ヱホバの證者の近代歴史
その21 神権宣教の教育すすむ
予言者エレミヤは今日のヱホバの証者の残れる者を予影しておりましたが,彼はこう予言しました。『見よ,私はきよう,あなたを万民の上と,万国の上に立て,あなたに,あるいは抜き,あるいはこわし,あるいは滅ぼし,あるいは倒し,あるいは建て,あるいは植えさせる。』(エレミヤ 1:20,新口)背教のキリスト教国をばくろする烈しい審判の業はすすんでいましたが,1942年はその転換の年となつています。
1941年8月6-10日までのセント・ルイスの大会で,ジェー・エフ・ルサフォードは尨大な聴衆11万5000名に講演をしました。この聴衆数は彼のいままでの講演のうちの最大のものです。この席上新しい本『子供』が公やけにされ,誰が全宇宙の統治権を持つているかが明らかにされました。この頃ものみの塔協会会長の健康もとみに衰退しておりました。ついに1942年1月8日ヂェー・エフ・ルサフォードは死亡しました。彼の協会の会長としての長い25年と2日の奉仕の幕が閉ぢられたのです。『忠実な証者』という題で『ものみの塔』にのせられた記事からの要点を次にかかげましよう。
『神権政治を待ち望む凡ての人々へ,1942年1月8日,我らの愛する兄弟,ジェー・エフ・ルサフォードは,神権政府の勇敢な戦士として,また神の御言葉の奉仕者としての地上の生涯を忠実に了えた。1940年7月のデトロイトの大会以前から重態になつていたルサフォード兄弟について,あなたたちは深く心配して,神に祈つてきたが,彼の死亡をここに発表する。ルサフォード兄弟は死の直前まで働くことを切望していたが,実際その通りに実行した。幸いにも主は彼を生きながらへさせて,1942年の『ヱホバの証者の年鑑』を完結させたが,その報告によるとかつてない最大の証言が達成されたことが判明している。この年の書籍及び冊子の配布は総合計,3603万595冊に達している。ルサフォード兄弟がいつも心がけていたことは,ヱホバの名と彼の御国を宣明すること,ヱホバとの契約を守ること,兄弟の福祉を計ることだけであつた。』
このようにして,少しも妥協しなかつた正義の戦士の宣教の生涯は終りをつげました。ルサフォード兄弟は新しい世の神権社会の建設を目ざして,熱心に,一生懸命に,無私の奉仕を捧げました。今日なおルサフォードは何万人の人々の記憶のうちに生きております。
彼の死亡後,協会の第3番目の会長による新しい管理はただちに始まりました。この度は円滑に何らの摩擦はありませんでした。協会の最初の会長,シー・チー・ラッセルが1916年に死亡したときには,第2回目の会長ジェー・エフ・ルサフォードが選出されるまで約10週間の空席が生じましたが,今回はそれと全く趣を異にしています。1942年2月15日の『ものみの塔』は『統合された僕』という題のもと,協会法人の役員変更を発表しました。
『1942年1月13日の午後,理事の全員はブルックリン・ベテルの家の一間に会合しました。ナタン・エッチ・ノアはその前回のピッスバークの総選挙で副会長として選出されていましたが,この会合の数日前に,祈りと熟慮によつて神からの叡智を仰ぎ,正しい選択ができるようにと,理事たちに要請しております。理事たちはこのことをなしました。総会は祈りでもつて開かれ,この制度の合法の僕の選択にあたつてヱホバの御意は何であるかにつき,その導きを願う祈りが捧げられました。注意深い考慮が払れたのちに,二つの法人団体につき,次の兄弟たちが各々の僕に指命され,選出されました。a すなわちナタン・エッチ・ノアは会長に,ハイデン・シー・カブイントンは副会長になりました。同日にブルックリン・ベテルの家族の集りで,選挙の結果が理事会の書記により発表されましたが,さかんな拍手のうちにうけ入れられました。』b
世界の各地から,協会の新しい会長にノア兄弟が選ばれたことを喜びに表わした手紙や電報が送られてきました。
1942年の第二次世界大戦の暗黒時代にも,神権の宣教制度内に『建て』そして『植える』業が小規模ながら行われておりました。このようにして,『ベウラ』の地の新しい世の社会が楽園の美を咲き誇り,かつてない繁栄を楽むようになりました。1942年9月18-20日までのオハヨー州,クリブアランドの新世神権大会で初めて,協会の新会長ナタン・ホーマー,ノアがヱホバの証者に紹介されました。このクリブアランドが中心会場となつてその他51の都市でこの特別な講演をききました。このときの公開講演の題は『平和 ― 永続のもの?』でノア会長により話され,合計の聴衆は12万9699名でした。アメリカ合衆国以外の33の都市でも同時に大会を開いています。この意義のある大会で『前進』の信号が上げられ,また黙示録 17章の8-18節から,国際連盟は大戦後に再起して,そののちのある期間は平和となり,伝道活動は非常に促進されるであろうということが明白にされました。新しい書籍の『新しい世』と協会の印刷する欽定訳の聖書(10番)とが発表され,新しい教育運動が開始されました。
