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目ざめよ! 1998
目98 7/8 10–14ページ

エホバの証人 ― ナチによる危機に直面しても勇気を示す

ドイツの「目ざめよ!」通信員

エホバの証人は,神の言葉である聖書にしっかりと付き従うことで有名です。そうするにはしばしば勇気が必要ですし,そうすることは自分の生活や他の人との関係に確かに影響を及ぼします。

例えば,証人たちはどんな民族的背景や文化的背景を持つ人に対しても深い敬意を抱いています。そして,神と隣人を愛しています。(マタイ 22:35-40)実際,「わたしは,神が不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられるのだということがはっきり分かります」と言明した使徒ペテロの言葉に全く同意しています。―使徒 10:34,35。

エホバの証人はまた,法や秩序,および政府の権威者に対して敬意を抱いていることでも世界的に知られています。証人たちは反乱の温床になったことはありませんし,またこれからもそうなることはありません。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と述べた使徒たちと同じ立場を取ったために,ある国で迫害されるような場合でも,それは同じです。(使徒 5:29。マタイ 24:9)同時に,証人たちは,自分の良心の命じるところに従って崇拝を行なう他の人の権利をも認めています。

アドルフ・ヒトラーの支配したドイツその他の国々のエホバの証人が示したクリスチャンとしての勇敢な立場は,記録に載っている事柄です。1933年にドイツのベルリンで起きた注目すべき出来事は,証人たちの勇気,神と隣人に対する愛,そして法や秩序および信教の自由に対する敬意を示すよい例です。

ヒトラーとは決して妥協しない

人種差別主義や虐殺で特徴づけられた12年間のヒトラーの恐るべき統治が終わりを告げたのは50年余り前のことでした。ところが,ナチ政権が負わせた傷のために人々は今も心を痛めています。

ナチの恐怖政治に敢然と立ち向かい,その政治に正々堂々と反対意見を述べたのは少数のグループにすぎなかったことを歴史は認めています。そのようなグループの中で,エホバの証人のことは,「恐怖政治を敷く国家のまっただ中に浮かぶ孤島のように……衰えることのない[道義的]抵抗を示した」人たちとして述べられています。証人たちが勇敢な態度を取ったことは,立派な歴史家たちにより十分に実証されています。

しかし,以前はエホバの証人の仲間だったある人々を含め,少数の批評家たちは,初期の証人たちがヒトラー政権と妥協しようとしたとして非難しています。そして,ものみの塔協会の代表者たちは新政府のご機嫌を取ろうとしたがうまくゆかず,結局は600万ものユダヤ人の虐殺を招いた,ナチの人種差別主義思想を,少なくとも一時,支持したと主張しています。

そうした重大な主張は完全に間違っています。次に,入手できる証拠資料と歴史的背景に基づいて,問題の出来事を率直に検討してみましょう。

回顧する

ドイツのエホバの証人は100年余にわたって活動してきました。1933年には,約2万5,000人の証人たちがエホバ神を崇拝し,ドイツの至る所で聖書文書を配布していました。

エホバの証人は当時のドイツ憲法により種々の自由を付与されていたにもかかわらず,しばしば,おもに宗教上の反対者の引き起こした誹謗運動の標的にされました。早くも1921年に,当時,エルンステ・ビーベルフォルシェル(誠心聖書研究者)と呼ばれていた証人たちは,ユダヤ人と結託して破壊的な政治運動を行なっていると非難されました。聖書研究者たちは危険な共産主義者の“浅ましいユダヤ人”というレッテルをはられましたが,そうした非難の確かな証拠は提出されたためしがありませんでした。スイスの神学者カール・バルトは後日,「エホバの証人が共産主義者と結託しているという非難は,不本意の,もしくは故意の誤解による以外考えられない」と書いています。

ドイツのある教会誌は,証人たちとユダヤ人は革命運動の共謀者であると非難しました。それに答えて,ドイツ語の「黄金時代」誌(「目ざめよ!」誌の前身),1930年4月15日号はこう述べました。「この誣告を侮辱とみなすべき理由は一つもない。わたしたちはユダヤ人が少なくとも名目上のクリスチャンと同様,価値ある人であることを確信しているからである。しかし,教会のタブロイド版新聞の上記の虚偽は受け入れられない。それは,まるでわたしたちの業が福音のためではなく,ユダヤ人のためになされているかのように,この業をけなすことをねらったものだからである」。

