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目ざめよ! 1982
目82 12/22 12–16ページ

スーリン,アメリカに連れて来られた最初の生きたパンダ

楊帝霖の語った経験

私は西欧世界で人々が初めて目にした生きたパンダを捕まえました。その後,それよりはるかに価値あるものを見いだしました。

『自分だっていつか,これと同じことを,いやもっと大きなことをするんだ』。中国の奥地にジャイアント・パンダ狩りに行った兄が帰って来たとき,私はそう考えました。兄は,セオドア・ルーズベルトの二人の息子,セオドア二世とカーミットの率いる探検隊に加わっていたのです。当時,私は14歳で中国の高校に通っていました。私たち兄弟は中国人ですが,兄は米国で生まれました。その後,兄は,私が上海<シャンハイ>の大学に通っていた時,それは私が20歳の時でしたが再び中国を訪れました。「チベットに狩猟に行くが,お前も一緒に行きたいか」と兄が言いました。願ってもないことです! それは1934年のことでした。

兄はルーズベルト兄弟の探検隊に同行したことがあったため,この時には,動物園や博物館で必要としている珍しい動物を収集するための独自の探検隊を組織できるようになっていました。この探検旅行は大成功を収めました。1935年にも別の探検旅行を行ない,多くの動物を生け捕りにしました。その時,ジャイアント・パンダを銃で仕留めようとしましたが成功しませんでした。

「これと同じことを,いやもっと大きなことをするんだ」という私の少年時代の夢はすでにかなえられていましたが,それはさらにすばらしい仕方でかなえられようとしていました。動物の最初の見本を捕まえることになったのです。

そのきっかけとなったのはルース・ハークネス夫人の訪中でした。ハークネス夫人はニューヨークのファッション・デザイナーで,夫は有名な動物収集家でした。ハークネス氏は,南太平洋のオランダ領東インドからコモドオオトカゲを持ち帰った最初の人でした。(オランダ領東インドというのは現在のインドネシアのことです。)そして同氏は,自分こそ中国から西欧世界に生きたジャイアント・パンダを最初に連れ帰る者になるのだと確信していました。ところが,中国で病気にかかり,その地で亡くなりました。

そこで,未亡人となったルース・ハークネスは夫が手掛けたことをやり遂げるため,つまり生きたパンダを西欧世界に連れて行くために中国にやって来たのです。彼女はみんなからばかにされました。「あなたには行けませんよ。これまでにもパンダを生け捕りにしようとした人がいましたが,成功したためしがありません。それなのにどうして,自分にできると考えるのですか。そんなことは奥さん,正気のさたじゃありませんよ」。

それでも,ハークネス夫人の決意は変わりませんでした。米国の領事館に話したところ,「パンダの生息地に行きたいなら,楊<ヤング>兄弟を探すとよいでしょう」と言われました。

その翌日,私はルース・ハークネスと会い,話し合って合意に達し,私たちは準備に取り掛かりました。1936年9月初旬に彼女と会い,その月の26日に私たちは出発しました。

まず揚子江をさかのぼりました。最初に乗り込んだ2,000㌧から3,000㌧の川船から150㌧の平底舟まで,幾度も船を乗り換えました。最後にはいかだまで使いました。1,600㌔ほど内陸に入った所では,川岸の苦力<クーリー>に舟を引いてもらうこともありました。この川旅の中で最も壮観だったのは,揚子江名物の峡谷を抜けるときでした。両岸に300㍍を超す絶壁がそそり立っています。

重慶<チョンチン>で揚子江と別れ,自動車で成都<チョントー>まで行きます。しかし,そこからカンシエンまではルースを除いて全員が徒歩で行くことになります。私はルースを説き伏せて,苦力<クーリー>の担ぐファーガーと呼ばれる西洋かごに乗せました。このカンシエンは最後の前哨地です。ここからは道がけわしくなります。かごを担いでくれる人夫もこれより先には行きません。全員が歩いて進みます。北に向かって二日歩いてウンチワンに着きました。ここが最後の食糧の補給地です。ここから西に向かい,パンダの生息地に入ります。

