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目ざめよ! 1980
目80 12/22 16–21ページ

私たちはボクシングのリング上で名声を追い求めていた

それは1966年1月21日のことでした。リング上の自分のコーナーにある丸いすに腰を降ろした私は,とうとう名声と富を手に入れる門口までやって来た,と感じていました。この試合に勝ちさえすれば,フランシスコ・サンホセはスペイン・ボクシング界のヘビー級チャンピオンになるのです。次の目標はヨーロッパ選手権です。

ゴングの音でそうした考えは吹き飛ばされ,第1ラウンドが始まりました。対戦相手マリアノ・エチェバリアも当然同じ野心を抱いており,激しい闘いになりました。双方とも一歩も後へひかず,容赦ない闘いが12ラウンド続きました。その日,私は判定で勝ち,スペインのヘビー級チャンピオンになりました。

少年時代,私はスペイン北西部のサモラ県トロ町の郷里で,街の暴れん坊として鳴らしていました。カトリックの大学で教育を受けましたが,学校教育は私を変えませんでした。学校を出ると,非行と不道徳の生活へと入ってゆきました。

やがて,土地の少女と恋に陥りましたが,生き方を変えない限りお断り,と言われました。そこで幾らかましな生き方をするようになりましたが,けんかの虫はどうしても収まりませんでした。けんかをする合法的で,“崇高な”唯一の方法はボクサーになることだったので,ボクシングを始めました。1963年には,スペインの代表として,イタリアのナポリで開かれた地中海沿岸競技大会に出場し,銅メダルを獲得しました。しかし,翌年開かれる東京オリンピックの代表になろうとする代わりに,プロに転向することにしました。同じ危険を冒すのなら,報酬をもらってもよいではないか,と考えたのです。

しかし,その結果どんな道をたどったでしょうか。私がスペインのヘビー級の王座を獲得してから6か月後に,6ラウンドでライバルのエチェバリアに敗れたのです。もはやチャンピオンではなくなりました。その後の4年間の戦績は,23戦11勝9敗3引き分けでした。徐々に,自分が興業主やマネージャーに操られ,他の者の出世を速めるのに利用されていることに気づくようになりました。1969年には,一人のスポーツ記者に記事の中で,「なだめの犠牲」とこき下ろされるまでになりました。私はお金が必要だったので,スペイン語でトンゴと呼ばれる八百長試合に2度ほど協力しました。1967年に同様の取引きに協力しなかったところ,私が必ず負けるようレフリーが取り計らいました。遅ればせながら,多くの場合にチャンピオンはリングの中ではなく,興業主の事務所で決められることが分かりました。

ボクシングを始めて間もないころ,ボクシングで腕試しをしてみるよう弟のカルロスを説き伏せました。次に挙げるのはその弟の経験です。

フランシスコがアマのボクサーとして成功を収めていた頃,私はクロスカントリーの試合で勝利を収めていました。しかし,私にはフランシスコにあこがれ,その模範に倣う傾向がありました。

1963年のある日,フランシスコは家に帰って来て,私の最初の試合を取り決めたと皆に告げました。バリャドリド地区ボクシング連盟の承認の下で,私はサンチェスという名のボクサーと,地元の町で対戦することになっていました。不安はありましたが,町の人々を失望させるわけにはゆきません。その結果,私が第2ラウンドでノック・アウト勝ちしました。観客は熱狂して,私を肩にかついで町中を練り歩きました。私は勝利に酔いしれました。この最初の勝利で味をしめ,ボクシングの“虫”に取りつかれ,やはりリングでの名声と富を夢見るようになりました。

私は正規のトレーニングを受け,試合をするためにマドリードへ引っ越しました。1965年とその翌年には,自分の属する階級で,スペインのアマチュア・チャンピオンになりました。スペインのナショナルチームに選ばれてフランスとの対抗試合に出場し,地域対抗ではドイツやポルトガルのチームとも対戦しました。アマチュア時代のこうした試合すべては,プロへの道の踏み石でした。

そしてとうとう,待ちに待った日,1966年11月23日がやって来ました。プロとしての第一戦がマドリードで行なわれ,ベン・バチールと対戦しました。結果は私のKO勝ちでした。幾年も後に,その時とは全く異なった状況の下でベンと再会しようとは当時思ってもみませんでした。その後,国際的な対戦相手がKOまたは判定で,私のパンチの前に次々に倒れました。しかし,歴戦のナイジェリア人ボクサー,バーナード・ダウドゥーを相手に戦った,1969年12月30日のバルセロナにおける試合は最も強烈な衝撃を残しました。

私はリングの外ではおとなしくて無口な男ですが,いったん試合が始まると,残忍なパンチング・マシンにひょう変し,相手をマットに沈めることしか頭になくなります。アマチュア時代のトレーナーの言葉を今でも覚えています。「リングの中に入ったら,何としても相手を片付けなければいけないことを忘れるなよ。心の中に憎しみを燃え立たせて,相手を粉砕するんだ。対戦相手は敵なんだ。情け容赦は全く無用だ」。