ですから,歴史学の教授ジョン・ワイスはこう書いています。「証人たちは人種差別を伴うドイツの国家主義とは無縁であり,ユダヤ人の改宗に失敗したことを何世紀にもわたってくよくよ考えてはいなかった。証人たちは依然として,改宗可能な人々すべてを説得してキリストに付かせなければならないというキリスト教本来の,そしてもったいぶった信条を堅く守った」。

ヒトラーが政権を握った時,事態はどうなったか

1933年1月30日,ヒトラーはドイツの新首相に任命されました。最初,ヒトラー政権は凶暴で過激な性格を極力隠していました。ですから,1933年初頭,証人たちは他の何千万ものドイツ人と共に,国家社会主義党を当時の正当な統治機関とみなしました。証人たちは,平和を好み,法律を守るクリスチャンである自分たちの団体が,国家にとって決して破壊的脅威とはならないことを国家社会主義(ナチ)政府に分かってもらいたいと考えていました。これは決して聖書の原則を曲げるものではありませんでした。他の国々の場合がそうであったように,ドイツの証人たちも政治に関係しない自分たちの宗教の真の姿を政府に知らせたいと思っていました。

しかし,エホバの証人はナチの残忍な弾圧の最初の標的の一つにされようとしていることがたちまち明らかになりました。証人たちはまたもや,共産主義者とユダヤ人の謀議なるものの共犯者というレッテルをはられました。そして,組織的な迫害が始まりました。

どうしてこのような小さな教団が新政権の激しい怒りを買うようになったのでしょうか。歴史家ブライアン・ダンは三つの基本的な理由を明らかにしています。それは,(1)証人たちの国際的な規模の活動,(2)人種差別主義反対の立場,および(3)国家に対する中立の立場です。ドイツの証人たちは聖書に基づく自分たちの見方のゆえに,ヒトラーに敬礼することや国家社会主義党を支持すること,あるいは後日,軍事活動に参加することを拒みました。―出エジプト記 20:4,5。イザヤ 2:4。ヨハネ 17:16。

その結果,証人たちは脅迫,尋問,家宅捜索その他,警察官やSA(ヒトラーの突撃隊員,つまり茶シャツ党員)による嫌がらせを耐え忍びました。1933年4月24日,役人たちはドイツのマグデブルク市のものみの塔事務所を急襲して閉鎖しました。徹底的な捜索がなされたにもかかわらず,有罪を立証する証拠は何一つ見つからなかった上,米国務省から圧力を受けたため,警察は協会の資産を返還しました。しかし1933年5月には,ドイツの幾つかの州で証人たちの活動が禁止されていました。

証人たちは勇敢な行動を起こす

初期のこの当時,ヒトラーは慎重にキリスト教の擁護者という社会的イメージを作り上げてゆき,信教の自由を守ると公約し,キリスト教の諸宗派を「客観的公正さをもって」扱うことを約束しました。この新首相は自分のイメージアップを図るため,諸教会に姿を現わしました。色々な国の人々は後日,ドイツと戦うことになりましたが,当時はヒトラーの偉業を称賛していました。

緊張の高まるドイツ情勢を憂慮した,当時のものみの塔協会の会長ジョセフ・F・ラザフォードは,ドイツの支部事務所の責任者パウル・バルツェライトと共に,エホバの証人はドイツ国民や国家に何ら脅威を与える存在ではないことをヒトラー首相,政府当局者,および一般の人々に知らせる運動を開始することにしました。ラザフォードは,ヒトラーがエホバの証人に対する攻撃に気づいていない,もしくは証人たちに関して宗教分子から誤った事柄を伝えられていると考えていたようです。

そこで,マグデブルクの事務所はドイツ市民の請願権を活用するため大会を開く手はずを整えました。ドイツ全土のエホバの証人は1933年6月25日にベルリンのウィルメルスドルファー・テニスホールに集まるよう急きょ要請されました。出席者は5,000人程度と予想されましたが,敵意に満ちた雰囲気が広がっていたにもかかわらず,勇敢にも7,000人余りの人が出席しました。出席者たちは,「事実に関する宣言」と題する決議を採択しました。この決議文は証人たちの業に加えられた種々の制限に抗議したもので,証人たちの立場について明確に述べ,扇動的な政治運動との結び付きがあるとする非難をすべて否定しました。その決議文は次のように述べています。

