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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1956
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ヱホバの證者の近代歴史

その15 ファシスト ― ナチスの迫害下の海外の活動

ヱホバの証者の活動を国際的に眺めたとき,1934年頃には,どんな状態でしたか? ものみの塔協会の支部事務所は49ヵ国で運営されておりました。その業は,合衆国に集計された報告から判断すると,拡大され,発展していました。カトリック ― ファシスト派が欧州に勢力を得るにつれて,ヱホバの証者の上にも重圧が加わつてきたのです。イタリーにおいて,約50名のヱホバの証者は警官からのきびしい追跡をのがれて地下活動をなし,警官は文書をうけとつた人々をも逮捕しておりました。イタリヤの数名の伝道者はムッソリニーのファシスト政府により投獄されました。

スペインにおいては,1936年から1939年までのファシスト革命以前に,少数のヱホバの証者の業は非常によく栄えていました。実に,1936年の革命戦争の最中に,スペイン人の証者は10万5570冊の聖書文書の配布を報告しています。

ヒットラーがドイツを支配する前,協会の証言の業は目ざましい進歩をとげました。1919年から1933年にかけて,ドイツの兄弟は4800万冊の書籍と冊子及び7700万冊のドイツ語の『黄金時代』を人々の手に渡しました。1930年代に,協会は『万国証言期間』という8日間の運動をなし,この8日間は,全世界一齋に,準備された同じ証言を毎日用い,同じ出版物を配布して,証者は世界的な一致を示したのです。たとえば77ヵ国の5万8804名の伝道者は,1933年4月8日-16日まで『残れる者の祈禱』の活動を行いました。この期間中は,『危機』という冊子が配布されております。この特別期間中に,ドイツが1万9268名の伝道者を報告していることは,合衆国の2万719名と比較して大変興味あることでしよう。このように1933年には,これら二つの国は約同数の伝道者を有しておりました。しかしこの特別の週間中,ドイツは227万1630冊の文書を配布し,これは合衆国の87万7194冊の配布を超えており,ヒットラーが支配者となつた直後でも,ドイツ内で,どんなに熱心な伝道が行われていたかを如実に示しています。ヒットラーの時代前でも,カトリックからの激しい反対はありました。たとえば1931年から1932年までに,ドイツの証者を邪魔した合計2335の訴訟事件が報告されています。

ヒットラーが独裁者として1933年1月に登場してからは,迫害は,まことに暗雲の様相を呈してきました。1933年4月の初期,警官はドイツ・マグテベルクに在つた協会の新しい大工場とベテルの家を占拠し,印刷機に封印をし,反動の証拠物件を得ようとして,建物内をくまなく捜索しました。何らの疑いあるものは発見されなかつたので,4月28日協会はふたたびその建物の所有権を回復しました。これによつて,前記の4月8日から16日までの特別期間の報告の集計を完結し得たのです。この波乱多き時代の真只中に,判事ルサフォードはドイツ訪問を決定し,事実,1933年6月に実行しました。6月25日にベルリンでは7000名の証者が参集し,特別な大会を開き,満場一致のうち,『事実の宣言』という題の決議を通過させました。これは,協会の証言の業に対し,ヒットラー及びその政府からの高圧的な干渉に,強硬なる抗議を行つたものです。政府は3日後に早速報復手段をとり,協会の所有物を再び押え,占領し,政府の命によりその印刷工場を閉鎖してしまいました。マグテベルクにあつたベテルの180名は,二,三週間のうちに建物から強制立ち退きを命ぜられました。ヒットラーは次のようにのべています。

『これらの所謂,「最熱心な聖書研究者」「ヱホバの証者」は禍根をまくものである。彼らはドイツ内の調和ある生活をみだすものであつて,彼らはいかさま師のたぐひであると余は信ずる。また,ドイツ・カトリツクがこのアメリカ人の判事ルサフオードにより,このように汚されるのを許容することはできない。余はドイツからこの「最熱心な聖書研究者」を抹消する。また彼らの所有物を人々の福祉に供し,その文書全部を没収する』。―『事実を見よ』47頁-50頁。

アメリカのものみの塔聖書協会は1921年以来ドイツにおいても認められ,国際法によれば海外で財産を所有し運営することは許されておりましたが,ヒットラー政府がなした,この国際財産権利に対する目に余る違反は,継続されました。協会のブルックリン本部からの要請で,アメリカ合衆国,国務省はヒットラー政府に対して抗議文を提出しました。