ウンチワンを出て二日目に,私たちはツァオポーという寒村に着きました。ここに来るには人の踏み固めた非常に険しい小道を通るしかありません。しかし,山の懐に抱かれたこれらの小さな村に,一つの中学校と幾つかの小学校があったのには驚きました。ツァオポーの村民の中には,パンダが時々,教室の中に入って来ると言う人までいました。

私たちはツァオポーの古い城に捕獲本部を置きました。ツァオポーからさらに一日西へ入った所にベースキャンプを設け,パンダを捕まえるためのわなを幾つか仕掛けました。私はルースをベースキャンプに残し,山を登ってさらに奥に入り,自分がキャンプ2と呼ぶ所まで行って,さらに幾つかのわなを仕掛けました。ルースと私はそれぞれのキャンプからお互いに使いをやって連絡を取りました。

ところがルースはもっと刺激が欲しく,私のキャンプに来たがりました。私のキャンプはルースにとって余り居心地の良い場所ではありませんでしたが,彼女は来るといって譲りませんでした。そこで,私はルースを連れに行きました。そうしたのは良い事でした。そうでなかったなら,ルースはこの旅行の最も重大な瞬間に居合わせてはいなかったでしょう。

道は非常に険しく,ルースは猟師たちに付いて行くことができなかったため,猟師たちはどんどん先に進んで行きました。私はルースの背中を押して,彼女が登るのを助けました。猟師たちには,パンダを決して撃たないようにという命令を与えておきました。一番大事なのはパンダを生け捕りにすることです。そうしてはじめて,中国政府への贈り物にするパンダを捕る猟を始めることができます。ところが,私たちの前を行く82歳の老ハンターはパンダを見ると興奮し,銃を撃ち始めました。パンダは傷を負いました。雌のパンダです。猟師たちは,逃げるパンダの跡を追って行きました。

森の中の比較的木がまばらな所に出たとき,私は小犬の鳴き声のようなくんくん言う声を聞きました。鳴き声をたどって行くと,うろのある大きな木がありました。そのうろの中の竹の葉を敷いた寝床の上にいたのです。赤ん坊のパンダがです! そこは傷を負ったパンダの住みかでした。母親は赤ん坊を残して行ったのです。私はパンダの赤ん坊を捕まえることなど考えてもいませんでした。赤ん坊のパンダを抱き上げながら,私は考えました。『これでは何にもならない。体重も1ポンドそこそこだし,まだ目も開いていない。黒の模様だってはっきりしていない。えさのやりようもない。どうせ死んでしまう』。

息を切らしてやって来たルース・ハークネスは,どうして銃声が聞こえたのか知ろうとして,「パンダを殺したの?」と言いました。私はそれには答えず,両の手のひらに載せた毛皮の小さなボールを差し出して言いました。「わざわざ中国にまでやって来た,お目当てのものです」。

初めはその意味がつかめない様子でしたが,やっと,信じられないという風に,ためらいながら言いました。「パンダの赤ちゃんなの?」 彼女は息をのみました。パンダの子供を私から受け取ると,抱き,「まあ,可愛いい。よしよし」と優しくささやき掛けました。パンダを胸に抱いてとてもうれしそうでした。しかし私には,彼女がそれを抱く仕方も,話し掛けるしぐさも,ばかげたことに思えました。「これが何になります。どうせ死ぬのです。何の役にも立ちません。さあ,行きましょう」と,私は強い語調で言いました。

私は,傷を負った母パンダを見付けたいと思っていました。ところが,ルースの方はパンダの子供にすっかり魅せられてしまい,「いいのよ,そのことは忘れて,キャンプへ戻りましょう」と言うと,小道を下り始めました。私はシャツの内側に小さなパンダを入れて,後に付いて行くほかありませんでした。

ベースキャンプに戻ると,ルースは自分の荷物をひっくり返し,やがて哺乳びんを取り出しました。私はあぜんとしてしまいました。ルースがそんなものを持って来ていることなど少しも知りませんでした。ルースは,私が上海でだれかに,体重が135㌔もあるジャイアント・パンダを中国の奥地から運び出す際の問題について話しているのを聞いて,パンダの子供の世話をする用意をしてきたのです。ルースはミルクを調合してびんに入れ,乳首を取り付け,それをパンダの子の口に入れてミルクを飲ませました。パンダはそれをむさぼるように飲みました。