「私たちは現政府の権威者たちの前で不当な非難を受けています。……私たちは,この決議文の中で述べられている諸事実を公正かつ公平な態度で考慮していただくよう,この国の支配者各位および国民の皆様に謹んでお願いいたします」。

「私たちは何人とも,あるいは宗教上のいかなる教師とも闘ってはおりませんが,実際に私たちを迫害し,政府の前で私たちのことを誤り伝えているのは,大抵,神とキリスト・イエスを代表すると唱えている人々であるという事実に注意を引かねばなりません」。

勇気を示した大会,それとも妥協した大会?

今日,ある人々は,1933年のベルリン大会と「事実に関する宣言」について,これは著名な証人たちが,ナチ政府と,ユダヤ人に対する同政府の憎しみを支持していることを表明しようとした試みであると考えています。しかし,そうした主張は事実と合致しておらず,誤報と事実の誤った解釈とに基づいています。

例えば,批評する人たちは,証人たちがウィルメルスドルファー・テニスホールをかぎ十字の旗で飾ったと言っています。1933年の大会の写真がはっきり示しているように,証人たちはかぎ十字章を同ホール内に全く掲げませんでした。目撃証人たちは,ホール内には旗は1本もなかった,と確信をこめて語っています。

しかし建物の外側に旗が掲げられていたということはあり得ます。大会前の6月21日,水曜日,ナチの実戦部隊が同ホールを使用していました。その後,大会の前日には,SS(親衛隊員,つまり元はヒトラーの黒シャツ護衛隊員),SA(突撃隊員)その他の人々と共に大勢の若い人たちが,近づいた夏至を祝いました。ですから,日曜日に大会会場に到着した証人たちを迎えたのは,かぎ十字の旗で飾られた建物の光景だったかもしれません。

たとえそのホールの外側や廊下,さらには内側さえかぎ十字の旗で飾られていたとしても,証人たちはそうした旗をそのままにしておいたことでしょう。今日でも,エホバの証人が集会や大会のために公共の施設を借りる場合,国家の象徴を取り外したりはしません。しかし証人たちが自ら旗を掲げる,あるいはそれに敬礼するということを示す証拠はありません。

さらに,批評する人たちは,証人たちが大会の開会に際してドイツ国歌を歌ったと述べています。事実,その大会は証人たちの宗教的な歌の本の「シオンの栄えある希望」という題の64番の歌で始められました。その歌詞はヨーゼフ・ハイドンが1797年に作った曲に合わせて作られたもので,64番の歌はいずれにしても1905年以来,聖書研究者の歌の本に載せられていました。1922年,ドイツ政府はハイドンのメロディーにホフマン・フォン・ファレルスレーベン作の歌詞をつけて国歌にしました。それでも,ドイツの聖書研究者たちは,ほかの国の聖書研究者たちと同様,依然として64番の歌を時々歌っていました。

シオンに関する歌を歌うのはナチを懐柔しようとする試みであるとは,まず解釈できないでしょう。反ユダヤ主義のナチから圧力を受けた他の諸教会は,「ユダ」,「エホバ」,「シオン」などのヘブライ語の言葉を賛美歌や祈祷式文から削除しましたが,エホバの証人はそうしませんでした。ですから大会組織者たちは,シオンをたたえる歌を歌って政府の支持を得ることなど決して期待しませんでした。また,ハイドン作曲のメロディーが国歌のそれと同じだったので,もしかすると中には,「シオンの栄えある希望」を歌う気になれない出席者がいたかもしれません。

決意を示した声明

政府は過渡期にある上,国情は騒然としていたので,証人たちは自分たちの立場についてはっきり述べたいと思いました。証人たちはその「宣言」によって,ユダヤ人と財政上の関係があるとか,政治上の結び付きがあるとかという非難を強く否定しました。ですから,その文書はこう述べています。

「私たちの敵は,私たちが自分たちの業に対する財政的支持をユダヤ人から受けてきたと偽って非難していますが,これほど真実からかけ離れた話はありません。私たちの業に対するごくわずかな金銭の寄付さえユダヤ人から受け取ったことは,現時点に至るまで一度もありません」。