協会の第3番目の会長の簡単な経歴は次の通りです。ナタン,ホーマー,ノアはペンシルベニア州のベテレヘムに1905年アメリカ人の両親から生れました。1923年6月,彼はアレンタウン(ペンシルベニア)の高等学校を卒業しました。16才で改革教会の会員をやめ,ヱホバの証者のアレンタウン会衆と交るようになりました。1923年,彼が18才のとき全時間伝道者となり,同年,ブルックリンにある協会本部のベテルへ招待されています。そこで宣教訓練上の目ざましい進歩をとげ,のちには,ブルックリンから200哩以内にある会衆へ週末に聖書講演をするため出かけました。やがて協会の工場の印刷の仕事を管理するようになり,1932年には印刷事務をとり,工場の総監督になりました。1934年,協会のニューヨークの法人団体(現在のものみの塔聖書冊子協会,法人)の理事の一員に選出され,1940年には,ペンシルベニアの法人,ものみの塔の聖書冊子協会の副会長として,またその理事として選挙されました。ノア兄弟がアメリカ及びイギリスの協会,即ち万国聖書研究会の会長に選出されたのは,1942年1月のことです。1943年2月には,新しく設けられたニューヨーク,サウスランシングのギレアデ聖書学校の校長となつています。またノア兄弟はブリックリンのダブリュービー・ビー・アールの放送局の活動を指示し,全世界を旅行し,全地の協会の事務管理を統轄しています。協会が国際大会をひらくときにノア兄弟は協会の講演者となります。また会長は協会の大規模な編輯事務を指導し,証者の海外における宣教の業を指示します。ノア兄弟は,妻と共にコロンビア,ハイト124番地のブルックリン・ベテルに住んでいます。
協会の奉仕者全部に宣教訓練をすることは当時切望されておりましたから,協会の新会長は新しい管理の役員たちと共に,長期間に亘る神権教育計画を実行に移しました。(エペソ 4:12,新世)1942年の2月6日,月曜日,計画の一部は発表されました。その月曜日の晩にベテルで学校は開かれ,『神権宣教の高等教育』が始められました。協会本部の兄弟だけがその研究生となります。学校は一週に一度,月曜日の晩ひらかれます。初めには全員一堂に会して講話が話されます。ベテルの姉妹も一緒に出席します。次に少しの休みがあつて,そのあいだに,五,六の教室へと兄弟たちは分散します。次に聖書の課題についての研究生の話があつて,すでに訓練をうけている教訓者は助言を与えます。このベテルの学校でつづけられる神権学校の計画により,話し方とかその他聖書についての研究が絶えずなされています。兄弟たちが公開の席上,筋書だけで話すとき,学校からの最新の注意を採り入れて行つた為,その進歩は,はつきりと目に見えてきました。またベテル家族の兄弟も,姉妹も,家から家の伝道で目ざましい進歩を示してきました。このようにして,この新計画へのヱホバの祝福は明白に示されました。ベテルの学校はいまに至るまで13年間以上も運営され,幾百の若い奉仕者を援助して,聖書知識や話す能力を改善させてきました。
ベテルの学校がこのような成功をおさめたため,協会は新しい教育計画の次の段階にのり出しました。それは外国宣教者と外国宣教の代表者を訓練するため高等教育を与える宣教学校の設立でした。ブリックリン・ベテルにある協会の建物は,このような目的をもつ教育機関を設置するには不適当です。しかしながら,幸いにも,1935年以来,協会は800エーカ余の大農場を所有していました。それは御国農場と呼ばれ,ここで生産された食糧は主としてブルックリン・ベテルの家族に供給されています。(1955年には約50名の農場に働く兄弟が自発的にいつも働き,この大きな農場を運営しています)この御国農場はニューヨーク市の北西約255マイル,ニューヨーク州のフインガー湖の近くの風光明媚の地にあり,コーネル大学で有名なイサアカア市からも遠くありません。幾年かを経るにつれて,この地に幾つかの建物が建設され,そのうちでも大きな煉瓦作りの本館は1941年に完成されました。その名前は『ギレアデ』と呼ばれますが,その意味は『証しの塚』という意味です。このギレアデの土地は聖書学校の設立に理想の土地であり,理事たちも1942年9月,これに賛同しました。直ちにベテルの円熟した4名の兄弟たちは教訓者として選ばれ,教育課程を決め,講義を作成し,適当な教科書を探し,また聖書の参照に用いるために800冊を蔵する小さい図書室を作るなどの準備に早速とりかかりました。このようにして,単科大学と同程度の課程が作成されました。また教室,講堂,食堂,寝室を設けるために,建物も改造されました。約100名の学生が5ヶ月間ここで学ぶとき,そのための住居とか食糧は全部準備されています。(つづく)
[脚注]
a 1945年9月24日,エッチ・シー・カブイントンは,ペンシルベニアのものみの塔聖書冊子協会の理事とし,また副会長として,奉仕することを自ら辞退しました。その理由は責任を回避するのではなく,理事と役員には油そそがれた者がなる方が主の御意に沿うのではないかと考えられたからです。カブイントン兄弟の希望は,『他の羊』と同じく地的希望を抱いておりましたから,御意に沿うとして,みずから辞したのです。エフ・ダブリユー・フランズはこの代りに副会長として選ばれました。カブイントン兄弟は協会の法律部の顧問として奉仕しつづけ,崇拝の自由の戦士としての協会の戦に適切な指導を与え,宣教のための自由の門を開けつづけました。エッチ・シー・カブインントンは1911年テキサス州ホプキンス郡に生れ,サン・アントニオの弁護士協会の法律学校に出席し,1934年にはヱホバの証者の一人として伝道を始めています。エフ・ダブリユー・フランズは1893年にケンタッキー,カブイントンに生れ,シンシナチイの大学に出席して学者となり,1913年から協会と交わり,伝道者となりました。
b 『ものみの塔』1942年
[179ページの図版]
N.H.ノア兄弟