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目ざめよ! 1984
目84 7/22 16–18ページ

宗教改革 ― 亀裂の修復は可能か

マルティン・ルターの生まれた国ドイツは,今日政治的に分割されています。しかし,ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国は少なくとも一つの点,すなわちルター生誕500周年に当たる1983年を「ルター年」として祝う点では一致をみました。そこでまた持ち上がる疑問は,ルーテル派とカトリック教徒の間の亀裂は果たしてうまく修復できるかということです。

宗教改革のごく初期に,マルティン・ルターの追随者たちは,カトリック教会との破綻を避ける努力の一端として,カトリック教会の代表者たちと会いました。その会議は彼らの考えから出たものではなく,皇帝カール5世の強い要求によるものでした。カール5世はトルコ人の侵入を憂慮していたので,自分の帝国が宗教的に一致しているよう望んでいました。それで1530年,プロテスタントとカトリック教徒はドイツのアウグスブルクで会議を開きました。

プロテスタントは,アウグスブルクでその交渉が行なわれた時,カトリック教徒の感情を害さないような方法で自分たちの所信を表明した長文の文書を提出しました。この声明文はアウグスブルク信仰告白として知られていて,ルーテル派の教理にとっては今日に至るまで重要なものとなっています。その信仰告白では,三位一体の教理のような,ルーテル派とカトリック教徒との共通の信条が強調され,カトリックの位階制の乱用に関するプロテスタントの苦情はほとんど省かれていました。司祭の結婚や,聖餐式で人々がパンのみならずぶどう酒にもあずかることを許可するといった二,三の改革を要求しているにすぎない,とプロテスタント側は述べました。

しかし,カトリック教徒の皇帝とその顧問たちはアウグスブルク信仰告白を拒否したので,会議は不調に終わりました。

変化の時?

1980年,アウグスブルク信仰告白450周年記念の祝いの間に,ドイツで再びルーテル派とカトリック教徒との会議が行なわれました。その会議は,ドイツ連邦共和国を訪問中の法王と,ルーテル教会の7人の役員との間で行なわれました。交渉にあたるルーテル派側とカトリック側の人々は会議に先立ち,アウグスブルク信仰告白は,「大体において……共通の信仰の表現とみなすことができる」という内容の共同声明を出しました。450年にわたる宗教上の不一致は遂に是正可能になったのでしょうか。

ルーテル派の役員と会った時の法王の言葉には前途有望な響きがありました。「コンフェシオ・アウグスタナ[アウグスブルク信仰告白を表わすラテン語]を熟考してみて……我々は共通の信条と信仰告白とを有しているという自覚を新たにした」と法王は述べました。しかしアウグスブルク信仰告白を受け入れることは思いとどまりました。その代わりに,再統一の可能性を引き続き検討するための共同委員会が設けられました。世界教会運動を支持する人々にとって,その会議は期待はずれに終わりました。

「450周年は到来したが,一部の人が希望していたローマによるアウグスブルク信仰告白の容認は実現しなかった。観測気球は地に落ちてしまった」と,イエズス会のある学者は述べました。

前例のないことですが,法王ヨハネ・パウロ2世は昨年の12月,ローマにあるルーテル教会を訪問しました。しかしそれも,予見可能な将来における和解のきざしとはなりませんでした。法王は説教の中で,「我々は統一を切望する。我々はその統一に向かってまい進し,その途上に困難が山積していようとも我々は落胆しない」と述べました。

ルーテル教会の牧師であるマイヤー博士は,その困難の一つを示唆しました。法王が訪問したからといって,法王の権威を幾らかなりとも認めていることを暗示するものでは決してないと,数度にわたって述べたと伝えられています。

統一したところで何の役に立つか

もしかしたら読者も多くの人たちと同じように,クリスチャンと主張する人々の間の分裂を不快に思っておられるかもしれません。たとえルーテル派の信者やカトリック教徒ではなくても,この二つの教会が意見の相違を除き去れなかったことに失望しておられるかもしれません。結局のところ,聖書はすべてのクリスチャンに対して,『語るところを一致』させ,「同じ思い,また同じ考えでしっかりと結ばれていなさい」と励ましてはいないでしょうか。―コリント第一 1:10。

このことから極めて重要な質問が生まれます。つまり,クリスチャンはどんな基盤に立って結ばれているべきか,という質問です。カトリック教徒は,同教会の聖職者団の見解を受け入れることによって統一の実現を図るべきだと主張します。多数のプロテスタント宗派も同様の主張を行ないます。ただカトリックの信条をアウグスブルク信仰告白のような自分たちの宗教の信条に,カトリックの聖職者団を自教会のそれに置き替えているにすぎません。

人間の決定に基づいて統一を実施することも確かに可能ですが,もしそれらの不完全な人間が,基本的で肝要なキリスト教の信条に関して間違った考えを持っているなら,どんなことになるでしょうか。その種の統一が何になるでしょうか。それは神に喜ばれるものでしょうか。イエス・キリストが指摘されたように,神は人々が「霊と真理をもって」ご自分を崇拝することを望んでおられるのに,どうしてその種の統一が喜ばれるでしょうか。(ヨハネ 4:23,24)1世紀のパリサイ人たちは信条において一致していましたが,「人間の命令を教理として教えているから」彼らの崇拝はむだである,とイエスは言われました。―マタイ 15:9。

確かにクリスチャンは皆信条において一致していなければなりませんが,クリスチャンたちが信じていることは真理でもなければならないのです。さまざまな教会の統一を実現するために真理が失われるなら,余りにも高い代価を支払うことになります。真理はどこに見いだされるでしょうか。真理は宗教組織の信条の中ではなく,神の言葉の中に見いだされます。イエスはみ父への祈りの中でその点を確証し,「あなたのみ言葉は真理です」と言われました。(ヨハネ 17:17)使徒パウロはそのことをこのように言い表わしています。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正(す)……のに有益です」。(テモテ第二 3:16)クリスチャンにとって宗教上の真理の基準となり得るものは,神の言葉である聖書をおいてほかにありません。

真理とアウグスブルク信仰告白

アウグスブルク信仰告白は,聖書との比較にどの程度耐えられるでしょうか。これをクリスチャンの一致の基盤にすることができますか。その点を調べてみましょう。

三位一体の教理についてアウグスブルク信仰告白は,「父,子,そして聖霊」は「本質と力を同じくする三つの位格」であると述べています。しかし聖書は,み子なるイエスが,『父はわたしより偉大な方です』と告白されたとはっきり述べています。(ヨハネ 14:28)イエスはまた,「子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を行なえるにすぎません」と述べて,ご自分が天のみ父エホバ神に服従する者であることを示されました。―ヨハネ 5:19。

アウグスブルク信仰告白は幼児洗礼を奨励しますが,聖書によると弟子になれるほどの年齢の人だけがバプテスマを受けるべきです。―マタイ 28:19。ローマ 10:13,14。

アウグスブルク信仰告白はクリスチャンが「義戦に従事する」ことを許します。イエスは,「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう」と言われました。(ヨハネ 18:36)また,「剣を取る者は剣によって滅びる」と警告されました。―マタイ 26:52。

アウグスブルク信仰告白は地獄の火という非聖書的な教理を受け入れていて,「不敬虔な者たちと悪鬼たち」は有罪宣告を受け,「限りなく責め苦を受ける」と述べています。しかし聖書によると,「罪の報いは死」であって責め苦ではありません。(ローマ 6:23)事実,聖書は,死者を責め苦に遭わせることが不可能なことをはっきりと示しています。というのは『死んだ者には何の意識もない』からです。―伝道の書 9:5。

実際,アウグスブルク信仰告白は,教理上の事柄に関しては中世のローマ・カトリック教会の信条をほとんど受け入れています。しかし今日では,カトリック教徒とプロテスタントとを問わず,そういう信条が聖書中に見られないことを認める学者は少なくありません。そういう立場を取っていたので,アウグスブルク信仰告白は,16世紀のカトリック教徒にとってより好ましいものになったかもしれませんが,今日のクリスチャンの一致の基盤としては確かに当てにならないものになるでしょう。

宗教改革によって生じた溝は果たして埋められるでしょうか。さらに重要なこととして,その溝は埋めるべきでしょうか。もしカトリック教徒とプロテスタントが双方とも引き続き非聖書的な教理を信奉するとすれば,両者が相互の不一致を取り繕ってみたところでだれの益にもなりません。今日存在する真の溝は,キリスト教世界のすべての分派の成員と神の言葉聖書との間にある溝です。それは埋めることのできない溝です。両者は対立して妥協することがないからです。ですから啓示 18章4節は聖書を読むすべての人に対して,「わたしの民よ,……彼女から出なさい」と言っているのです。

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