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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
塔71 1/1 3–7ページ

「もちろんなれるわ,嘉代子さん。わたしもなれたのですもの」

グラディス・グレゴリーの経験

その時の話題は,わたしにとってたいへん喜ばしい事がらの一つ ― 開拓奉仕,つまり,ものみの塔聖書冊子協会の指導下でなされる全時間伝道のことで,嘉代子という名の若い日本人の娘は深い興味をいだいていました。

「わたしのような者でも開拓者になれるかしら」と,彼女は尋ねました。

「もちろんなれるわ,嘉代子さん。わたしが開拓者になったのも,あなたと同じ年ごろだったわ」。

「神の王国のための奉仕に全時間を費やせることほど大きな特権はありませんわ。でも,わたしには自信がないわ」。

「そうね,わたしだってそんなに自信があったわけではないのよ。でも,生活の中でエホバを第一にし,エホバに仕えるなら,エホバは必ず物質的また霊的にわたしを顧みてくださるという確信を持っていました。そして,本当にエホバは顧みてくださいました。開拓奉仕者になる,あの重要な段階を経たことを少しも悔いていません」。

「グレゴリー姉妹,あなたは開拓奉仕にずいぶん長い間,携わってこられたのではありませんか」。

「わたしの知っている,他の忠実なかたがたの記録と比べたら,そんなに長くはないわ。50年以上も開拓奉仕者として仕え,今でも熱心に働いておられるかたがいるのよ。わたしは,1940年,アメリカのバージニア州,ロアノーク市で,わたしのおば,エドナ・フォールクスから初めて聖書の真の音信を学びました。開拓宣教にはいったのは,1944年でした。母はクリスタデルフィアンでしたが,聖書を深く愛していましたので,わたしがエホバの証人と交わりはじめてすぐ,わたしの妹グレースとともに証人と交わりました。わたしは妹とともに,最初から開拓奉仕を目標にしましたが,当面,母のめんどうを見なければなりませんでした。

「そのころ,家族の激しい反対のため,ジョージア州の家を去ったふたりの若い熱心な証人が,いっそう十分にエホバに仕える自由を求めて,ロアノークに移ってきました。それは,フレッド・ラスクとその妹メリーでした。こうして,わたしたち4人は開拓奉仕を目ざして働くことになり,しかも4人とも,その目標を達成しました。エホバの証人ではありませんでしたが,親切で協力的な兄が軍隊から帰ってきて,母の世話を引き受けてくれたのです。それは奇跡のようでした。エホバはわたしたちのために道を開いてくださったのです! フレッド・ラスクとその妹メリーも開拓奉仕をはじめ,やがてラスクは,ものみの塔協会のブルックリン本部に招かれ,今も本部で奉仕しています」。

「なんと胸のおどる話でしょう! わたしたちの会衆の若い人たちも同様に感じているのではないかしら。若い人たちのほとんどは,開拓者か,そうでなければ,その目標を目ざしている人だわ」。

そうです,日本のエホバの証人の各会衆には開拓者精神がみなぎっています。そして,わたしたちといっしょに聖書研究を始めて1年を経たばかりなのに,当初,静かで内気だった嘉代子さんは,神の愛ある目的を知ってから,喜びにあふれた,積極的で明朗活発な王国の伝道者としてすばらしい成長ぶりを示し,献身してまだ日が浅いのに,彼女も開拓者精神を身につけていました。

開拓奉仕をした初めのころ

嘉代子姉妹と昔のことを思い起こすと,自分たちが開拓奉仕をした初めのころがしのばれます。1946年春,メリー・ラスクとグレースとわたしは,バージニア州ルードウン郡に任命され,1936年型のみすぼらしい車で,トレーラーを引き,2年間の全時間宣教を開始しました。幾度か試練にもあいましたが,それは,全体としては数々の有益な楽しい経験にあふれた,祝福された時となりました。その郡は,しばらくの間,証人たちの訪問を受けていなかったので,ある給油所に駐車させたトレーラーに住む,わたしたち3人の女性を見て,人びとは驚いたり,さまざまな関心をいだいたりしました。トレーラーに近寄る人には,聖書を取り出して証言をしてはじめて,わたしたちが本気で伝道していることを納得してもらえました。

関心を持つ多くの人びとを見いだして,幾つかの興味深い聖書研究を始めたわたしたちは,その年の夏,もよりの幾つかの会衆から講演者を呼んで,ケリー婦人の牧場で一連の野外公開講演を行ないました。講演会には,関心を持つ人びとが大ぜい出席しました。その年の秋,わたしたちは初めて,ボブとジェーン・ハリスに会いました。わたしたちのうわさはすでに広まっていたので,ある暑い日その家を尋ねたところ,ボブは,“地獄を否定する女ども”の用件を聞くために小麦の脱穀の手を休めて,やって来ました。この名前は,ボブの仕事仲間のひとりがわたしたちに付けたものです。彼は妻のジェーンに言いました。「おまえが読みたいなら,その本をもらいなさい。聖書に関する本なら,決して悪い本じゃないからね」。ふたりは聖書研究に快く応じ,翌春,会衆が組織されてからは,彼の家の食堂で集会が開かれました。

