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目ざめよ! 1974
目74 2/8 16–19ページ

パンダ狩りをしていた人

台湾の「目ざめよ!」通信員に語られた経験

寒さで身が震えるような,霧雨の降る12月のある日のこと,わたしはロンドン動物公園を訪れました。その季節が動物園に行くのに好都合な時期だとは,マーブル・アーチから動物園行きのバスに乗って,乗客がわたしの外に外人ひとりだけであることに気づくまではついぞ知りませんでした。わたしはなぜ,そうした時期にロンドン動物園を訪れることにしたのでしょうか。

その日の朝のわたしの行動をご覧になると,その答えが分かります。わたしは動物園の入口を抜けて,しずくの落ちる木々のこずえの下を通り,ライオンその他の動物のいる,古めかしい大きな鉄のおりのそばを歩いて行きました。しかし実のところ,わたしにはそうした動物すべてを見る時間がありませんでした。わたしがロンドンに滞在するのはわずか1日だけでした。そして,わたしは特別な動物を見るために動物園にやって来ました。ついに,わたしは目的の動物のいるところに着きました。

わたしの目の前には,肩のところに黒いしま模様のある,目の荒い白い毛皮の大きな,まるで塚のようなものが横たわっています。それは巨大なボール玉のように丸くうずくまって眠りこけています。熟睡しているこの眠り屋さんを起こすために,わたしは指輪で窓ガラスをたたきました。すると不承不承にまぶたを片方だけあけて,靴の止めボタンに似た小さな目をのぞかせました。わたしたちは互いに視線を交わしました。わたしが子どものころにいだいていた夢が実現しつつありました。わたしは生きているパンダを見ていたのです!

子どものころの夢

ここロンドンに,約14年間もチチという名のパンダがいるにもかかわらず,パンダを一度も見たことのないロンドン市民はおそらく何千人もいることでしょう。わたしにとって,パンダを見ることはどうしてそれほど重要だったのでしょうか。それには2つの理由がありました。そうした理由となるでき事は,地球を半周するほど離れた場所で,30年以上もの時の流れを隔てて起きました。

みなさんの中には,1936年に,シカゴのブルックフィールド動物園に『中国から[あいきょうのある]新しいクマ』が到着するという新聞の記事を大ぜいの人びとが胸をときめかせて読んだことをご存じのかたもおられるでしょう。そのパンダは白と黒のぶちで,何百万もの子どもが毎晩寝床に連れて入る縫いぐるみのクマそっくりでした。

こうした新聞記事は同時に,22歳の中国青年楊帝霖<クウエンタン ヤング>についても興味深く報じました。パンダを中国の四川省の竹林の中からアメリカに向かう長い旅にたたせたのはこの青年でした。楊帝霖<クウエンタン ヤング>は無傷の生きているパンダに触れた最初の人として知られています。

中国の険しい内陸部や西部諸省で博物学者また狩猟家として働いていた楊帝霖<クウエンタン ヤング>は,白いクマという意味の中国の白熊<パイフスイウング>を中国国外で初めて人びとの目に触れられるようにした人です。

わたしはその狩猟家に会った

33年後,台湾に着いて日の浅いわたしは,2時間にわたる中国語の授業の後に,中国語の講師つまり老師<ラオシュル>(教師)と雑談していました。彼は穏やかに,また遠慮がちにパンダのことについて話し始めました。それは,わたしたちが知り合ってから2,3週間ほどたってのことでした。

「パンダについて聞いたことがおありですか」と,彼は尋ねました。ほほえみを浮かべながら,また興味深そうに,もちろんわたしは,あります,と答えました。すると,彼はこうことばを続けました。「自慢しているように思われないで,このことをあなたにどうお話しすればよいのか全くわかりませんが,生きているパンダを最初につかまえたのはわたしです」。

わたしは(1936年に新聞で読んだ事がらを思い出しながら),「それはシカゴの動物園に送られたスーリンのことですか」と興奮して尋ねました。

「そうです!」と,彼は跳び上がらんばかりに喜んで答えました。「名前までご存じですか! あれはわたしの兄弟の妻の名前にちなんでつけました」。

あなたの推察しておられるとおり,わたしの中国語の講師は,パンダ狩りをしていた楊帝霖<クウエンタン ヤング>氏でした。楊帝<クウエンタン>氏はパンダのことを語るときに,「あれ」という表現を注意深く用いていました。なぜでしょうか。というのは,彼らは,スーリン(ごくわずかの貴重なものという意味)と名づけたパンダを初めは雌と考えていました。しかし後に,そのパンダは実際には雌ではなく,雄であることが明らかになりました。

事実パンダの性別を判断することは,数年前にロンドンのチチにしたように麻酔をかけて調べないかぎり非常に困難です。ですから,スーリンの場合に見られたような混乱はその後のパンダについてもありました。