協会のドイツ本部を閉鎖してから次に,ヒットラー政府は,全ドイツのヱホバの証者の会衆の集会を邪魔し始め,兄弟たちの集りを禁止する処置をとつたのです。このため,活動は1934年から地下で行われ,全体主義国家の命に従わない証者の投獄が開始されました。この不当なる迫害に対抗して,1934年10月7日,協会は全世界的な抗議運動を開始しました。政府の命令を無視して,ドイツの全会衆は10月7日の晩に参集し,ヱホバへの厳そかな祈りを捧げてから,ベルリンにあるヒットラー政府に対し,ヱホバの証者の地方会衆の署名づきの抗議の決議文が送られました。この同日同晩に,聖霊にむすばれた,50ヵ国にあつたヱホバの証者は,同様につどい,ヱホバへ祈りをささげてから,ヒットラー政府に宛てた抗議の電文を送りました。その文は次の通りのものです。『ヱホバの証者に対する貴殿の不法なる処置は,全地の善意の人々を驚かせ,神の名を汚がしている。ヱホバの証者に対してこれ以上迫害することを控えられよ。迫害を止めないならば,神は貴殿と貴殿の国家政党を滅ぼし去るであらう。』

目撃者の報告によると,この全世界的規模を持つた行動は,1934年10月7日ベルリンのライヒ内務省に少なからぬ衝動を与えました。当日ヒットラーみずから内務大臣フリック博士を訪れていたとき,これらの抗議電文が到着したのです。(ここに掲載してある)誓文によると,この電文をきいたヒットラーは,さつと立ち上り,ヒステリーのように拳をにぎりしめて,『この生意気な者共をドイツから根こそぎにして見せるぞ!』と叫んだと云われています。a このようにして,ドイツの国からヱホバの証者の姿を絶とうとする気狂いじみた全国運動が開始されました。やがて訪れた暗黒時代に,幾千もの証者は逮捕され,不当の有罪判定を下され,監獄や収容所に入れられて,言語に絶する苦痛をなめました。約2000名の証者は,ヱホバへの忠実を保つ戦を守つて,その生命をおとしたのです。しかし,1934年10月7日の電信,電報がよく警告してあつたように,神への挑戦者ヒットラーは,11年後の1945年にベルリンにおいて自殺をとげたと伝えられ,もはやこの世に生存しておりません。しかしながら,約8000名の証者は,悪鬼に劣らないヒットラーの極悪の拷問をうけても,収容所の中で生き残り,生ける神ヱホバの崇拝と伝道の業を継続しています。

イギリスでもまた神権福祉は拡大していました。1930年の初期の頃,聖書文書の配布とか,その数量についても,野外伝道の組織はすでに着実な歩みを見せていました。1931年までに365の会衆は設立され,4000名の規則正しい働き人のうち196名は開拓者で,それらの伝道者は150万から200万冊の書籍や冊子を配布しています。しかしながら,覚醒への特別の呼びかけが発せられて,イギリスにいる,ヱホバの御国宣明者たちは,懸命の努力と生長のために,更に励まされました。翌年,1938年の報告によると,5000名が野外奉仕にたずさわり,430万8710冊の文書が配布されています。1939年は618万5937の書籍及び冊子と6861名という奉仕者へと驚嘆すべき飛躍をとげました。この伝道者のうち,511名は開拓者です。この進歩は更につづいて,1940年には,9860名の伝道者により620万282冊の聖書出版物が配布されました。しかも,この年には,実に1037名という多くの数の開拓者が働いています。全体戦争の状態にもかかわらず,増加はなおも続いて,1942年に毎月の奉仕に携わつたものは1万2436名にのぼり,うち1488名は全時間奉仕者です。イギリスの証者は統一のとれた強固な制度となり,霊的にも少しも遅れず,戦争中の長い暗黒時代の試煉を充分耐える程になつていました。

