カトリック教会と進化論
イタリアの「目ざめよ!」通信員
時は1882年4月26日,ロンドンのウェストミンスター寺院でチャールズ・ダーウィンの葬儀が行なわれました。一部の人々にとって,進化論の自然選択説で“神を退位させた”として非難された人物を埋葬するには,教会はこの上なく不相応な場所だと思えるかもしれません。ところが,ダーウィンの墓は1世紀以上もそこにあるのです。
1859年にダーウィンの「種の起原」(Origin of Species)が発行された後,進化論に対する神学者たちの態度は徐々に変化しました。神学者カルロ・モラリは,「公然の戦闘状態」という局面が今世紀の初めに「停戦状態」に変わったいきさつについて書き,1900年代の半ばには「休戦状態」が生じ,最後に今日の「平和」が訪れた,と述べました。
ダーウィン以前
もちろん,進化という考え方はダーウィンが案出したものではありません。古代の哲学者たちは,生物がある形態から別の形態に変化するという理論を立てていました。現代の最初の進化論者の主張の起源は18世紀の幾人かの博物学者にまでさかのぼることができます。
18世紀と19世紀には多くの学者が様々の進化論的な学説を唱道しましたが,“進化”という言葉はめったに登場しませんでした。ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィン(1731-1802年)は自著の一つの中で幾つかの進化論的な考え方を公表したため,その著書はカトリック教会の禁書目録に載せられました。
「公然の戦闘状態」が生じた理由
当時の世の中には,ダーウィンの理論を僧職者の権力を弱めるかっこうな道具とみなす人たちがいました。そのようなわけで,激烈な戦いが起きました。1860年にドイツの司教たちはこう主張しました。「我々の先祖は直接神により創造されたのである。ゆえに,人間は人体に関する限り自然発生的な変化によって不完全な原始的状態から生じたものであるとあえて力説する者の見解は,完全に聖書と信仰に反している,と我々は断言する」。
同様に1877年5月には教皇ピウス9世が,フランス人の医師で,進化論に反対して創造に関する創世記の記述を支持した出版物の著者であるコンスタンティン・ジャームを称賛しました。戦いの第一段階は,教皇庁聖書研究委員会が1905年から1909年にかけて発表した一連の書簡をもって最高潮に達しました。その一つの書簡の中で同委員会は,創世記の冒頭の三つの章は史実に基づいており,“現実の歴史”として理解されるべきものであると述べました。
「停戦状態」と「休戦状態」
ところが,学会でダーウィンの理論の威信が高まるにつれ,フランスのイエズス会士テヤール・ド・シャルダンなどのカトリックの神学者は進化論に改宗するようになりました。テヤールの考え方は正統派進化論者の考え方とは異なっていますが,1921年以後,彼は,「生物学的進化論は……その真実性が一層確かなものになった」と考えました。カトリック教の信仰と進化論との和解を目指す風潮は一層顕著なものになりました。
1948年に別のイエズス会士はこう述べました。「正統的信仰に関してはどんな疑惑もかけられるようなことのない神学者で,もし一定の限界を設けるなら[進化論とカトリック教の信仰との]和解は可能であると言明する人の数は,20年以上の間に著しく増えた」。同じころ,教皇庁聖書研究委員会は,1909年に創造に関する創世記の記述を支持して書いた事柄の多くの点を撤回しました。
次いで1950年にピウス12世の回勅,「ヒューマニ・ゲネリス」(Humani generis)は,カトリックの学者たちは進化論を妥当な仮説とみなせるかもしれないと述べました。とはいえ,同教皇は,「カトリック教の信仰からすれば,魂は神により直接創造されたものとみなさざるを得ない」と述べました。
いわゆる平和がもたらされたのはなぜか
カルロ・モラリは,多少の例外はあるものの,第二バチカン公会議以来,「進化論に関する懸念は確かに克服されてきた」と述べています。意義深いことに,法王ヨハネ・パウロ2世は1996年10月にこう言明しました。「[ピウス12世]の回勅が出されて以来,ほぼ半世紀たった後の今日,我々は新たな知識に基づいて,進化論が仮説以上のものであることを認めるようになっている。この理論が研究者たちによって次第に受け入れられてきたのは実に目覚ましいことである」。
歴史家のルシオ・ビレリは同法王の声明を「紛れもない承認」とみなしました。イタリアの保守系のイル・ジオルナーレ紙は,「法王によれば,人間の先祖は猿かもしれない」という見出しの記事を掲げました。タイム誌は,結局,法王の承認は「教会が進化を受け入れたことの表われである」と述べました。
カトリックの指導者たちはどうして,いわゆる「多少なりとも進化論を容認するこうした態度」を取ってきたのでしょうか。ローマ・カトリック教会はなぜ進化論の教えとの和解を図ってきたのでしょうか。
聖書を「神の言葉」ではなく,「人間の言葉」とみなすカトリックの神学者が少なくないことは明らかです。(テサロニケ第一 2:13。テモテ第二 3:16,17)カトリック教会は神のみ子イエス・キリストの言葉よりも現代の進化論者の言葉を重要視していますが,イエスは,「あなた方は読まなかったのですか。人を創造された方は,これを初めから男性と女性に造(られたのです)」と言って,創造に関する創世記の記述が正確なものであることを裏付けられました。(マタイ 19:4)あなたはだれの見解がいっそう重視するに値すると考えておられますか。
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エホバの証人と進化論
エホバの証人は,神が最初の人間夫婦を直接創造し,『これを男性と女性に造られた』というキリストの教えを一貫して擁護してきました。(マタイ 19:4。創世記 1:27; 2:24)1886年発行の「千年期黎明」(後に「聖書研究」と呼ばれた)の第1巻(英文)でダーウィン説は「暴論」として言及されており,1898年の「聖書対進化論」(英文)という小冊子は創造に関する聖書の記述を擁護しました。「新しい創造物」(1904年[英文])や「創造」(1927年[英文]),および「ものみの塔」誌や「黄金時代」誌の初期の記事の中でも,創造に関する聖書の記述は擁護されていました。
1950年にピウス12世が回勅,「ヒューマニ・ゲネリス」を発表した時,エホバの証人は「進化論対新しい世」(英文)という小冊子を発行していました。この小冊子は創造に関する聖書の記述の裏付けとなる科学的,また歴史的証拠を掲げており,「進化論と聖書との協調」を図ろうとする一部の僧職者の考え方を非としています。また,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」(1968年)という本も,創造に関する聖書の記述を支持しています。1985年に発行された,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本や,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌に掲載された様々な記事も同様です。
ですから,「わたしたちを造ったのは神であって,わたしたち自身ではない」ことを示す圧倒的な証拠に通じるよう,エホバの証人に助けられてきた人は少なくありません。―詩編 100:3。