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目ざめよ! 1982
目82 12/8 10–11ページ

自分の信じたい事柄を信じる人々

人々がある事柄を信じるのはなぜでしょうか。確かな根拠があるからですか。わたしたちは,人々が自分の信じたいことを信じているのをしばしば見ていないでしょうか。ある事柄が俗受けするので,人々はそれを信じるのかもしれません。これは,神を信じること,人生の目的,将来における事柄などについてしばしば言えることです。

歴史上,イスラエル人以上に真実な事柄を信じる根拠を持っていた民はいませんでした。イスラエル人は,万物の創造者であるエホバ神から直接律法を与えられていました。神の律法を通して,また自分たちに対する神の交渉を通して,イスラエル人は神を信じて然るべきでした。そして,神に従い,神に認められることに努めるべきでした。しかし,人々はどんなことを信じるようになっていたでしょうか。

偶像崇拝のもたらす悲惨な結果について神からはっきりとした警告を受けていたにもかかわらず,イスラエル人は男根崇拝を行なうようになり,なおかつそれによって自分たちがエホバを崇拝しているかのように見せかけました。歴代誌第二 33章17節は,「それでも,民はなおも高き所で犠牲をささげていた。ただし,それは彼らの神エホバに対してであった」と述べています。彼らは盗みを働き,殺人を犯し,姦淫を行ない,偽って誓い,ほかの神々に従っておきながら,自分たちは救い出されると信じていました。―エレミヤ 7:8-11。

イスラエル人は自分たちの信じたい事柄を信じておきながら,真の神エホバを崇拝しているかのように見せていたのです。彼らが自分自身の考えに頼っていたので,エホバはご自分の預言者を通して,「あなた方の考えはわたしの考えではなく,わたしの道はあなた方の道ではない」と言うことができました。(イザヤ 55:6-8)その民はくちびるをもって神の栄光をたたえましたが,その心は神から遠ざかっていました。(イザヤ 29:13)そして,エホバがご自分の預言者たちを通して警告をお与えになると,イスラエル人はこう答えました。『あなた方は見てはならない。あなた方はわたしたちのために正直なことを幻で見てはならない。滑らかなことをわたしたちに話せ。欺きを幻で見よ』。(イザヤ 30:9-11)彼らは自分たちの信じたい事柄しか聞こうとしませんでした。

イエスが来られて彼らに宣べ伝えたとき,イエスは,その民の信じている事柄は彼らの伝統のゆえにむだになっていると言われました。(マタイ 15:7-9)使徒パウロは後に,ユダヤ人について,『彼らは神に対する熱心さを抱いていましたが,それは正確な知識によるものではありません。彼らは自分たち自身の義を確立しようと努めていたのです』と書きました。(ローマ 10:2,3)なぜでしょうか。自分たちがそうしたいと思ったからです。

イエスを信じた人々と,信じなかった人々

人々は,イエスが同じ音信を宣べ伝え,同じ強力な業を行なわれることについて聞きましたが,それでも信じる人々と,信じない人々がいました。なぜでしょうか。バプテスマを施す人ヨハネの証言とイエスの言葉を聞いた後に,アンデレは自分の兄弟シモンのところにやって来て,「わたしたちはメシアを見つけた」と言うことができました。フィリポはナタナエルのところへ来て,「わたしたちは,律法の中でモーセが,そして預言者たちが書いた方,ヨセフの子で,ナザレから来たイエスを見つけた」と言いました。(ヨハネ 1:35-45)これらの人たちはどうして信じたのでしょうか。単に自分たちが信じたかったからでしょうか。この二人は,聖書に預言されていたことに従って,自分たちの見聞きした事柄のゆえに信じたのです。

サマリア人はイエスの言葉を聞いたとき,自分たちにイエスについて最初に語った女に対してこう言いました。「わたしたちはもう,あなたの話のゆえに信じているのではない。自分で聞いて,この人こそ確かに世の救い主だということが分かるのだ」。(ヨハネ 4:39-42)イエスが死んだラザロを復活させるのを見た人の多くはイエスを信じました。その同じ奇跡を見た人々の中には,パリサイ人のところへ行ってその出来事を報告した人もいました。これらパリサイ人たちは信じたでしょうか。いいえ,彼らは人々が信じることがないように,イエスだけでなくラザロをも殺そうとたくらみました。(ヨハネ 11:45,46,53; 12:10,11)これらの人たちはイエスを信じたくなかったのです。そして,信じないことを選びました。なぜでしょうか。

これらの人々が信じなかった理由

それには幾つかの理由がありました。宗教指導者たちは,ローマ人たちが「やって来て,我々の場所も国民も奪い去ってしまう」のではないかと恐れていました。(ヨハネ 11:48)イエスはかつて彼らに,彼らは互いに相手から栄光や誉れを受けることの方を好むので,信じないのだ,と告げておられました。(ヨハネ 5:44)また,イエスに感銘を受けた下役たちに対して,宗教指導者たちはこう言いました。「支配者やパリサイ人で彼に信仰を持った者は一人もいないではないか。だが,律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」。(ヨハネ 7:46-49)このように,宗教指導者たちには彼らなりの信じたくない理由があったのです。

後日,真のキリスト教の信仰から脱落していった大勢の人々にも,同じことが起きました。使徒パウロは,人々が健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望に従って,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める時が来ようとしており,そうした人々は真理に背を向ける,と書きました。(テモテ第二 4:3,4)ペテロは,不安定な者たちが聖書を曲解して自らの滅びを招いている,と書きました。(ペテロ第二 3:16)さらにペテロは,終わりの日に,「わたしたちの父祖が死の眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っている」と言って,約束された主の臨在を多くの人が信じないであろうことについても書きました。なぜでしょうか。神がノアの日の邪悪な世に裁きを執行したという事実を彼らが,「彼らの望みのままに」見過ごしている,とペテロは述べました。(ペテロ第二 3:3-7)そうです,そうした人々は自分たちの望みのままに信じることになっていたのです。

信じるための確かな土台

では,創造者である神を信じ,神の王国が来て,神のご意志が天におけると同じように地でも行なわれるということを信じるのは,人々が信じたいと思う空想に過ぎないのでしょうか。決してそのようなことはありません。真の信念には土台があります。そのような信念つまり信仰について使徒パウロはこう書きました。「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。(ヘブライ 11:1)次いでパウロは大勢の男女が単に自分たちの信じたい事柄だけを信じたのではなく,神がご自分についてまたご自分の目的について啓示された事柄を信じたことについて述べています。それらの男女は自分たちの信じた事柄のゆえに自己犠牲を求められ,この世の憎しみを買いました。今日でも,神の目的を信じる人々について同じことが言えます。

では,人々を動かして専念させ自己犠牲を払わせる宗教であれば,どんな宗教でも神からのものであるということになりますか。あるいは,そのような宗教に専念している人も,単に自分たちの信じたい事柄を信じているに過ぎないということがあるでしょうか。大勢の若い人々を引き付けている宗教運動の著しい例は,文鮮明の統一教会(原理運動)です。この教会は,どのようにしてこれほど大勢の現代の若者に献身的な奉仕をさせることができるのでしょうか。それについてしばしば反対の言葉が聞かれるのはなぜですか。「文鮮明の統一教会 ― どんな事を信じているのか」と題する続く記事では,これらの疑問を取り上げています。

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