試合は進行していきましたが,私のブローは空を打ち,観客はしびれを切らしていました。血を見たかったのです。その試合は8ラウンドの試合で,残りは1ラウンドしかありませんでした。私は自分のコーナーで,「このラウンドでやつをかたづけるんだ。さもないと負けちまうぞ」と早口でまくしたてるセコンドのアドバイスに耳を傾けていました。その言葉に血が沸き,ゴングの音とともに怒りと憎しみに満ちて飛び出しました。そのラウンドの半ばに,思いがけなく左フックが相手のあごに決まり,続いて右を肝臓の辺りに決めました。ロープに崩れ落ちた相手に,もう一撃浴びせたところ,ダウンしカウントがとられました。

簡単な勝利の儀式を終え,私はすぐにリングを離れ,服を着替えて,ビルバオへ戻る列車に乗りました。列車を降りると,妻と妹が出迎えに来ていましたが,二人とも緊張した面持ちでした。どうしたのでしょう。二人は,ダウドゥーが脳出血で死亡したというニュースを明かしました。

そのニュースを聞いた時の私の反応を描写するのは容易なことではありません。私は長時間,激しく泣きました。自分のパンチが他の人に死を臨ませたなどとは信じられない気持ちでした。

しかし,人間の本性とは実に不思議なものです。理屈をつけて正当化するのは本当に簡単なことです。ほどなくして,ボクシングを続けることを正当化する言い訳を考え出していました。私の栄達に関心を持つ人々はこう言ってくれました。「あれは事故だったんだ。ボクシングはスポーツだよ。お前のせいじゃない。原因はその前の試合にあるのかもしれない」。「今こそお前の勝ち得た名声で金をもうけるチャンスじゃないか」。しかし心の奥底では,そのいずれも私の意にかなうものではありませんでした。ボクシングが彼を殺したのは分かっていましたが,私がとどめの一撃を加える刑執行人になったのです。

3か月後,私はマドリードでリングに戻っていました。あの悲劇的な経験の後私が自分の職業をどう思っているかテレビ局が知ろうとしたので,ボクシングを続ける決意だ,と答えました。

次々に勝利を収めた結果,1970年12月25日に,大きな機会が訪れました。それはスペインのヘビーウェルター級の王座をかけた試合でした。場所はビズカヤ県ビルバオ市で,対戦相手は歴戦のボクサー,ホセ・マリア・マドラーゾでした。しかし,私の方が若く,力もあり,第6ラウンドに2度ホセをマットに沈めました。ホセが強打をかなり浴びていたため,レフリーはとうとう試合を中断し,私のTKO勝ちとしました。兄が4年前に成し遂げたことを,ついにやりおおせたのです。私はスペインのチャンピオンになりました。

しかし私がこの目標を達成する1年以上前に,兄のフランシスコはボクシング界から引退していました。なぜでしょうか。それについては兄に話してもらうことにしましょう。

自分はカトリック教徒というよりも無神論者であると考えていましたが,エホバの証人がやって来た時,この人たちはどんなことを信じているのだろうかという好奇心に駆られました。エホバの証人の勇気には頭が下がりましたし,彼らはどこから見ても誠実でした。その教えすべてを信じたのではありませんが,聖書について知り,聖書を理解することには関心がありました。毎週エホバの証人の助けを得て,「とこしえの命に導く真理」という教科書を使って聖書を研究しました。エホバの証人は,ボクシングには全く触れませんでした。しかし,「真の宗教をどのように見分けるか」という14章を学び,クリスチャンを見分ける際立った特質は愛であることを悟りました。また,「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」というイエスの言葉を学びました。(ヨハネ 13:35)その本はさらに,「それは人の日常生活のあらゆる面を強く支配するほどの愛でなければなりません」と説明していました。私の場合,それにはボクシングも含まれます。

特別の試合が近づいていました。弟のカルロスと私が同じ日の試合に出ることになっていたのです。私たちはプロの世界でサンホセ一世およびサンホセ二世で通っていました。私は自分の立場を深く考え,祈りのうちに神に導きを求めました。ボクシングを続けるべきでしょうか。ボクシングを続けながら,クリスチャンと称えることができますか。多くの時間をかけて自己分析をした後,1969年10月17日に,ビルバオ・ブル・リングでの試合を最後の試合とすることに決めました。

宗教上の良心のゆえに引退することを記者たちに発表すると,それは正に爆弾発言となりました。4か月間の聖書研究で私がそのように変わるとは,カルロスには信じられないようでした。ボクシング界の“友人たち”は決定を翻させようとして,大きな賞金の懸ったヨーロッパ選手権に挑戦する機会を提供しました。お金は必要でしたが,自分の決定を変えることはありませんでした。

