ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目92 1/22 3–5ページ
  • 広まりゆく道徳の崩壊

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 広まりゆく道徳の崩壊
  • 目ざめよ! 1992
  • 関連する記事
  • 歌詞の中のわいせつ表現
    目ざめよ! 1991
  • 道徳はどうなってしまったのか
    目ざめよ! 1993
  • 価値観は低下しているか
    目ざめよ! 2003
  • 7 価値観
    目ざめよ! 2018
もっと見る
目ざめよ! 1992
目92 1/22 3–5ページ

広まりゆく道徳の崩壊

社会のあらゆる面を汚染する

現代社会は正しい価値観のない社会です。様々な生活様式によってばらばらになった社会です。多くの人はこんなふうに考えます。『どんな生き方をしても構わない。あなたがわたしの生き方を認めれば,わたしもあなたの生き方を認める。あなたの好きなことをしなさい。わたしも自分の好きなことをする。みんなが好きなように生きることだ。道はいろいろあり,どの道も正しい。間違った道などは存在しない。罪なんてものはもはやない。自分の権利を守れ。おとなしい抗議などだれも聞かない。暴力を使って気炎を揚げよ。暴力は,一種の言論の自由だ。セックスは,好きな者と好きなようにすればいい。わいせつは芸術だ。自分も好きなように生き,人も好きなように生きればいいのだ』。

それともこれは,『自分も好きなように死に,人も好きなように死ねばいい』ということでしょうか。20世紀に入ってかなりの間,人々は何が正しく何が間違いか,何が道徳で何が不道徳か,何が高潔で何が不潔かについて非常に明確な考えを持っていました。今でもそういう人は少なくありません。しかし他の人にとって,変化が始まったのは1950年代であり,以来それはエスカレートしています。美徳,道義,節操,倫理に関する観念はすべて,不合理で人情味のないもの,受け入れることのできないもののようにみなされ,個性重視の考え方が優勢になりました。各自が自分で決めた目標に沿って生きるという考えが強く打ち出されたわけです。その時から,寛容,多様性,個人的判断の回避といった道徳上の姿勢が受け入れられるようになりました。この新しい哲学では,禁止することが禁止されるのです。

この哲学が生む悲惨な結果は増え続け,1980年代には洪水のようなレベルに達しました。90年代に入っても,それは依然上昇しています。ここで,その悲惨な結果についての報告を二,三考えてみましょう。最初は,ニューヨーク市で開かれたビジネス倫理に関する会合の席で,ある団体の副会長が行なった価値観についての講演です。

「政治家は有権者をだまし,ブローカーは顧客を利用します。貯蓄貸付組合の幹部は自分たちの組合をつぶし,その穴埋めを納税者に負担させます。牧師や大統領候補は妻に隠れて浮気をします。子供たちは試験でカンニングをします。麻薬や犯罪の惨禍によって自分や他の人を破滅させる人が大勢います。……結婚の5割は離婚に終わっています。今では,新生児の22%が未婚の親から生まれてきます。子供たちの3分の1は,18歳になるまでに継父や継母と暮らすことになります。家族の崩壊が著しい規模で進んでいるのは明らかです。価値観の形成が家庭で,しかも幼いころに始まると仮定すれば,倫理が崩壊している原因は明白です」―「現代の重要演説」誌,1990年9月1日号。

毎日の新聞,雑誌,ニュース,映画,テレビ番組などには,伝統的な価値観の衰退がよく表われています。チェースマンハッタン社の社長は,シカゴ大学で行なった講演の中で次のように述べました。

「スポーツ欄であれ,ワシントンに関する記事であれ,経済面であれ,新聞のどこを最初にめくろうと証拠は同じです。スポーツ欄には最近の野球選手の八百長スキャンダル,新人獲得をめぐるルール違反で出場停止になった大学チーム,プロ選手の薬物使用などのニュースがあふれています。ワシントンからのニュースにしても,偽証をめぐる裁判,連邦裁判所の判事が起訴された事件,汚職,このほど下院の倫理委員会による調査を受けた議員などに関する記事ばかりです。経済面を見れば,インサイダー取り引きやそのたぐいの事件がすっぱ抜かれています」―「現代の重要演説」誌,1990年8月1日号。

こうした情報がいつもはんらんしているため,人々は無感覚になっています。もはやこうしたスキャンダルをスキャンダルとは思わなくなっているのです。先ほどの講演者はその点についてこう述べています。「多くのアメリカ人は,倫理にもとる事件を次々に耳にしても,もはや憤慨したりはしません。有罪判決を受けた極悪人も,もはや社会から追放されなくなりました。彼らは名士です。エリートたちのパーティーにも招かれます。本を書けばベストセラーにもなります」。

米国のウォール街で暗躍したアイバン・ボウスキーは,ビジネススクールの学生たちを前に講演した際,最後に両腕をVの字に上げて勝利を表わし,「強欲万歳!」と叫びました。後にこの人は強欲にかられてインサイダー取り引きに手を出し,裁判で有罪判決を受け,罰金を科され,刑務所に入れられました。罰金の額は1億㌦でしたが,それでも手元には5億㌦余り残っていました。もう一人,ウォール街を操っていたマイケル・ミルケンも,ジャンク債を取り引きしたかどで6億㌦の罰金を科されましたが,彼は1年でそれに匹敵する金額を稼いでいたため,15億㌦は残すことができました。

