ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔57 10/15 384–400ページ
  • 副会長と共に世界周遊

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 副会長と共に世界周遊
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 韓国・京城
  • 韓国の素晴らしい大会
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1956
  • 副会長と共に世界周遊
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
  • 副会長と共に世界周遊
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
  • 台湾,沖繩,日本における会長の奉仕
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1956
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
塔57 10/15 384–400ページ

副会長と共に世界周遊

韓国・京城

1月26日の土曜日の朝,再び富士山を通つた時,それは目をみはる様な景色でした。この日本の神聖な山でもあり,かつ最高峯の山は調和のよい輪郭と雪のある堂々とした峯があり,まわりの地面から孤立してそびえて立つています。西の海岸近く,全く雪で蔽われていた険わしい日本の地を飛びこして後,私達は碧色の日本海を飛行しました。時間も過ぎ去つて,それから薄い雲を通して,谷に,われ目に,又溝に雪のある韓国の連山を目下にながめることができます。韓国の首府に近づくと,私達は雲を通つて降下し,雪でおおわれた原野や丘や氷ではりつめられた漢河を掠めて飛びます。午後1時45分頃に私達は具合良く京城空港に着陸をしました。

韓国は国際旅行の主な会合点でありませんから,外国からの訪問者はほとんどありません。アジア大陸のこの半島におけるヱホバの証者を喜ばせたことに,ものみの塔協会の会長が彼の秘書を伴つて,1956年4月に初めてこの地を訪れたことです。今,協会の副会長が1957年1月の終り頃に訪問するというしらせは喜びをいつそうに加えました。副会長がまだこないうちからその訪問に対して1月25-27日までの週末の全国大会の準備が整えられました。これは冬のさなかに於ける大会で,氷のはりつめる韓国では,ヱホバの証者によつてかつて試みられたことのないものであつても,証者たちは意気阻喪しませんでした。しかし冬であろうと夏であろうと,この正式の訪問は全国大会と共に相俟つて大変に歓迎すべきことでした。それで時をうつさず準備が始まりました。京城に再建されたクュンギイ中学校の講堂,これは南鮮で一番大きな室内の講堂で,これと体操場を使用することになつたわけです。体操場は簡易食堂と,大会の公開講演にあふれた人々の会場に役立ちました。1956年の11月の初め,伝統的な『キムジャング』の季節の間に3つの巨大なキムチの土製容器が用意され,大会の時まで土のなかに埋められました。このニンニクと赤とんがらしで漬けられた白菜は,ヱホバの証者の韓国のすべての大会に必らずつきものになつています。

他の準備としてビラや,窓に貼る2色刷りのポスター,1500枚,京城の市街電車の中に250枚の宣伝ビラを使つての宣伝も行われました。12月が来ると31年ぶりの非常に寒い月になり,幸先のわるいものに感ぜられました。それに今一つのことは,大会が初まろとする寸前に韓国政府は鉄道運賃を2倍にしました。この結果,お金に困つている兄弟たちは京城大会に行かれなくなつてしまいました。それでも,首都以南の巡回区や会衆から約400人の人が来たのはなんとよろこばしいことでしよう! これらのうちの324人は,愛の気持の中に用意された京城の9会衆の4つの御国会館に宿泊し,御国会館は大きな寄宿舎に変りました。藁蒲団や体を楽にするものが,藁じきの床の上にのべられ,ストーヴは睡眠者たちに暖をとらせるため夜中ずつと焚かれていました。そのような大会中の団体生活を韓国の兄弟は非常によろこびました。そして,エルサレムに集まつた幾百万のイスラエル人の大会が,どんなものかを思い出させます。

1月25日,金曜日朝の大会開会には,647名が出席し,その人達はあとで野外証言のために市街の区域に出かけました。午後には,協会の京城支部に働く韓国人兄弟による歓迎の辞と,ギレアデ卒業の一宣教者と韓国の二人の兄弟による時にかなつた題の30分講話が3つあり,1191人がこれをききました。その晩の番組は,6時半に始まり,3人の韓国人兄弟と,二人のギレアデ宣教卒業者がしました。このギレアデ宣教者のうちの一人は,協会支部の僕のドナルド・エル・スティールです。先づ歌と経験があつてから,この番組は神権的な結婚につき4つの談話風の30分講話でした。又,冬の気候や午後11時の外出禁止時刻も近ずきましたが,1043名の出席者は皆よろこんでその話を聞き益を受けました。

