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  • 「ライオンから子羊に」
  • 目ざめよ! 1982
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目ざめよ! 1982
目82 10/22 23–25ページ

「ライオンから子羊に」

金品を巻き上げ,店員を脅しつけておいて,私たち兄弟は車に飛び乗って逃げました。その日 ― 1972年4月14日 ― 自分がいかに凶暴な“野獣”となっていたかを自ら思い知ることになろうとは考えてもいませんでした。

警察の検問用バリケードの近くで車を止めると,突然,弾丸の雨を浴び,車はハチの巣のように穴があきました。弟のラリーは私のひざの上に倒れて息絶えました。弟は顔を吹き飛ばされていました。私は体中に弟の血を浴びました。車のスピードを上げて逃げようとしたものの,少し走った所で銃撃を受け,車が燃え出しました。私たちは車から飛び降りると,別の車を探しました。

近くに止まっていた車の中で一人の老人が眠っていました。ラリーが死んだのを見た後だけに,私は凶暴になっていました。怒り狂った私はその男をつかんで殴りつづけました。そうせずにはいられなかったのです。男は頭蓋骨を割られ,虫の息になりました。警察の追跡を受けて猛スピードの自動車逃亡劇が展開されましたが,その間に私は二度,体に弾を受け,ついに一時的に意識を失い,車は何かに激突して止まりました。

「手を挙げて出て来い!」という声を耳にしたのを覚えています。警官に取り囲まれていましたが,それで私がおとなしくなったわけではありません。近距離からショットガンで撃たれて腹部に大けがをしました。それでも,体重が120㌔以上もある警官と格闘し,最後に組み伏せられて,ぬかった湿地の水たまりに顔を突っ込まれました。私の背中に馬乗りになった警官は,「クロンボめ,どうせお前は死ぬんだ!」とののしりました。

後に病院に入れられましたが,私の頭にはただ一つのこと,つまり動いているものは何でも殺してやるという考えしかありませんでした。弟が死んだ後だったので,人生に何の目的も見いだせなかったのです。何かになろうという望みなど全くなかったので,私にとっては殺して殺されることしか残されていませんでした。ショットガンで武装した二人の警備員が病院の私のベッドのそばに座っていたのも不思議ではありません。

では,何が原因でこういうライオンのような性格を身に着けるようになったのでしょうか。

暴力に明け暮れた幼年時代

家の中では,いつもだれかがけんかをしていました。父は,けんかが元で片目が見えなくなっていました。父は時々,人の大勢集まっているダンスホールの入口に立ち,「だれも出入りするな」と叫んで,中にいる人々を脅しつけていました。父に立ち向かおうとする人はだれもいませんでした。父がどれほどの乱暴者かをだれもが知っていたのです。私たちは暴れ者の父の手本に倣いました。「動かしてやらないよ!」と言っただけで,兄の一人に大きなナイフで片足を切り落とされそうになったことがあります。母は幾らか優しいところがありましたが,「子供が16人もいては,全員に愛を示すことなど到底できやしない」と私は考えました。

私たちの家族は貧しかったものの,必要な物に事欠くことはありませんでした。しかし,私はもっと多くの物が欲しかったので,やがて夜盗を働くようになりました。その結果,13歳で少年院に送られ,さらに乱暴者になりました。ある時,私をだまそうとした少年とけんかをし,その少年が気を失って倒れるまで殴りつけました。少年は顔面血だらけになっていました。

少年院を出た後の私の生活は少しも変わっていませんでした。隣の人のことをほんの少し気遣うことさえできませんでした。暴力行為は激しさを増し,1972年4月のあの日に至ったのです。弟のサイと私は最後に法廷に引き出され,“最高刑”つまりルイジアナ州アンゴラのルイジアナ州立刑務所における30年の懲役刑を言い渡されました。

刑務所に着いた私たちは“けんか好きの二人組”として知られていました。私は小柄で,体重も60㌔余りしかありませんが,様々な武術やウエートリフティングをやっていました。自分の体重の2倍以上ある物でも軽々と頭上に持ち上げることができました。「アルには手を出すな。やつはとことんやらないと収まらない男だ。へたをすれば殺されるぞ」と言ったうわさが刑務所中に広がっていました。

「足をすくわれる」

刑務所の中でエホバの証人が毎週集会を開いていました。私も好奇心から出掛けて行きました。私は,上品な言葉遣いの辛抱強い奉仕者の一人に,「あんたは自分の話していることが分かってやしないよ」と,ちょう戦的な言葉を投げ掛けました。「どうしてそのように感じるのですか」とその奉仕者は答えました。服役囚であった私には物事を疑う傾向がありました。私たちは人をあやつるために,“耳に快い”言葉を使うのにたけていましたから,エホバの証人の結構な話も初めは余り本気に受け留めませんでした。

やがてこれらの証人に,自分のそれまでの人生で一度も示されたことのなかったものを感じ取るようになりました。それは真実の利他的な関心です。まず,エホバの証人は毎回1時間近くもかけて刑務所にやって来ていました。報酬を一切受けずに,毎週このようにしているのです。また,刑務所に来ていないときでさえ,時間を割いて会衆の他の長老たちと私たちの抱えている問題や質問について話し合い,次の週にはさらに詳しい情報を教えてくれました。エホバの証人は本当に私たちを助けたいと願っていました。私にはそのことが感じ取れたのです。

学んでいる聖書の真理は論理的であると同時に実際的でもありました。私は少しずつそれを実行するようになりました。徐々にですが,ライオンのような古い人格を脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けてゆきました。その新しい人格には,同情心,親切,へりくだった思いなどが含まれています。私はとても良い気分を味わっていました。聖書は確かに良い結果を生み出しました。次いで,刑務所の敷地内でエホバの証人の大会が初めて開かれることになりました。a ―コロサイ 3:9-12。