「週刊産業」誌は,「倫理を忘れて成功する?」という問いかけをテーマにした記事を掲載しました。米国ユタ州のあるコンサルタントは,企業倫理が悪化していると考え,「私がみるところ,成功しているビジネスマンほど,その行動は倫理にもとるようだ」と言いました。ミシガン州のある経営者も,「我々は倫理に関する方針を持っているが,中間管理層は,『これは倫理にもとるわけではない。賢いビジネスだ』と理屈を言ってルールを無視する」と言いました。マイアミのある社長も,「倫理はますます劣勢になっている。何が何でも利益第一だ」と言って嘆きました。もっとはっきり言うビジネスマンは,「何をやったっていいんだ」と言い,別の人はそれに加えて,「もしうまくやりおおせるのなら,やってしまえ,というのが我々の方針だ」と言いました。

道徳規準の低下を助長しているのはビジネスマンだけではありません。価値観をむしばむ病原菌は,社会のあらゆるところにまん延しています。法律を尊重しない,いかさま弁護士が非常に大勢います。政府の補助金目当てに不正や詐欺を働くところまで身を落とす科学者が非常に大勢います。患者よりも高い料金のほうに関心があるとうわさされる医師が非常に大勢います。その一方では,医療過誤の訴訟を起こす機会を虎視たんたんとねらっている患者も非常に大勢います。

ある地域の住民は,麻薬や犯罪やギャングの抗争などの影響におびえています。不倫が家庭を破壊しています。幼児でさえ,小児ポルノを含む性的虐待の犠牲者になっています。十代の若者の性行動は,妊娠,中絶,赤ちゃんの遺棄などの問題を引き起こしています。麻薬の売人は校庭にも入り込んでいます。学校の子供たちはナイフやピストルを持っています。読解力も低下の一途をたどっています。これを正すための最も良い教育は,親が子供に本を読んでやることですが,生活に追われて忙しすぎる親や,自分の人生を謳歌することにかまけすぎている親が大勢います。

音楽業界も道徳の崩壊を助長しています。その点で特に著しいのは,一部の奇抜なヘビーメタルのロックバンドです。ある企業の顧問はこう述べています。「ロック音楽は,したい放題の気ままな性行為という考えを歌い上げて広めたり,薬物の違法使用をほめそやしたりするためのこの上ない媒体になりました。ロック音楽はまた,麻薬づけのふしだらな生き方に反対する親や古い世代,社会慣習などに対する侮べつを生み出す強い原動力だったのです」。

そのねらいの一つは,無作法で粗暴で低俗で忌まわしい卑語を連発する歌詞で人の気分を害し,ショックを与え,注意を引きつけることにあります。そうした歌詞には,凶暴な女性虐待が一杯に盛り込まれています。口腔交接や肛門交接をいろいろな形で表現し,性的な虐待を奨励し,女性性器が裂けるほど乱暴な強姦をさも満足そうに描くなど,甚だしいわいせつを美化する風潮はとどまるところを知りません。あるバンドがわいせつ罪の容疑で裁判にかけられた時,デューク大学の教授はそのメンバーを真の天才と呼んで持ち上げ,その忌まわしいわいせつ表現を弁護して,それには芸術的な価値があると言いました。陪審もそれに同意し,その歌詞はわいせつではなく芸術であると結論しました。

社会の価値観の崩壊を物語る同じような証拠として,昨年,異様なわいせつ表現を盛り込んだラップ・アルバムの極みとも言うべきアルバムが『発売後3週間で猛烈な売り上げ(100万枚以上)を記録し,ナンバーワンの座についた』という事実を挙げることができます。『つまりこれは,そのアルバムが現在の音楽業界で最も人気が高いことを意味する』のです。こうしたロックグループが選んだバンド名は歌詞にぴったりです。「男性の生殖器にちなんだ名前のバンドは少なくとも13組あり,女性の生殖器にちなんだ名前は6,精液にちなんだ名前は4,中絶にちなんだ名前は8,そして膣の感染症にちなんだ名前が一つある」― US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌。

ボストン大学の教授はメイプルソープの展覧会についてこのように評しました。「私はそれをボストンの現代美術協会で見ました。ほかの場所と同じようにそこでも,言わばジャンル別に作品がまとめられていました。“ハードコア”の写真は……これ以上は考えられないほどポルノ色の濃いもので,どぎまぎしました。それが“ホモ-エロティック”かどうかは分かりませんが,私ならとてもできそうにない,まして楽しむことなど絶対にできないような行為を写した写真でした」。展覧会のわいせつ性をめぐる問題は裁判に持ち込まれ,陪審はそのわいせつ表現を芸術と判断しました。しかし,とても芸術と言えるものではありません。確かに道義的責任の感じられない態度です。芸術家や鑑賞者の側が正しい価値観をますますむしばんでいるのは明らかです。

わたしたちには境界線が必要です。安定させる指針が必要です。努力目標となる理想が必要です。正しい価値観の根源に立ち返ることが必要なのです。

[4ページの拡大文]

人々は,もはやスキャンダルをスキャンダルとは思わなくなっている

[5ページの拡大文]

陪審は甚だしいわいせつ表現を芸術とみなす

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする