いているとおりです。「神のことばは生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣より鋭く,魂と霊,また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるのです」。(ヘブライ 4:12)それは生活を変革させる力となります。その真理は思いと心を啓発し,人生に目的を,そして将来に希望を与えます。聖書を誠実に研究する人々は,同胞に対する愛をはぐくむようになります。神を誠実に求める人々を最初に引き付けるのは,大抵の場合,この愛です。イエスはそうなることを指摘して,次のように言われました。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:35。

このように,イタリアの多くの人々はエホバの証人の宣明する「良いたより」を心から喜んで受け入れています。現在,ローマにある42のエホバの証人の会衆は,イタリア全土にある1,200の他の会衆共々,繁栄し,増加しつつあります。最近,ローマとミラノで行なわれたエホバの証人の大会には,11万1,000人余りが出席しました。そして,2,288人がバプテスマを受け,ここイタリアで,神を恐れるさらに多くの人々に「良いたより」を広める業に加わったのです。

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