パンダはクマではない

ところで,パンダとはいったい何ですか。パンダに関するどんなことがそれほど特別なのですか。わたしがパンダを見るためにロンドンを訪れる必要があったのはなぜでしょうか。その答えはすぐにわかります。

パンダはしばしばクマと呼ばれています。事実,1869年に博物学者たちがパンダの存在に最初に気づいた時,彼らはパンダのことをクマと呼びました。しかし動物学者は,それがまちがいであることにずっと以前から気づいていました。現在ではそれら動物学者は,(冬眠をしない)パンダを小パンダと呼ばれる小動物とアライグマの間に位置するものとして分類しています。骨格もクマとは異なっています。パンダには「第六の鉤爪」と呼ばれるものがあります。それは実際には骨のように堅くなった肉趾で,物をつかむ時に残りの指に向かい合う,ちょうと親指の役割をします。他にも,パンダがクマでないことを示す解剖学上の相違があります。

パンダはどんな外見をしているでしょうか。もう一方の目もあけることにしたチチについて説明させてください。チチの小さな目は一見するととても大きく見えます。顔は白ですが,目のところは一風変わった角度で黒く隅のようになっています。そのため,パンダは知性的で非常にあいきょうのあるように見えます。つやのある鼻と2つの黒く丸い耳は顔全体を覆っている白い毛皮につづいています。こうした顔だちゆえに,狩猟家たちは多くの人からパンダを殺さない旨確約させられました。

ボールのように丸くなっていたチチが体を伸ばし始めたので,わたしはチチの体の他の部分についても調べることができました。チチと同種類のパンダは,決まって全体が白で黒い模様が付いており,その逆にはならないことがわかりました。4本の足はともに黒です。後ろ足の間の腹部は白です。黒い前足の付け根は,肩と胸のあたりを通って体を一周している黒い毛の帯に続いています。このように色の配分がはっきりと分かれている哺乳動物は,おそらく他にはシマウマ以外にいないでしょう。パンダのこうした総合的な印象から,パンダをだいてみたいと思われるかたがおられるかもしれませんが,特に,成熟したパンダの大きさを考えると,それはお勧めできません。完全に成長したパンダの重さは90-110㌔にもなります。

チチは大きく口をあけてあくびをしました。そのさい,彼女には非常に大きな臼歯があることに気づきました。解剖学者は,こうした臼歯から判断して,チチと同種類のパンダを肉食獣の仲間に入れています。動物園に入ってしばらくは,一日おきに鶏肉がチチのえさの中に含まれてはいたものの,パンダは,すべての動物は初め草食であったという聖書の主張を否定する『高等批評』に対する反証となります。パンダは肉を食べるごともありますがめったに食べません。高さが3-4.5㍍,稈(樹)の太さが4㌢ほどになる竹の一種のシナルンダリアがパンダの大好物です。シナルンダリアはまるで石のような硬さをしています。

このように,動物がどんな種類の歯を有しているかは,その動物が肉食であるか,草食であるかに依存しているのではなく,その動物がどんな種類の植物を食べるように意図されていたか,その植物はどれほど硬いか,また砕かれにくいかに依存しているものと思われます。

わたしがロンドンに行った当時は,チチは,共産圏以外の国で見ることのできる唯一のパンダでした。パンダの自然の生息区域は主に中国の四川省に限られています。チベットやその周辺の地域でもいくらか発見されています。パンダの全世界における生息区域は,大めに見積った場合でも長さがそれぞれ約800㌔の三辺に囲まれる一地域のみです。パンダはまた,高度1,500㍍から3,000㍍の地域の気温と,山の雪線添いに生える食物になる竹林を必要とします。

チチは15歳で死にましたから,捕獲されているパンダの予想寿命である17歳に非常に近かったことになります。しかし幸いなことに,中国,ソ連,北朝鮮以外の国のあらゆる年齢層の子どもたちのために新たに東京にパンダが送り届けられ,アメリカの首都ワシントンにも2頭のパンダがお目見えしました。東京のパンダの名前はカンカンとランランで,ワシントンのパンダの名前はリンリンとシンシンです。

生きたパンダを初めてつかまえる

最初の生きたパンダをどのようにしてつかまえたか,知りたいと思われますか。楊帝霖<クウエンタン ヤング>氏自身の説明に耳を傾けてみましょう。

「わたしはあるアメリカ人の未亡人に雇われ,彼女の亡夫が行なおうとしていた計画を仕遂げることになりました。実際,彼女の夫はその計画を遂行している最中に死んだのでした。その人はパンダを生きたままアメリカへ送りたいと願っていました。わたしたちは船に乗ったり,歩いたり,人力車やいすかごに乗ったりして,海岸沿いの都市上海<シャンハイ>から,約3,200㌔離れた承徳の先の森林地帯まで進みました。