私は家族を連れて郷里の町トロに引っ込み,それ以来,別の種類の戦い,クリスチャンの競走に参加しています。聖書の真理によって私の性格は変わりました。そのことを示すために一つの例をお話ししましょう。少し前のことですが,聖書について話し合うために戸別訪問をしていると,がっちりとした男が,階段から突き落としてやると言って私を脅しました。昔なら,それがきっかけとなって,アッパーカットをあごへ2発ほどお見舞いしてダウンさせるところです。その代わりに,十分に話し合って機嫌をよくさせ,平和裏に話し合いを終えました。―テモテ第二 2:24-26。

人格を変え,腕力で片を付ける代わりに,理性の力に訴えるようになるのは容易なことではありません。しかし,家族と共に過ごし,土地を耕し,動物の世話をし,ささやかながらも神に仕えることから深い満足を得ているのは確かです。こうした生活はボクシング場のまばゆいばかりの光や血にうえた気まぐれな観客とは実に対照的です。―ローマ 12:1,2。コロサイ 3:10,12。

カルロスはリングを捨てるという私の決定に当惑しましたが,プロの道を歩み続けました。その後どうなったかは,カルロスに話させましょう。

フランシスコが引退してから1年ほどして,私の家の戸口をたたく音がしました。それは兄の所を訪れたエホバの証人でした。その人を招じ入れて少し話し合った後,聖書研究を勧められました。「知識を取り入れても損をするわけではない」というのが私の考えでしたし,いずれにしても,何が兄にあれほど大きな影響を与えたのかを知りたいと思いました。そこで研究をすることにはしましたが,自分は宗教のためにボクシングをやめたりはしないことをはっきりさせておきました。

最初にひどく驚いたのは,聖書の出エジプト記の十戒を調べた時のことだったと思います。十戒なら学校時代から空で言えると思っていましたが,聖書のその十戒は教会の十戒とは異なっていました。例えば,崇拝に偶像の使用を禁じる第2番目の戒めを聞いたことは一度もありませんでした。教会版では10番目の戒めを二つの戒めに分け,その脱落を覆い隠していました。この欺きは私の目を開くものでした。―出エジプト 20:4-6。

ほんの数回聖書研究をしただけで,自分の良心との本格的な闘いが始まりました。家内がクリスチャンの真理を受け入れつつあり,もしも聖書の研究を続ければボクシングができなくなることは目に見えていました。そこで,ある週には研究を休み,他の週にはエホバの証人が来ることを忘れてくれればとひたすら願っていました。それでも聖書は私の考えに影響を及ぼしてゆきました。1971年10月10日に,サラマンカのアンヘル・グイナルドと対戦し,ヘビーウェルター級の王座を防衛した時,それを実感しました。

私がリングに足を踏み入れると,観客は,「ぶちかませ,サンホセ! 早く片付けてしまえ!」とか,「左のパンチでぶっ飛ばせ」というような言葉を叫びたてました。対戦相手は向かいのコーナーで王座を奪い取るこの機会を待ち構えていました。一方,私は良心の痛みを感じていました。ヨハネ第一 4章20節にある,「自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできない(の)です」という聖書の言葉が頭をよぎりました。そのほかにも私の行動を非とする聖句が次々と思い起こされ,私の頭を一杯にしてしまいました。その一方で,私は自分が今からする事を正当化しようとしていました。

ゴングが鳴り,対戦相手と向かい合っていました。試合中も良心が痛み,平安を得られませんでした。そして,「ここで何をしているんだ。神よ,私をお許しください!」と,言っていました。

すべては果てしなく続くように思えました。しかし私には,チャンピオンのままで引退したいという強い願いがありました。個人のプライドが関係していました。ボクシングを捨てたのは神への愛のためであり,タイトルを失ったからではない,ということを知ってもらいたかったのです。

ようやく試合は終わりましたが,いつものKOパンチは出ませんでした。勝ったのでしょうか,負けたのでしょうか。やきもきしながら判定を待ちました。レフリーが判定を発表しました……引き分けです。私はまだチャンピオンだったのです。

今や私はヨーロッパ選手権の挑戦者として公に認められるようになりました。幾年間も,このチャンスを目指して努力し,戦って来たのです。良心からも,ボクシングのトレーナーからも責められ,四面楚歌といった状態に置かれました。私は定期的に聖書を研究し,クリスチャンの集会に出席していました。その結果,思いを強く動かす力が働いていました。ボクシングの用語で言えば,聖書は私をロープに追い詰め,私はマットに沈みそうになっていました。「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」とか「愛は自分の隣人に対して悪を行ないません」という聖書の言葉にどうして逆らえるでしょうか。―コリント第一 9:27。ローマ 13:10。