同年の夏,地方の人だけで構成された小さなその会衆では,活発な証人の数は30人という最高数に達しました。次いで,その年の冬,わたしたちは宣教者として訓練を受けるよう,ものみの塔ギレアデ聖書学校に招待されました。ハリスの10歳の娘コニーはこう言いました。「おかあさん,開拓者がいなくなっても,わたしたち,集会や王国の伝道のわざは,決してやめませんわ」。その人たちがやめなかったのは,いうまでもありません。その区域には今,それぞれ独自の王国会館を持つ,二つの会衆があります。

こうして,わたしたちの全時間奉仕の一区切りは終わりましたが,当時まいた種が実を結ぶのを聞いて,今でも喜んでいます。以前トレーラーを駐車させていた給油所の所有者,カルビン・エセイとその妻ルシールは,親切でしたが,わたしたちの音信に一度も深い関心を示したことがありませんでした。ところが,16年後,「信じられないかもしれませんが,わたしは今では,あなたのクリスチャン姉妹です」としるした,ルシールからの手紙を日本で受け取り,大きな喜びを味わいました。

ギレアデ学校とその後

ものみの塔ギレアデ聖書学校で学べたことは,すばらしい貴重な経験となりました。それほど深い聖書の知識の富が得られるとは思いませんでした。当時,ギレアデ学校はニューヨーク州北部,フィンガー・レーク地区にあり,学校周辺の緑の芝生や静かな小川の流れに接して感動した,日本人の最初のギレアデ卒業生のひとり,浅山あさの(旧姓)姉妹は,「さながら楽園のようだわ!」と,賛嘆の声を上げたほどです。

最初,日本に割り当てられた25人の卒業生のうち,わたしたち8人は後に韓国に割り当てられました。いろいろの事がありました。ニューヨークから韓国までの旅行には,2か月を費やし,途中,数々の興味深い景色や物事に接しました。ところが,韓国に着いて3か月後,戦争が始まり,米軍の計らいで日本に引き上げることになりました。最初,3か月,神戸にとどまり,1950年10月,名古屋に落ち着くことになりましたが,それは目まぐるしい1年でした。

韓国での短期間の生活は忘れることができません。韓国の証人たちの熱心さに匹敵するものをわたしは見たことがありません。物質的には貧しく,共産主義の北鮮からの難民も大ぜいいましたが,人びとはたいてい,残ったわずかな持ち物の一つとして,使い古した聖書をたいせつに持っていました。公開講演には,それらの人びとが大ぜいやってきて,集会が終わるたびに,宣教者を取り巻いては聖書の質問を尋ね,自分たちの聖書から答えを得てはじめて,満足するのでした。

韓国の仲間の証人たちに別れを告げて,この国を引き上げたとき,身の引きさかれるような思いがしたのを今も忘れられません。涙ながらにさようならといってくれた証人たちのことを,わたしたちは決して忘れないでしょう。実際,少しの間,日本での仕事を落ち着いてするのが困難なほどでした。わたしたちのグループのうち,しばらくして韓国に再び戻れたのは,ドン・スチールとその妻だけでした。そうしているうちに,わたしたちは日本語を学びはじめたのだから,日本にとどまってはどうかと提案されました。そして,韓国には,事情が許ししだい,別の宣教者がはいることになったのです。

「グレゴリー姉妹,あなたは開拓奉仕をして,外国の国々で働かれましたね。でも,開拓宣教にはいる人すべてが,そうした特権にあずかれるわけではないわね?」

「開拓奉仕にはいろいろ異なった特権があるのよ,喜代子さん。なかには自分の国にとどまっている人もいるの。それに,いま日本は必要の大きな所ですから,こんなに実りの多い野外を離れたいと思う人はひとりもいないと思うわ」。

日本 ― 著しい対照の見られる世界

日本にこれまで20年間とどまったわたしは,数々の変化を見てきました。戦争で荒廃し,貧困にうちひしがれた日本は,一躍,世界の先進国の一つに生まれ変わりました。日本人はほんとうに勤勉で,教育熱心で,新しい考えを取り入れるのにけんめいです。

最初,神の王国の伝道のわざは,さほどの結果をもたらしませんでした。わたしたちの日本語の知識は限られており,適当な文書もあまりなかったのですから,それも当然です。それでも,ある人びとはわたしたちについてきました。そして,聖書の知識の点で成長する一方,わたしたちは日本語にいっそう通ずるようになりました。そのころ勉強した人で,今も忠実に奉仕している人が何人かいます。