しかしイギリスの活動も迫害のうちに推進されました。世界の他の国々のように,カトリックからの迫害を経験しましたが,その激しさは他とは比べものにならない程の激しさでした。数回に亘るカトリックーファシストからの攻撃は,1938年と1939年に,ロンドン,グラスゴウ,クリデバンク,オルデハム,ニューブリッヂ,チーネのヘブルン,フォルケストン,キャンバーレイ,レイセスター,ダウンデー,エボウ・バアーン及びノースウイッヒの各地でありました。あるときには,牧師の導く暴民は証者を攻撃し,あるときには集会をも邪魔しました。1940年には71件の攻撃事件が報ぜられております。1938年10月14日のロンドンの『カトリック・ヘラールド』は証者と判事ルサフォードに誹謗的な攻撃を加え,証者の活動は反政府的であるとの偽りの非難を浴びせました。しかし,『カトリック・ヘラールド』は,11月25日号の第1頁に,先の声明撤回を余儀なく発表し,その面目を失いました。

1938年,9月10日11日,ロンドンは,ものみの塔協会最初の多都市大会の中心都市として注目を集めていました。ヱホバの証者の50の大会は,イギリス,スコットランド,アイルランド,カナダ,アメリカ合衆国,オーストラリヤで同時に開催されました。50の都市全部はラジオ電話の設備により,連絡されていました。ロンドンのローヤル・アルバァート・ホールから判事ルサフォードによつて話された,二つの主要なる話は,イギリスの島々の都市や海外の都市の聴衆により,明瞭にきくことができました。土曜日の1時間の話は,『地にみてよ』の題についての心打つものでした。日曜日(9月11日)の公開講演のとき,50の都市にあつた15万名はルサフォードの声そのままをききました。『事実を見よ』という演題の心躍る話で,カトリックファシストの世界征服競争の接近について民主主義国家の人々を警告しました。それは,じつに特筆すべき大会です。12ヵ月のち,世界第二次大戦が開始され,ナチスとファシストは,予言されていたとおりに,世界征覇に全力を傾注しはじめました。

『事実を見よ』の公開講演のときには,サンドウィッチ式の看板が大会都市において大規模に使用されました。のちに小さい公共の集会所で色々の講演がレコードにより人々に聞かせる場合には,一列に並んだ伝道者たちが宣伝の看板を肩にかけて,通行ひんぱんな道路をねり歩き,集会宣伝のビラをくばりました。人々の目を見はらしたこの街頭伝道は『宣伝行進』として知られています。このようにして,『事実を見よ』の講演をおさめた冊子は,1200万冊も全世界で配布されています。まこと,力強い大戦前の証言運動です。(つづく)

[脚注]

a ここに,カール・アール・エー・ウィチィグにより1947年11月12日,署名された誓文の全文をかかげます。彼は1934年には,ドイツの政府側の役人で,フリック博士がヱホバの証者の抗議電文をヒットラーの許にもつてきたとき,その場に居合せていた。誓文は次の通りです。

『声明 ― 前に呼び出しをうけていたので,1934年10月7日,私はベルリン内のライヒの事務所にウイルヘルム・フリックを訪問した。彼はライヒとプロシヤの内務大臣であり,私はルーデンドルフの全権大使であつた。ルーデンドルフのナチ軍に対する反対を思いとどまらせる内容をもつ郵便物を私はうけとる筈であつた。私がフリック博士と話をかわしていたとき,ヒットラーは突然にあらわれて,私たちの会話に加わつた。私たちの話題がやむなく,ドイツの万国聖書研究団(ヱホバの証者)に対する今までの処置に移つて行つたとき,フイリック博士はヒットラーに数々の電文を示した。それは聖書研究者に対するライヒからの第3回目の迫害を責めた抗議文であつた。博士は,『もし聖書研究者がただちに従わないならば,我らは最強硬の策を用いて対抗する』と語つた。その後,ヒットラーはさつと立ち上り,拳をにぎりしめて,『この生意気な者共をドイツから根こそぎにして見せるぞ!』とヒステリックに呼んだ。後,私も,サチュセエンハウセン,フロセンバーク,マウサウセンにあるナチの地獄のような収容所に7ケ年も監禁され,連合軍がきて解放するまで監獄にいた。ヒットラー,フリックとの会話から4年後に,ヒットラーのあの時の怒りの爆発は決して単なる空おどかしではなかつたことを,私の直接の観察から悟ることがきた。前記の収容所で,聖書研究者ほどに,ナチス親衛隊からむごい扱いをうけた群はない。この世の如何なる言語でもつてしても表現できないような,心身への拷問の連続で,残虐そのものであつた。

1947年11月12日

カール・アール・エー・ウィチィグ(署名)

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