読者からの質問
● クリスチャンが集まりの席で乾杯するのは正しいことですか。―アメリカの一読者より
ある国々では知った者同志が別れる時,別れの杯をほし,何かのアルコール飲料がはいったグラスを上げて触れ合わせ,「健康を祈ります」あるいはその他類似のことばを述べます。同様に結婚の披露宴においても新郎新婦の健康と幸福を願って乾盃が行なわれることはめずらしくありません。そこでクリスチャンがこのような乾盃に加わることは聖書から見て正しいかどうかという疑問が起きるのは当然です。言うまでもなくクリスチャンが友人の幸福や健康を願うのは少しも悪いことではありません。またグループとしてそのような願いを表わすのも間違ったことではありません。1世紀においても,霊的に古い人々は,諸会衆にあてた手紙の結びに「なんぢら健かなれ」と述べています。―使行 15:29。
しかし乾盃はただそれだけのものですか。乾盃するときグラスや盃をあげ,かちんと触れ合わせるのはなぜですか。それは何かの風習の模倣ですか。大英百科事典第11版第13巻121頁に出ている事柄に注目してください。
「人の健康を祝して乾盃する風習は,神々や死者に乾盃する昔の宗教儀式からおそらく出ている。ギリシャ人やローマ人は食事のとき,神々におみきを献じ,また儀式的な宴の席で神々や死者に乾盃した」。このような異教の風習がスカンジナヴィア人やチュートン人の間に伝えられたことを述べたあとで,この百科事典は次のことばを加えています。「人の健康を祝して乾盃することは,犠牲をささげるのにも似たこれらの乾盃と密接に結びついていたに違いない」。
乾盃に加わる人は異教の神々に乾盃する,つまり神酒をささげる風習にならっているとは夢にも思わないでしょう。しかしそれは大いにあり得ることです。忠実なクリスチャンは「〔エホバ〕の杯と悪霊どもの杯とを,同時に飲むことはできない」のを知り,異教のささげものの行為に実際に加わることをしないでしょう。そのことに疑問の余地はありません。(コリント第一 10:21)円熟したクリスチャンはまた偽りの宗教の行事にならうような行為さえも避けるでしょう。円熟を示すこの道はエホバに喜ばれます。神はイスラエル人が周囲の異教徒の宗教行事にならうことのないように特に警告を与えられました。―レビ 19:27; 21:5。
クリスチャンが他の人の上に神の祝福を願うのであれば,それをする正しい方法は,エホバに忌み嫌われる異教の崇拝のならわしに従うことではなく,心からの祈りを神にささげることです。―ピリピ 1:9。コリント第二 1:11。
世界にはさまざまの風習や伝統があります。ある特定の風習が直接に偽りの宗教に基づいていることを知っているならば,円熟したクリスチャンがそれを避けることは明らかです。しかしすべての風習が避けるべきものだと言うのではありません。あるものは,たとえば握手やおじぎのように単なる土地の風習あるいは礼儀であって,偽りの宗教に起源があるとは言えません。(創世 23:7)各人はある特定の習慣について自分の知る事柄を考慮し,それに関して自分の動機のいかんを考慮できます。なぜその事をしようとしていますか。また次のことも自問できます。このことをすると,他人をつまずかせないだろうか,あるいは近所の人はわたしの行ないを偽りの宗教と結びつけて考えないだろうか。(コリント第一 10:32,33)だれもある特定のクリスチャンのために良心の役をすることはできません。ゆえに各人がその事柄をよく考え,良心を清く保てるような決定を下さなければなりません。―使行 23:1,2。コリント第二 1:12。