土曜日の朝,副会長の到着前に,朝の洗礼の話がありました。希望者たちが,提出された質問に答えるため,立ち上るようにと言われました。その時,154人,即ち,96人の女子と58人の男子が立ち,それからヱホバ神へ献身するしるしとして,水によろこんで浸礼されること,それにふさわしいことを云いあらわすのを見て,観衆は拍手をしました。祝福を祈つてから,これらの志望者たちは二つの公衆風呂屋につれて行かれましたが,一つは兄弟のためでもう一つは姉妹のためです。そこで人々はあたたかいお湯の中で浸礼されました。

副会長が遠くはなれた所のキム・ポー空港に到着する予定の時間は,午後2時でした。大会の午後の集会は1時45分に始まりました。航空機会社に問い合わせたところ,飛行機は早目につくでしようとのことで,アメリカの兄弟にあたたかい韓国の歓迎をさし伸べようと,一群の兄弟たちはバスを借り切り,又他の人たちは個人の自動車でその空港に急ぎました。約75人が歓迎しようと,そこに居りました。彼が飛行機から出て来た時,向つて右の柵の後にいた兄弟たちの群から叫声があがりました。幾人かの宣教者たちが飛行機のところに移動された階段の下に居り,又報道員たちが閃光をたいて写真をとりました。この歓迎をさしのべた群は韓国語のものみの塔の雑誌を打ち振り,又あかるい笑いや大会の徽章をも示しました。この外国の地にあつてヱホバの証者は誰であるかはすぐに知ることができます。一人の韓国人の新聞記者が通例の入国手続きを容易にしてくれました。協会の副会長が税関の戸をひらいて出てきた時,彼は,この大がかりな歓迎の委員の一人々々にあいさつし,或る韓国人にはその名前で呼んだりしました。初めてであるとか遠慮とかの気持は全然ありませんでした。

キュン-ギイ中学校の講堂における午後の大会は,韓国人兄弟の話で午後4時一寸過ぎに終るところでしたがその時,副会長は講堂の裏側に入りました。1321人の人々が講堂につめかけ,沢山の人は立つていました。副会長はその晩の予定の話に出るまでゆつくり待つことなく,じつとしておられないで遂に演壇に上り,人々に話をしました。殊にその講堂に自分がいることの特権につきヱホバに対してよろこびと感謝を表わし,そして2ヵ月の旅行中に奉仕したヱホバの民の全会衆とすべての大会からの神権愛と,挨拶をその人々に伝えました。彼はそれらの会衆や大会を2ヵ月にわたり奉仕してきました。午後11時の外出禁止時刻のことを考えて,彼は演壇から,大多数の兄弟が出席し,話されることを皆きくのに便利だろうからと,番組を少し繰りあげることをとり極めました。それはよい効果を収め,その晩は人数が減るかわりに,聴衆は増加し,早目に去らなければならないのは殆ど居ず,もしあつたとしても,ほんのわずかの人がそうしただけでした。

その時からずつと副会長は演壇上で忙しく,話をなし,土曜日晩の彼の話を聞くために1402人は講堂を埋めつくしました。沢山ある何列もの椅子の外側にある空いた所は皆,利用されました。坐席の最前列と演壇の間に,人々は韓国式に床の上に坐りました。韓国人の兄弟たちは皆接近して坐りましたので大会の講堂には多数の人々が入れました。講堂の演壇から講演者は,上にむけられた顔,親愛な顔の大海を見るようでした。皆,大切な神の御言に耳をかたむけて聴いていました。足でおす少さなオルガンで伴奏されたこの群衆の歌う歌も又,すばらしいものでした。この大会中,よく練習した人々の合唱隊が何部かにわかれて,御国の歌を美しい調和で歌いました。

1月27日の日曜日の朝,話を注意深く聞く1275人の人達は,新世社会の安全な境界内に忠実に留まることについての,副会長の諭しの話を聞きました。聞いている人達の殆どすべては,話に従つて自分たち韓国語の聖書を開き,聖句の説明を聖書の欄外にしるしていました。これは見ていて喜ばしいことです。話が終了して程なく,大勢の人々はフランズ兄弟の御国の歌の演奏をきき,非常に喜びました。その歌を自分の半音階ハーモニカで吹いたのです。韓国の人々はこのような思いがけないもの,予定されないことを好みます。ですから大概どの社交的な集まりでも,お客は歌うか,踊るか,又は何か楽器を奏でるかするようにたのまれます。