「船に乗る必要があるのはなぜでしょうか。それは揚子江を上るためです。中国のゆっくり流れるその大河は,重慶に向かうわたしたちのルートでした。船がせわしく行きかってはいますが,揚子江の流れはとてもゆるやかです。河岸で人びとが雑談したり,犬がほえたり,ニワトリが鳴いたりときの声をあげたりするのが聞こえます。こうした情景の中を漢口まで進むのです。しかし,やがて河の容貌は変化します。両岸には断崖が高さ600㍍近くにもそびえています。この付近は有名な三峡と呼ばれる場所です。しかし,揚子江は非常に重要な交通路であるため,クーリー(人夫)の一団が竹でできた硬い綱を前のめりの姿勢で引っぱって,逆か巻く激流の中を(ジャンクと呼ばれる)小さな船を水位が30㍍ほど高くなる地点まで引き上げます。

「徒歩で進んだり,いすかごや人力車に乗ったりする必要があるのはなぜでしょうか。重慶で下船したわたしたちは,白熊<パイフスイウング>つまりパンダのいる場所からまだ何㌔も離れていました。重慶のあたりでは,地勢はヒマラヤの壮大な山脈に向かって高くなり始めています。

「大声をあげてついてきたえせ行商人や物見高い連中がわたしたちのまわりをうろつき回らなくなると,わたしたちは砂塵の渦に巻き込まれるようになりました。山賊も出没しました。わたしたちの荷物を運んでいたクーリーやポーターは,アヘンを手に入れるのに足る給料がもらえると姿を消してしまいました。道がなくなると,わたしたちはむちのように体にあたる樹木の枝と戦いました。雨が降ると,砂塵はぬかるみと化しました。わたしたちは四川省の壮大なシャクナゲの森の中をくぐり抜けて進みました。高度が上がるにつれて,気温は下がっていきました。

「幾多の思いがけない事態の伴ったその探険旅行の終わりに,パンダは驚くほど簡単に見つかりました。わたしたちは,パンダを1頭生けどりにするまではだれも銃を撃ってはならないと命じました。そして,わなが仕掛けられました。

「ハークネス夫人とわたしは,仕掛けたわなを調べ始めました。すると突然,銃声があたりの静けさを破ったのです。前方で聞こえる叫び声からして,パンダの姿を見て興奮した猟師たちが,銃を撃ってはいけないという命令を破ったことがわかりました。白熊<パイフスイング>! 白熊<パイフスイング>!,という叫び声の方向に男たちが駆けて行きました。わたしたちも走りましたが,傷ついたと思われるパンダを追いかける猟師たちのあとに従ったのではありません。

「猟師たちの叫び声が遠くの方に消え去っていくにつれて,わたしたちのまわりの森は静寂に包まれました。わたしたちは深い竹林から,大木の生えている地域に出ました。その時,わたしは何かの鳴き声を聞いたのです。それは,1本のうろのある木から聞こえてくる,赤ん坊の泣き声に似たかすかな音でした。

「わたしは両手をうろの中に入れ,スーリンを手のひらに載せるようにして引き出しました。『彼女』(当時わたしたちはスーリンを雌と考えていた)は,わずかに握りこぶし2つ分ぐらいの大きさでした。『このちっぽけなものは何だ。おもちゃじゃないか』と,わたしは考えました。そして,『わたしはほんとうのパンダ ― おとなのパンダをつかまえる仕事をしますから,あなたはこのパンダを家に連れて帰って,いっしょに遊びなさい』ぐらいの気持ちで,その小さなパンダをハークネス夫人にあげました。しかしハークネス夫人は,わたしには言いませんでしたが,自分が望んでいるのは子どものパンダだと数週間前から考えていました。非常に現実的な考えをめぐらした彼女は,子どものパンダのほうが運ぶのにずっと好都合であると判断したのです。わたしの手の中でもがいているこの小さな生き物が,世界じゅうの人びとの感情を引きつけるようになるとは,当時だれも考えていませんでした」。

そしてこの同じ人が,パンダに対するわたしの関心を2度も高めたのです。しかしわたしたちには,他にも共通の関心事がありました。それは,わたしが今台湾に住んでいる理由と関係があります。わたしはエホバの証人の宣教者です。楊帝<クウエンタン>氏とわたしは,彼が大きな敬意を払っている聖書について何度も話し合いました。彼の妻はエホバの証人と聖書を勉強していました。楊帝<クウエンタン>氏は,自分もいつか聖書を勉強するようになるかもしれないと考えていました。たまには,中国人の間で行なわれている宣べ伝える業について話すこともありましたが,たいていの場合は,人間の創造者であるエホバとのその人自身の個人的な関係について話しました。そしてある日,わたしは,彼に聖書を教える老師<ラオシュル>になる特権を得ました。

喜ばしいことに,かつてパンダ狩りをしていた楊帝霖<クウエンタン ヤング>氏は,今ではエホバに属する羊のような人びとを探がしています。

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