金銭の問題に触れた後,「宣言」はさらに,大企業の不正な慣行を非難してこう述べています。「多くの国の人民を搾取し,虐げる手段として大企業を作り上げ,運営してきたのは,英米帝国の営利主義的な考えを持つユダヤ人です」。

この言葉が一般のユダヤ人を指しているのでないことは明らかですが,もしも誤解されて,何らかの不快な気持ちを抱かせる原因になってきたとすれば,それは残念なことです。当時,ドイツの教会は大抵,ユダヤ人に対して敵意を抱くよう教えていました。エホバの証人も同様の敵意を抱いていたと言う人もいますが,それは全くの偽りです。ナチ時代中,証人たちは自分たちの文書と行動によって反ユダヤ主義的な考えを退け,ユダヤ人に対するナチの虐待を非難しました。強制収容所で同じ状況に遭遇したユダヤ人を親切に扱ったことは,確かにそうした偽りの非難に対する完ぺきな反証となります。

「宣言」は,証人たちの務めが宗教的な性格のものであることを明確にし,こう述べています。「私たちの組織はどの点から言っても政治的なものではありません。私たちがあくまで求めているのは,エホバ神のみ言葉を人々に教えることだけです」。

さらにこの「宣言」は,政府自身が述べた約束を政府に思い起こさせました。証人たちは幾つかの崇高な理想を支持しましたが,たまたまドイツ政府もそれらの理想を公に擁護しました。それには家族にかかわる価値観や信教の自由が含まれていました。

この点に関して,「宣言」はこう付け加えています。「私たちの書籍や文書類を注意深く調べれば,現行の政府が抱き,広めている非常に崇高な理想が,私たちの出版物の中で明らかにされ,支持され,大いに強調されていること,またエホバ神は義を愛する人すべてによってそうした崇高な理想がやがて達成されるよう見届けてくださることが分かります」。

そのようなわけで,証人たちがナチ党に対する支持を表明したことは一度もありません。その上,信教の自由を行使するに当たって,公に宣べ伝える業をやめようとはしていませんでした。―マタイ 24:14; 28:19,20。

「エホバの証人の1975年の年鑑」の記録によれば,「宣言」の論調があまり明確ではないと考えてがっかりしたドイツ人の証人たちもいました。支部事務所の責任者パウル・バルツェライトがその文書の本文に手心を加えていたのでしょうか。そうではありませんでした。ドイツ語と英語の本文を比べてみると,そうではないことが分かります。その逆の印象は,その「宣言」の作成に直接関与しなかったある人々の主観的な意見に基づいていたようです。そうした人たちの結論には,バルツェライトがわずか2年後に棄教したことも影響を与えていたのかもしれません。

ドイツのエホバの証人の活動に対する禁令が出されたのは,ベルリン大会が開催されるまさに前日,つまり1933年6月24日,土曜日だったことが知られています。大会組織者たちや警察がその禁令について知ったのは数日後のことでした。緊張した雰囲気やナチ当局者に明らかに見られる敵意を考えると,ともかく大会が開かれたのは驚くべきことです。7,000人ほどの証人たちは自由を失う危険をも顧みず勇敢にその集まりに出席したといっても過言ではありません。

大会後,証人たちは「宣言」を210万枚配布しました。一部の証人たちは直ちに逮捕され,強制労働収容所に送られました。こうして,ナチ政府はその圧制的で凶暴な性格をすっかりあらわにし,ほどなくしてクリスチャンのこの小さな団体に対する総攻撃を開始しました。

クリスティーン・キング博士は,「非情な暴力をもってしても証人たちの活動は抑えられないということをナチは思い知らされることになった」と書いています。「宣言」の中で述べられている通りです。「エホバ神の権能は最高のものであって,エホバに首尾よく抵抗できる権力者は一人もいません」。a

[脚注]

a 誌面の関係で,史実に基づくこの記事の裏付け資料を全部提示することはできませんが,奉仕者の皆さんのお申し出があれば,参考文献をまとめた一覧表をお送りいたします。また,「ナチの猛攻撃に対して堅く立つエホバの証人」という記録もののビデオをご覧になるのも啓発的であることがお分かりになるでしょう。

[13ページの写真]

1933年にテニスホールで開かれた,エホバの証人の出席した大会の実際の写真

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