極めて悪い経済状態にもかかわらず,南鮮では沢山の人が全時間開拓の伝道者です。これに感銘したフランズ兄弟はすべての開拓者が食事をするのを少し遅らせて,韓国人の開拓者の集りをするため講堂の演壇に上つてくるようにと願いました。1月は休暇開拓者にとり辛い月でしたから,147人の特別開拓者,正規開拓者,休暇開拓者が演壇にむかつてくるのを見て,全く感動しました。その時フランズ兄弟は彼等を励まして,一生の業に開拓生活を選択することをすすめました。はるか昔の1913年に彼が開拓生活を選んだからこそ,この昼の時間にここに韓国に居るようになつたのです。それですから又,全時間奉仕を続けることによりもつと大きな祝福と特権が彼等自身のものになることでしよう。演壇の上に,かくも沢山の御国伝道者を見ることは,本当に心のあたたまるうれしい事です。それは韓国の殆んどすべての開拓者がこの大会に出席することができたことを示しますから。

日曜日の午後は明るく,あまり寒くはありませんでしたから出席者は多いとの見込は強かつたのです。中学校の講堂と体操場とは2100名が坐れました。それで皆の考えは,もし両方の会場が一杯になるならば,どんなにか素晴しいかということでした。善意者たちが主要な会場に入つて,講演者の話を直接に聞くことが出来るようにするため,ヱホバの証者たちは附加的な会場である体操場に入る様求められました。兄弟たちはこのことによく従いました。一般の人々は会場に来たのですが,真冬にもかかわらず,その人達は期待以上に多ぜいでした。床にすわつたり,坐れる椅子に腰かけ,立つている場所をも埋めつくして,二つの会場共,2254名の出席者でした。協会の副会長によるこの公開講演に出席した善意者が少くも1000人いました。このことについてもつと知りたい,そして有能なヱホバの証者に訪問してもらいたいと願う用紙は,多数の聴衆によつて提出されました。

この公開講演の後,フランズ兄弟はスウウォンからの老年の兄弟に紹介されました。彼は韓国大統領の李承晩博士の古い友達で,年も大統領と同じ位だといいました。彼は大会の野外奉仕をしている際に,この国の行政の元首に再訪間をなし,韓国語の冊子,『御国のこのよいたより』をあげた,そのいきさつを語りました。前に彼は1955年に出された特色ある冊子,キリスト教国それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか?を手渡していました。この全国大会中,大統領を儀礼的に訪問した際,博士は受け取つた冊子に対して感謝しました。この薄いひげを生やした老年の兄弟はフランズ兄弟に,自分はその朝,野外でするいつもの雑誌活動をする代りに,李博士に再訪問をしてもかまわないかと,韓国の巡回の僕にまず尋ねたのだと,説明をいそぎました。

公開講座につづく発表で善意者が最後の大会の会合に残るように招ぜられ,公開講演の講演者が韓国に来るまでの世界旅行につき話すことになつていました。よろこんで1436人がこの集会にのこり,これは今まで韓国で開催された大会中の公開講演をのぞいて,一般の大会集会の最高出席者数でした。韓国の支部の僕は,要請に応じて,韓国の言葉で即興の話をし,一人残らず誰もが感銘を受けました。自分たちの言葉で支部の僕,スティールのはなすことを聞いて喜びました。この僕は,1950年,北鮮から共産軍が侵入する前から,このつらい危険な時代の間中,その妻と共に韓国人たちに忠実に奉仕してきた者です。副会長の別れの話と旅行譚についていうと,彼に習熟した翻訳者を再び用いました。この翻訳者は背の高い高等学校の生徒でフランズ兄弟と文通をしていました。書きつけもなく,あらかじめ練習するでもなく,たいへんつらいすべての翻訳をすることは,若い者にとつてたいへんつらいことでした。しかし彼はこのつらい仕事を良く耐え,副会長のはなす真理や訓話を大変よく訳し,この重い責任を極めて良心的に果しました。

すべての人の感じによると,この3日間の大会はあつという間に終つてしまいました。南鮮でものみの塔協会の二つの映画により,韓国人の兄弟たちは,協会の会長や副会長が来る前から,両人のことを知つていました。さて今,会長と副会長の両方が訪問したので,ヱホバの証者が全地に一致した制度である理由を知りました。愛と兄弟愛の原則が,真理やキリストの下に設立された神の御国を伝道するという私達の共通の決意と共に,全くヱホバの証者の真の絆であることを彼等は知つています。勿論彼等はヱホバの神権制度に忠実を保ちつづづけ,その制束内にとどまることを深く決意して,この大会を去つたのです。

