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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
塔65 6/15 382–383ページ

読者からの質問

● イザヤ書 14章12節から14節の適用について説明して下さい。これはサタン悪魔にあてはまりますか。

イザヤ書 14章12節には次のように書かれています。「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ,あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った,『わたしは天にのぼり,わたしの王座を高く神の星の上におき,北の果なる集会の山に座し,雲のいただきにのぼり,いと高き者のようになろう』」。

イザヤ書 14章12節から14節が最初に適用されるのはサタン悪魔ではなく,ネブカデネザルから始まってナボニドスとベルシャザルで終わるバビロニアの王朝です。この王朝は,自分自身を高くあげ,古代の世界で明るく輝いた「バビロンの王」として4節に述べられています。バビロンの王朝がとくに望んだことは,エルサレムの王座に座した歴代の王より自からを上位にあげることでした。ダビデの王統から出る王たちは聖書の預言の中で星にたとえられました。そしてその王らがエルサレムで,「エホバの座」と呼ばれた王座に座したとき,彼らには輝きと,王者にふさわしい栄光がありました。そこでバビロン王は,イスラエルの王たちをれい属させ,最後に彼らを王位からひきおろすことを望んで,心のうちに言いました。エホバの天にのぼり,自分の王位を象徴的な「神の星」の上にあげ,イスラエル人が彼らの神に会った北の山の上に座そうと。この方法でバビロンの王は,自からをイスラエルの神の上にあげ,イスラエルの神に挑戦するかにみえました。ネブカデネザルがエルサレムで,「神の星」を退位させ,「エホバの座」をくつがえしたとき,それは彼自身にとっても,異教の世界にとっても,自からを天高くあげたかに見えたことでしょう。(マタイ伝 11章23節と比較してください。)したがって,シオンもしくはエルサレムに対してなしたことにより,「黎明の子,明けの明星」となったのは「バビロンの王」でした。しかし西暦前539年にバビロンが倒れたとき,このバビロン王朝の王たちは王位からおろされ,切り倒されました。ですからイザヤが彼らのことを,「あなたは切られて地に倒れてしまった」と言ったのは正しいことでした。

しかしイザヤ書 14章12節から14節は2番目に,偽りの宗教の世界帝国である現代の大いなるバビロンの王サタン悪魔に適用されます。1914年,サタン悪魔は自分の位を,神の子イエス・キリストに与えられた王位の上に上げようとしました。しかし,1914年から1918年までに行なわれた天の戦いで,即位された王イエス・キリストは,サタンを天から地の近くに追いおとし,彼を低くしました。だからイザヤはサタンについて,「あなたは天から落ちてしまった」と預言していたのです。大いなるバビロンもまた倒れました。とらわれていた霊的イスラエルが1919年に自由にされ,大いなるバビロンとその王サタン悪魔にもはや束縛されなくなったことはその事の証明です。

そういうわけで,イザヤ書 14章12節から14節は,第1に,古代バビロンの実際の王に,現代では,古代バビロンの王によって象徴された,現代の大いなるバビロンの王サタン悪魔に適用されます。

● 親の片方が献身したクリスチャンのエホバの証者で,他方がそうでない家庭では,子どものしつけをするのにどんな聖書の原則を導きとすべきですか。

聖書によると,一家のかしらは夫であり,父親です。もしその夫あるいは父親が献身したエホバのクリスチャン証者であるなら,家族を物質的に養うのと同じく霊的に養う義務があります。(テモテ前 5:8)たとえ妻が不信者であっても,子どもたちには,家庭と御国会館の両方において,クリスチャンとしての正しい教育と訓練を受けさせるように取りはからねばなりません。また妻にも神のみことばの真理を悟らせるように,できるかぎりの援助をしなければなりません。それと同時に,妻が自分の方法で神を崇拝する自由を与えねばなりません。妻は子どもたちを自分の教会に連れていこううとするときもあるでしょう。妻の崇拝の自由を認めることは,クリスマスのシーズン中,ほかの部屋や家の外部を飾ることは許さなくても,家の中の一部屋にクリスマス・ツリーを飾るのをゆるすことにもなるでしょう。そのように妻の崇拝の自由を認めることにより,夫は自分自身を愛するように妻を愛していることを示します。―エペソ 5:28,29。

同様に「不信者」の父親も,一家のかしらである以上,子どもの宗教についてさしずするでしょう。しかし,父親のるすの間は母親に子どもを監督する責任があるのですから,母親は子どもに正しい原則を教え,機会あるごとに証言しなければなりません。夫の反対が激しく,許さない場合,母親は子どもを奉仕や集会に連れて行けないかも知れません。しかしいろいろな方法で聖書の原則と真理を教えつづけることができます。子どもが質問するなら,母親はそれに答える権利があります。

かりに不信者の父親が,国旗敬礼を問題視するとします。クリスチャンはみな,自分の信仰と行いを弁明するよう聖書から教えられていますから,献身している母親は,家族全員がキリスト教の原則に対する自分の忠実さを理解するように,子どものみならず夫に対しても,弁明し説明する権利があります。(ペテロ前 3:15)この場合父親は,国旗敬礼に関し母親が子どもに聖書的な立場をとらせることに反対しているのですから,母親には,この問題にかんする聖書の教えを子どもに説明する以外に子どもに聖書の原則を守らせることを強いる権利はありません。家のかしらである夫が,国旗敬礼をするように子どもに要求しているからです。子どもは父親の希望を考慮しなければなりません。そして母親は,教師に手紙を送り,学校で国旗敬礼の儀式があるとき子どもたちをそれから免除してほしいと頼んで,それに干渉してはなりません。しかしのちに子どもたちが母親の立場を知って,それが聖書的であり,したがって神のみこころであることを悟り,自からの良心に従って,学校その他の場所で国旗敬礼の儀式に参加を拒否するなら,それはむろん母親がさせたのではなく子どもが自からしたのですから,夫は妻を責めることはできません。結局,良心に従って自分の立場を決めるのは子どもの責任です。子どもが良心に従って愛国主義的な儀式を避け,父親から罰を受けるなら,子どもは義のために苦しんでいることになります。―ペテロ前 2:19,20。

不信者の夫をもつ献身したクリスチャンの妻は,ペテロ前書 3章1節から6節の助言に従って模範的にふるまい,夫を深く尊敬し,子どもたちにもそうするように教えなければなりません。しかし真の崇拝にも活発に参加します。また忠実な行いや話す事がらによっても,夫と子どもたちに大きな影響を与えます。そうすれば夫や子どもも救いにはいるかも知れません。―コリント前 7:14,16。

信仰をもつ親から聖書の真理を学んでそれを信じている子どもの場合にも,キリスト教の原則がそのとるべき道を支配します。不信者の親は,子どもが教会に行くことをしいるかもしれません。幼い子どもは,親に従うことが正しいのですから,そうしなければならないでしょう。しかし教会では,偶像崇拝的な儀式に良心的に参加することはできません。そして討論の時間に機会があれば,天のみ父のことばについて弁明せねばなりません。不信者の親から,エホバ神のおきてを直接に犯す行為をするよう求められたなら,子どもは聖書にしるされている助言に従います。「人間に従うよりは,神に従うべきである」。「わたしよりも父または母を愛する者は,わたしにふさわしくない」。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」。―使徒 5:29。マタイ 10:37。エペソ 6:1。

このように分裂した家庭内の献身したクリスチャンは,どんな状況の中にあっても,自分の立場を正しく評価します。そして神に対する責任が第一であることを認め,またそのことと一致して,一家のかしらにかんする神の教えを守り,かしらに対して当然の愛と尊敬を示します。

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