それは,チベットの国境近くの高い山の中における実に劇的な瞬間でした。それが歴史的な瞬間であったことが後になって明らかになりました。ルースはパンダの子を抱き,それがミルクを飲む様子を見守っていました。彼女はこのパンダにスーリン,「幸運で優雅」という名をつけました。中国語のスーリンにはそのような意味があります。

そのすぐ後に,ルース・ハークネスとスーリンは米国に向けて旅立ちました。1936年12月に米国に着き,スーリンはたちまち有名になりました。スーリンの行く先々で,カメラのフラッシュがたかれ,新聞記者が記事を書きました。放送局も盛んにスーリンの評判を広めていました。スーリンの写真はクエーカー・オーツの箱を飾りました。スーリン,それは西欧世界に初めて連れて来られた生きたジャイアント・パンダでした。

残念ながら,スーリンは余り長くいませんでした。ルースのもとにいたのは数か月で,シカゴのブルックフィールド動物園に寄贈されました。しかし,悲しいことに,1歳半で死んでしまいました。幾らか悲しそうに見えますが,シカゴのフィールド博物館に行けば,はく製にされたスーリンの姿を今でも見ることができるでしょう。

その翌年,つまり1937年に,ルースは再び中国を訪れ,私はルースに同行してもう一度パンダを生け捕りにすることになりました。当時,スーリンはまだ生きており,ルースはその花婿が欲しかったのです。私は2頭目のパンダを捕まえました。このパンダは体重が18㌔でした。私は,後に私の最初の妻となった若い女性にちなんで,このパンダにダイアナという名を付けました。ルースは後日,この赤ん坊のパンダの名をメイメイと改めました。

年月は経過して,日本との戦争が始まりました。私は中国軍に加わりました。家族をインドネシアへ移転させたものの,私自身は日本の当局によって投獄されました。日本が降伏した後,私は在インドネシア中国人の再組織を図り,中国領事館で働きました。しかし,1949年にインドネシアが中国の共産党政権を承認するに及び,私たちは領事館を閉鎖しなければならなくなりました。私は国民党に加わり,在外中国人のインドネシア支部を指導して国民党の中国に忠節を保たせました。この働きによって,1953年に現在の台湾にある同党の本部へ呼ばれました。特別の学校教育を受けた後,インドネシアへ再び派遣され,1958年に当時の左翼政権の下で再度投獄されることになりました。

釈放後間もなく,最初の妻をガンで亡くしました。私は,2人の子供が結婚し,落ち着くまで,その世話をしました。それから私は,二人目の妻である,インドネシア生まれの中国人スワンと結婚しました。私たちは一緒に台湾へ戻りました。それは1968年のことでした。

大義のためにこれだけ働き,犠牲を払い,辛酸をなめてきたのですから,台湾で良い職に就けるだろうと考えていました。ところが,私が耳にしたのは,「あなたは年を取っている。わたしたちが必要としているのは若者だ」という言葉でした。

スワンは教会で祈りをしたがりました。「いいとも,教会へ連れて行ってあげよう。教会がどんなところかは分かっているがね」と私は言いました。当時の中国では,プロテスタントの勢力が優勢でした。私は宣教師たちと交わり,聖公会,バプテスト教会,ルター派の会員になったことがありました。全部を試してみましたが,もうたくさんでした。

翌日,出掛けようとしていると,だれかが家のドアをノックしました。エホバの証人の台北<タイペイ>支部からやって来た英国の婦人でした。この婦人は中国人である私の妻に中国語で話し始めました。妻が理解できたのはインドネシア語,オランダ語,英語で,中国語は分かりませんでした。そこで,二人は英語で話をしました。私たちの家で聖書研究が行なわれるようになりました。妻が王国会館で開かれる中国語の集会に行くようになると,私も一緒に行って妻のために話を通訳しなければなりませんでした。