ことばの点ではよく失敗しました。たとえば,たった一語をまちがえたばっかりに,「わたしはクリスチャンの電車です」と言って,しくじった宣教者もいます。ある時,わたしは家の人に,「キリスト・イエスはエホバのお名前と,おところを宣明するために地上にこられました」と,いともまじめに話したのを覚えています。

さまざまな新しい習慣,たとえば,正座することにもなれなければなりませんでした。今でもわたしは,関心のある新しい人との聖書研究では,たいてい正座します。しかし,しんぼう強い日本の人たちのおかげで,万事容易に行なえます。

日本人の生活はたいへん近代化されましたが,それでも,昔ながらの物事にかなり接することができます。町を歩くと,和服姿はミニスカート同様に目にとまります。コンピューターの使用率で日本は世界第2位ですが,中央暖房設備のある一般家屋はほとんどありません。普通に用いられているのはコタツですが,手足は暖まっても,背中はいっこうに暖まりません。日本人はほとんど100%,読み書きができます。しかし,迷信には根強いものがかなりあります。

日本人の若者の反抗や学園紛争は日常茶飯事ですが,反面,日本人の結婚は今でも70%が見合い結婚です。確かに日本は,著しい対照の見られる世界です。

驚くべき進歩

日本におけるわたしたちクリスチャンのわざの発展が最初はおそかったにしても,失われた時間は取り戻されています。王国の伝道者を初めて1,000人生み出すのに10年かかりましたが,その後,10年を経た今,9,000人以上の伝道者が戸別訪問による宣教に定期的に携わっており,そのうち,優に1,000人以上の人びとが開拓者として奉仕しているのです。著しい成果ではありませんか。わたしたちのグループの宣教者のうち,15人が今まで日本にとどまって,こうした拡大のすべてにあずかれたのは,なんという喜び,また特権でしょう!

日本の経済面の発展に寄与した種々の特質はまた,神の王国に関する活動にも,さまざまな影響を与えてきました。勤勉であることは確かにほめるべきことですが,今日の社会の実状の真因を知るようになった人のなかにも,世俗の仕事や栄達を最優先する古来の風習に負けて,クリスチャンとしての進歩をはばまれている人もいます。

人びとは教育熱心で,文書をよく求めますが,仏教の影響が人びとの生活に深くしみ込んでいるため,今なお先祖崇拝が種々の形で保たれています。人びとの生活の背景には,創造者なる神の存在を理解する根拠となるものは何もありません。ですから,60歳以下,なかにはそれ以上の年齢の人でも,現代の科学的な教育を受けた人はたいてい,自分は無神論者だ,と言います。

しかし,喜んで教えを受ける柔和な人びともおり,それらの人は目ざましい進歩を遂げています。どこでもそうですが,たいせつなのはやはり,正しい心状です。

開拓奉仕,それも大半を宣教者として過ごしたこの奉仕は確かに,キリスト・イエスの約束にたがわず,愛ある大家族をわたしに与えるものとなりました。(マルコ 10:29,30)最近,東京のベテル(ものみの塔協会支部)にはいった若い証人から,「わたしを覚えておられますか」と尋ねられました。幸いにも,容ぼうがあまり変わっていなかったので,思い出したのですが,わたしが名古屋でその人の母親と聖書研究をしていたころ,そのむすこは小学生でした。以前,わたしといっしょに聖書研究をした別の家族の3人も今,特別開拓者として奉仕しています。

ある日,かつて学生時代に,わたしと聖書研究をした若い男の人から,12歳になる娘を紹介されましたが,その娘はその日,神への献身の象徴としてバプテスマを受けるところでした。わたしの霊的な子どもたちの何人かは,ものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業し,協会の旅行する代表者になったり,ベテル奉仕者になったりして,奉仕を続けています。

全時間奉仕に携わっている時ほど,エホバの保護と導きを強く感じるときはない,といわないわけにはゆきません。「飽くことにも,飢うることにも,富むことにも,乏しきことにも,一切の秘訣を」知る喜びをエホバは与えてくださいます。(ピリピ 4:12)日本に来て20年になりますが,その間,全世界の証人たちから協会を通して差し伸べられた援助のおかげで,アメリカに3回帰国し,3度目には,アトランタで行なわれた,エホバの証人の「地に平和」国際大会に出席し,また,11年ほど会わなかった,わたしの兄と妹,それに多くの友人を訪問する喜びに恵まれました。それはほんとうに喜びの再会でした。

それにしても,今では日本がわたしの郷里です。とにかく,エホバの崇拝と奉仕に忙しく携わりつつ,ここ日本にとどまってハルマゲドンを通過したいと願っています。嘉代子さんのことですか? 彼女は特別開拓者になって3年になりますが,この間の手紙によると,現在,家庭聖書研究を10ほど司会しています。そして,彼女と聖書研究をした別の人はすでに正規開拓奉仕者として働いています。彼女はきっと,かつてわたしが話したように,「もちろん,あなたも開拓者になれるわ。わたしもなれたのですもの!」と,その人に語ったに違いありません。

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