300人を超すエホバの証人が惜しみなく示す愛には,まさに『足をすくわれた』思いでした。人種の違いや服役者であるという理由で偏見を示されることは全くありませんでした。イエスが言われた通り,この自己犠牲的な愛によって,「すべての人」がイエスの真の弟子を「知る」のです。それまでにも,私は宗教を信じていましたが,自分なりの方法で信じていました。また,「人にされる前に,自分の方からしろ」というのがいつも自分のモットーでした。私はエホバの証人の利他的な愛に深い感動を覚えました。事実,この大会 ― 1974年10月5日 ― で私はバプテスマを受けたのです。―ヨハネ 13:34,35。

神との関係を深める

エホバの証人は私に聖書を注意深く調べる方法を教えてくれました。私は,自分の生活にエホバが優しい関心を払っていてくださるのを感じ取るようになりました。エホバの憐れみの前に私は圧倒されてしまいました。過去を振り返ると,神経衰弱にかかりそうでした。私に脅されたり打ちたたかれたりして恐怖に顔をひきつらせている人々の姿が次々に「思い浮かんでくる」のです。しかし,エホバが完全な許しを与えていてくださるのを感じ取ることにより,自分にできるすべてのことを行なってエホバに喜ばれたいと願うようになりました。また,自分の人生において初めてローマ 13章1節の原則を適用し,刑務所の当局者によって代表されている「上位の権威」に服しました。―イザヤ 1:18,19。

以前の古い人格に逆戻りしないために,私は自分の考えや心を守らなければなりませんでした。自分の思いを以前の暴力行為にではなく,聖書やそこに記されている模範に向けるようにしました。エホバの基準にいっそう十分にかなった者となるよう,絶えず ― 毎日 ― 真剣に努力しました。幾千人もの堕落しきった人々に囲まれた中でこのような態度を保つのは容易なことではありません。残念ながら,アンゴラにいる間にエホバの証人になった人々の中にも,心にまかれた真理の音信が生活上の思い煩いや快楽によって締め出されてしまった人々がいました。一部の人々は,刑務所から出たいという願いや結婚したいという願いにかられて,霊的な物事の価値を曇らせてしまいました。こうした者たちの歩みは悲惨な結果をもたらす例となりました。その者の真の霊的状態を知らずに結婚したエホバの証人の生活までも台なしにしてしまったのです。―ルカ 8:11-15。

このような問題に陥らないため,自分が抱いている同じ希望や目標を他の服役囚が持つよう助ける業に忙しくあずかるようにしました。何年にもわたって,私はこの業に毎月100時間以上を費やしました。ある時期には,週ごとに行なわれる聖書研究を20件も司会しました。これらの収監者のうちの8人は献身したエホバの証人になっています。そのうちの一人は,気性が非常に激しく,自分の妻を殺害して投獄されていました。別の「ライオン」が「羊」の一人になるのを見て,深い満足を感じました。

出所後の生活

9年服役した後,私は1981年に釈放されました。会衆と自由に交わることができるのは本当に大きな喜びでした。しかし,何人かの人から受けた印象で,私は自分の背景ゆえにまず自分自身を“証明”する必要のあることを感じました。エホバを喜ばせることが第一で,そうするならやがて,他の人々も自分の霊的な進歩に気付いてくれることが分かっていました。今度は,妻とその5人の子供を顧みるという別のちょう戦に立ち向かうことになりました。―使徒 9:26と比較してください。

エホバに深い献身的な態度で仕えていたバーバラのような妻を見いだせたことを幸せに思っています。進んで服するバーバラの支えは私にとってなくてはならないものでした。家族の中でエホバのことを第一にしていくため,私たちは毎週,どのようなことがあっても一緒に研究し,一つの家族として人々に聖書を教えるようにしています。どの夫婦にもあるように,私たちの間にも当然,ささいないさかいが生じます。でも,私は腹が立つと,隣の部屋に入って行き,聖書か聖書研究の手引書を開いて読むようにします。1時間もすると,仲直りします。

非常に多くの犯罪者が以前の道に戻るのを読んで,「ライオン」が本当に「子羊」になれるのだろうかと疑問に思うことがあるでしょう。子羊とライオンが平和のうちに共に住むことを描いたイザヤ書 11章6-9節の人の心を引きつける情景は今日の神の民の間に実在し得るのでしょうか。その答えの一部になると思われるある出来事が生じました。それについてバーバラに話してもらいましょう。

「伝道からの帰り道で,私はアルと一緒に歩いていました。酒場から出て来た一人の男が,私たちをジロジロ見つめると,『見ろよ,きれいなご婦人だ! キスをさせてもらわなきゃ!』と大声を上げました。その男は近付いて来て,腕を私の体に回そうとしました。アルの方を見ると,アルは口を堅く結んでいました。それでも,何もしませんでした。私が後ずさりをしてその男から離れると,男はアルのところまでやって来ました。そしてアルの手を握り,『これは失礼,だんなさん。余りにお美しいので,ついポーとなりまして』と言うと,去って行きました。そのときのアルの次の言葉を私は決して忘れないでしょう。『わたしがあの男に何ができるか,あの男に分かっていればよかったのに』。私はアルに言いました。『エホバの霊が確かにあなたと共にあったのね』」。

確かに,自分がこれまで遂げてきた変化を振り返ってみるとき,それを成し遂げたのが単にアルという名の一個人ではないことが分かります。エホバの霊と導き,そのみ言葉から得られた正確な知識がこの「ライオン」を良い羊飼いの群れの中の「子羊」に変化させたのです。―寄稿。

[脚注]

a 詳しくは1977年8月8日号の「目ざめよ!」誌をご覧ください。

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