次第に,この宗教が他と異なっていることに気付くようになりました。寄付を請われることはありませんでした。また,ひどい雨の日でさえ,その婦人は研究にやって来ました。長い間訪問してくれましたが,何かを要求するということは一度もありませんでした。私は聖書について様々なことを学ぶようになりました。妻が研究している間,私も自分の研究をするようになりました。それは普通とは違う変わった方法で行なわれるようになりました。

エホバの証人であるジム・グッドはRCA台湾の社長をしていました。その会社は純外資系の会社としては台湾で2番目に大きく,7,000人を超す従業員がいました。その会社の社長ですから当然,多くの政府高官や大臣たちとも親しい関係にありました。この人の妻ヘイゼルもエホバの証人でしたが,彼女は中国語を学びたがっていました。そのころ私はRCAの人事課で働いており,社内文書の編集をしていました。そこで,私がヘイゼルに中国語を教えることになりました。彼女は私に何を教えたでしょうか。聖書の真理です。

私はずいぶん彼女を煩わせました。様々な難しい質問をしました。ヘイゼルは,答えることができないと,「この次,お答えしましょう」とよく言いました。そうして,難問すべてに答えてくれました。「どうして聖書には中国人のことが書かれていないのですか」とか,「なぜユダヤ人の代わりに中国人が選民とならなかったのですか」といった幾つかの質問は,ヘイゼルにとって予想もしないものであったに違いありません。「それに,啓示の中の龍は,どうしてそれほど悪いのですか」という質問もしました。中国人にとって,龍は繁栄のしるしなのです。私の質問がヘイゼルにとっていかに難問であったかが分かるでしょう。

妻は,1年研究した後,バプテスマを受けました。それは1970年のことでした。その後,すでに米軍を退役していた高齢の兄から,米国に来て余生を共に過ごして欲しいと言われました。私は1974年に米国でバプテスマを受けました。信条の違いから兄と一緒に生活してゆくことが難しくなり,私たち夫婦はカリフォルニア州の南部に移りました。現在でもそこのエホバの証人の会衆と楽しく交わっています。

私が高校に通っていた14歳のころ,兄はルーズベルト兄弟に同行して探検旅行に行きました。その時,私は次のように考えました。『自分だっていつか,これと同じことを,いやもっと大きなことをするんだ」と。少年時代の希望がかなえられたことをうれしく思っています。しかし,私は今,別の希望を抱いて,それよりはるかに大きな喜びに浸っています。それは,楽園の地で永遠に生き,地上のすべての植物や動物の世話をするという希望,また天と地の創造者,エホバ神への崇拝において一つに結ばれ,互いに愛を示し合う人々と共に生活するという希望です。

あらゆる希望の中で最もすばらしいこの希望が,エホバの過分のご親切によって同じようにかなえられることを祈っています。

[13ページの拡大文]

「これまでにもパンダを生け捕りにしようとした人がいましたが,成功したためしがありません。それなのにどうして,自分にできると考えるのですか」

[14ページの拡大文]

私はそれには答えず,両の手のひらに載せた毛皮の小さなボールを差し出して言いました。「わざわざ中国にまでやって来た,お目当てのものです」

[15ページの拡大文]

ところが,私が耳にしたのは,「あなたは年を取っている。わたしたちが必要としているのは若者だ」という言葉でした

[16ページの拡大文]

私は次のような様々な難しい質問をしました。「なぜユダヤ人の代わりに中国人が選民とならなかったのですか」「それに,啓示の中の龍は,どうしてそれほど悪いのですか」。中国人にとって,龍は繁栄のしるしなのです

[13ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

成都<チョントー>

カンシエン

ウンチワン

ウェイクー

綿竹<ミィンジゥ>

リーファンティン

見張り用キャンプ 1

ツァパイ

ツァオポーゴーの谷

帝霖のキャンプ

ベースキャンプ

[地図]

中国

上海

南京<ナンキン>

揚子江

漢口<ハンコウ>

チンチョウ

宜昌<イーチャン>

揚子江

万県<ワンシェン>

重慶<チョンチン>

成都<チョントー>

綿竹<ミィンジゥ>

[14ページの図版]

中国にいたときのスーリン

[15ページの図版]

シカゴの動物園のスーリン

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