私は別の試合に応じないで,どうにか数か月を過ごしました。そして1972年2月に,15日以内にタイトルの防衛戦をしないなら,それを返上するようにと告げる手紙をボクシング連盟から受け取りました。私はエホバに祈り,助けと導きを求めました。その助けは得られ,私は宗教上の原則に基づいて引退することを発表しました。

報道機関は,案の定それに反応を示しました。2度テレビのインタビューを受け,自分の動機を説明しました。スポーツ関係者の多くは私の決定を批判しましたが,ようやく内なる自分との平安を得ました。私は本当の勝利を得たのです。

時々,ボクシングをやめて残念に思ってはいないか,と尋ねられることがあります。その質問を受けると,フランシスコと私がボクシングのトランクスをはき,手にバンテージを巻いて戦う準備を整えた報道写真の次のような見出しを思い出します。「顔を合わせるカルロスとフランシスコ・サンホセ。階級は全く異なるものの,この兄弟は共にリングでのつかの間の栄光のために払った努力に対する償いを求める」。「つかの間の栄光」という言葉に目を向けてください。この言葉(“ephemeral”)はギリシャ語に由来し,字義的にはたったの1日しか続かない,という意味です。ボクシングの世界では正にその通りです。

かつては有名だったボクサーの幾人かに接する機会がありましたが,その有様は惨たんたるものでした。そうした人々は,自分たちのつかの間の色あせた栄光ばかり追っていました。その人たちのいわゆる“友人たち”は今どこにいるのでしょうか。ボクサーに“友人たち”がいるのは,その人が勝っている時,また“友人たち”がボクサーの勝利によってお金をもうけている時だけだ,ということを幾度も見せられてきました。負け始めると,“友人たち”は姿を消します。

富はといえば,私はボクシングで財を成すことなど決してありませんでした。賞金の3分の1ほどはトレーニングやマネージャーの費用をまかなうのに充てられます。そしてその残りは,試合と試合の間,家族を扶養するために用いられます。

しかしエホバの証人になって以来,他の面でずっと多くを得てきました。今では誠実な友人たちがいます。その友情は,真実で,永続的な価値に基づいており,アイドルの栄光の七光りにあずかろうという考えに動かされてはいません。その人たちは私の霊的な兄弟たちで,ここ北スペインのビズカヤ県サンサルバドル・デル・ベーユで,「良いたより」の伝道に共にあずかる人たちです。この業にあずかることにより,宇宙で最も偉大な方,エホバ神の証人となる特権を享受しています。

クリスチャンの大会に出席すると,しばしばボクシングをしていた時代のことを思い起こさせられます。とはいっても,幾年も前にボクサーとして私が試合をした競技場が大会に使われるからに過ぎません。1978年に,バルセロナで開かれた国際大会もその一つです。市営スポーツ・パレスも会場として用いられましたが,そこは私がナイジェリア人のボクサー,ダウドゥーの命を絶つのにひと役買った場所でした。実に対照的な光景です。KOを求めて叫び声をあげる血にうえた群衆はなく,愛と静けさに満ちた雰囲気の中で神の言葉に耳を傾ける,平和を愛好する人々がいるのです。

それよりも前の1974年に,サラマンカのフットボール場で開かれたエホバの証人の地域大会に出席した際,一人のがっちりしたエホバの証人が反対側から歩いて来るのに出会いました。その顔には見覚えがありました。その人は私を見て,そのまますれ違ってから後ろを振り返りましたが,私も同じことをしていました。そして互いにあっけにとられ,「ベン・バチール/サンホセ二世じゃないか」と,ほとんど同時に叫び声をあげていました。正にその通りです。かつてはリングの上で敵同士だった二人が,今ではクリスチャンの兄弟として一致しているのです。

私もフランシスコも,残忍さや暴力,飽くことを知らぬ金銭欲,不正,搾取などに満ちた汚ないボクシングの世界を捨てて,うれしく思っています。私たちはそれよりも勝った生き方,愛に基づくクリスチャンの生き方を見いだしました。それは永続する報い,つまり神の是認と永遠の命をもたらします。―ヘブライ 11:6。ローマ 6:23。

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「遅ればせながら,多くの場合にチャンピオンはリングの中ではなく,興業主の事務所で決められることが分かりました」

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「ボクシングが彼を殺したのは分かっていましたが,私が……刑執行人になったのです」

[19ページの拡大文]

『クリスチャンは日常生活を強く支配する愛を抱いていなければならないことを学びました。私の場合,それにはボクシングも含まれます』

[20ページの拡大文]

『つかの間の栄光 ― たったの1日しか続かない栄光。ボクシングの世界では正にその通りです』

[21ページの拡大文]

「ボクシングの用語で言えば,聖書は私をロープに追い詰め,私はマットに沈みそうになっていました」

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