その次の月曜と火曜と水曜の朝,フランズ兄弟は宣教者と韓国の兄弟と共にすごしました。それでフランズ兄弟は自分たちにもたらされた霊的の祝福に対し感謝の気持を示す韓国人の,寛大なもてなし,暖かさをうけることが出来たのです。韓国人の家を訪問したことにより,彼等が食事をする際にすわる坐り方を知りました。床下であたたかい熱を出す仕組は格別に気持のよいものでした。

副会長が迎えられるといつも何か聖書の質問に答えるようにたのまれました。こころよくこれに応じましたので,聖書をしらべる韓国人を喜ばせました。13の会衆からの何人かの兄弟が京城と釜山の家からきた宣教者とフランズ兄弟に,韓国食の食事を用意し,これは丘の中腹にある韓国料理店,ナク・ウォン・シャングに用意されました。食事は1月29日,火曜の午後1時に始まり,そこにいたもの皆が喜ぶようにいろいろのおいしい食事がだされました。皆はあきる程食べてから給仕は食事の残りを下げ,テーブルまで下げて大きな宴会用の部屋をかたずけました。それから49人の人は皆再び坐りました ― 全くのところ床の上にです ― そして矢つぎ早に副会長に聖書の質問をしました。これは午後6時過ぎまで続きましたが,その時間は,それぞれの奉仕中心地の書籍研究に行かなければならないのでした。暗くなつて,49人は,聖書を見ることができなくなると,この質疑応答の会は蝋燭で続けられました。最初の翻訳者は,高等学校の校長と交代しなければなりませんでした。真理の宝と神の御言からの啓示を堀り出そうとそこには何という熱心さがあつたことでしよう! それは韓国人兄弟と,その人たちと共に働く宣教者とにとつてわすれることのできない経験でした。別の場合にも,そのように益のある討論で一心になりすぎることが何度もあるので,外出禁止時間が近いと注意を喚起させることが必要な程でした。それから,あわてて数の少ないタクシーやジープにのりこみ,警報が外出禁止時刻を吹きならす前に家に帰つたのです。

最後の火曜日の夜は山の中腹にある宣教者の家で過しました。そこには11人の宣教者と3人の京城ベテルの家の者がいます。彼らがしのばなければならない不便や危険にもかかわらず,その任命地に止まり,よく答え応ずるこれらの韓国人の兄弟に奉仕するすばらしい特権を感謝し,またたのしみ続ける様にと,宣教者たちに暖かい助言をしました。この最後の集まりは京城の宣教者の家でありましたから,フランズ兄弟はその晩ここに泊まりました。この晩だけは外出禁止時刻を気にしないでよいのでした。驚いたことにこの親しくむすばれた人達がつかれを物ともせず朝の2時近くまで話し合つたりして会合を続けたのです。

こうして支部でもあり,また宣教者の家でもあるこの家で晩を過したので,副会長は京城と釜山からの13人の宣教者と共に,朝食をたのしむことができました。物質的な食事にあずかる前に,ブルックリンの本部で行われるのと同じように,ベテルの礼拝がフランズ兄弟によつて司会されました。しかし彼等によつてなされる日々の聖句の討議はすべて韓国語でした。フランズ兄弟はただ英語で註解し要約して,祈をささげました。

1月30日,水曜日は副会長の去る日です。凍つている漢河を越したところにあるキムポー空港には,別れを告げるため150人以上の韓国人の兄弟たちが,空港の建物に入りこみました。そして又彼らは着陸場の柵の前面に群がり,彼らを去つてゆく友なる僕がエヌ・ダブリュー・エーの飛行機の所に歩いてゆく時,その顔には涙が見られました。互いにさよならの手を振り,それから副会長は飛行機に乗りこみました。しつかりと閉ぢられた飛行機は動き始めました。そして午後2時数分前,そこに見まもつていた韓国人たちは,飛行機が空に上昇し,日本に向つて進むのを見守りました。今彼らのすべてにとつて過ぎた週間の特権から新しい力を受け,仕事に帰ることです。それより以前の3ヵ月間,韓国では増加の一方で,非常に寒かつた12月には,1801名の伝道者という最高数を得ました。そして,この全国大会の行われた1月も,それに劣るものではありませんでした。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする