あらゆる民族集団のあいだの一致は可能ですか
人々が,偽りのない,心臓からの愛と一致のうちにともに暮らすことのできる基盤というものがありますか。特に,人種や国籍,言語や社会的背景の異なる人々のあいだでそれは可能でしょうか。
昨年の暮アフリカを訪れた,アメリカとカナダの人々236名の一行は,この問題を直接に知る機会に恵まれました。アフリカほど多くの民族集団が見られる土地がほかにありますか。また,世界における自分の特権と立場に目ざめた巨人のようなこの大陸におけるほど,現在自由を求める声の強い土地は地上にあるでしょうか。
旅行者たちが12月を選んだのは,その1か月間にアフリカのエホバの証人がいくつかの「善意の人々」大会を開くことになっていたからでした。それらの大会には多くの部族から,様々な背景を持つ何千人ものアフリカ人がともに集まることになっていました。また旅行者の一行もエホバの証人で,聖書に『神がひとりの人からあらゆる国民を造り出した』と書かれていることを知っていました。さらに,そうした大会の最初のものが昨年の夏に北アメリカで連続して開かれた際,一致と協力が発揮されたのを見ていました。それはすべての国々において可能でしょうか。その上,それら北アメリカからの訪問者は「兄弟」として迎えられ,一方,彼らがアフリカの大会出席者たちに対して兄弟のような感情をいだくでしょうか。
セネガルのダカール
10の大会がもれなく旅行者の訪問を受けられるように,一行はそれぞれ異なった旅程を組み,別々の大会に出席しました。最初に訪問したのは,アフリカ大陸が大西洋に大きく突き出た部分の最西端に位置する,セネガルのダカール市でした。
早朝の7時半に到着した旅行者は,土地のエホバの証人の代表多数に暖かく迎えられました。それら代表者たちは,税関を通る際に彼らを助け,また旅行カバンを待機していたバスまですばやく運んでくれました。旅行者の中には,ホテルの本館のそばにある,セネガル風の奇妙な円錐形をした小屋に泊めてもらい,アフリカ訪問の気分を満喫した人もいます。
12月1日に開幕し4日間にわたった大会は,ラ・メゾン・デ・ジューヌ,すなわち青年館で開かれました。この建物の外観は非常に人目を引くものでしたが,内側は破損されたままになっていました。しかし,セネガルのエホバの証人たちは大会前に水とせっけんを使って仕事を始めました。彼らは会館の所有者には全く負担をかけずに,およそ380㍑のペンキを使い,電球を取り替え,戸を修繕したり取り替えたりし,下水の通りをよくし,水道の設備をもうけました。延べ1,200人時間のきびしい作業の後,背に風景を配したりっぱな演壇を含め,すべてが整いました。西海岸からの訪問者たちも,これほどきれいでここちよい集会場所を持ったことはないにちがいありません。
人口約400万,そのうち80%がマホメット教徒からなるこの国で,178名のエホバの証人が伝道活動を行なっています。大会は公けに宣伝されず,私的な集まりという性格を持ち,出席者の最高数は325名でした。ものみの塔のN・H・ノア会長および,F・W・フランズ副会長はプログラムにいく度も姿を見せ,通訳を通して話をしました。
会館支配人の評
アメリカ大陸からの代表者たちは,さまざまな人種や言語の人々のあいだの一致という問題に関して,ここでどんな観察をしたでしょうか。ラ・メゾン・デ・ジューヌの支配人のことばはおそらく,その点で代表的なものと言えるでしょう。彼は自分の見た協力や規律正しさについて,「あなたがたはどうやってこんなふうにできるのか,どうか教えてください」と尋ねました。それが拡声装置を通して発表することによって成し遂げられているものではなく,聖書の研究を通して学んだ生き方であり,日常生活で行なわれている事柄であるという説明を聞くと,その支配人は「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌の予約をしたいと申し出,また青年会館の図書室に備えるために,ものみの塔の出版物すべてを1冊ずつほしいと言いました。わかれる時,彼は最後にこう言いました。「わたしはあなたがたが,清潔さや秩序の面でこれほど高い標準を保つ,まじめな組織を持っておられることに今まで気づきませんでした。それに,あなたがたはいつもたいへん幸福そうですから,非常に高潔な目的を持っておられることは明らかです」。
訪問者たちを乗せた飛行機が次の大会開催地へ向かって飛び立つ時,セネガルの大会代表者のひとりは感動的にこう話してくれました。「わたしは英語が話せないので,あのかたたちのところへ行って話すのをためらっていました。ところが,あのかたたちは,到着するとすぐにわたしに近づいて暖かくあいさつし,立ち去る時にもわかれのあいさつをしてくださったので,わたしはたいへん驚きました。そしてとても幸福な気持ちになりました。世界の他の土地にいるエホバの民は確かにわたしの兄弟,姉妹たちです」。
リベリアのモンロビア
ダカール大会が第3日目を迎えている時,旅行者を乗せた別の飛行機はリベリアのすばらしく近代的な都市,モンロビアに着陸しました。100周年記念館はこの大会にふさわしい会場でした。しかし,大会の責任者は後になって,大会最終日すなわち公開集会の日に,国立大学がその会場を卒業式のために使うとの知らせを受け取ったのです。公開集会はそのあとの6時から開くこともできましたが,卒業式が延長する場合もあり得るので,そのように調整するのは賢明とは思われませんでした。それで,近くにある400万ドル(14億4,000万円)のトルー・ホィッグ党会館を借りることに注意が向けられました。その建物は政府の管理下にあり,まもなく完成するところでしたから,まだ使用されたことがないものでした。さて,そのような建物の使用権を得るために,日曜日当日の午後,大臣,建築技師,請負業者側の責任者,会社の社長,電気技師を捜しまわらねばなりませんでした。しかし,公開講演を聞こうと外で忍耐強く待機していた1,427名の人々が入場する時間までに,事はすべて順調に運ばれました。
大会の2日目,62名の人々が大西洋でバプテスマを受けるのを見て,リベリアで活発に奉仕している679人のエホバの証人は喜びに包まれました。それら新たに任命された奉仕者たちは,種々様々な背景や階層の人々でした。有名な弁護士や,かつては平和部隊に属していたアメリカの女性,信仰のゆえに学校で何度も打たれた少女,また以前にプロテスタントの伝道者だった77歳の老人などがいました。それらすべての人が今や真の神の崇拝において一致させられたのです。
再会
リベリアの証人たちにとって特別顕著だったのは,ものみの塔協会の理事,ミルトン・G・ヘンシェルの到着でした。ヘンシェルは7年前,エホバの証人の反対者による迫害が起きた時に,リベリアのグバルンガで開かれた大会に出席していました。ヘンシェルの今回の到着の際には,何十人ものリベリア人が群がってあく手を求め,以前の大会が中断されて,そこに出席していた400人が非常に過酷な仕打ちを受けた時の苦しみを語り合いました。彼らは今度は,その緊迫した時のこっけいでユーモラスな面を笑うことさえできました。その時に出席していた子どもたちのいく人かは,しっかりした活発なエホバの証人に成長しており,訪問した自分たちの兄弟ヘンシェルにそのことを知ってもらいたいと願っていました。
シエラレオネのフリータウン
次に訪れた大会開催地,シエラレオネ(「ライオンの山々」という意味)は宝石の産出量で世界第3位の国です。この国の首都,フリータウンは1787年に解放奴隷の手で創設されました。
12月初旬にここで大会を開くのは理想的でした。なぜなら,そのころは,「ハーマッタン」の季節で,乾燥した涼しい風がサハラ砂漠から吹いて来て,日中は太陽の熱い日差しをしのぎやすくし,夜にはそれが涼しいそよ風になるからです。マラリアや熱帯の他の病気にかかった人々がつかの間でも「いやされる」ので,土地の人たちはこの風を「医者」と呼んでいます。
シエラレオネには851名のエホバの証人が活発に奉仕していますから,多数の出席者が期待されました。したがってフリータウンで最大かつ最も設備の整ったブルックフィールズ・スタジアムの使用権が申請されました。ところがそこはすでに他の団体によって予約されていました。大会の企画者たちが勇敢にも,その団体の代表者たちと交渉したところ,彼らは大会に好意的な態度を示し,親切にもその予約を取り消してくれました。公開講演の出席者は,1,540名でした。
神の標準にかなうため生活を変える
アフリカの他の多くの土地におけると同様,シエラレオネでも,神に仕えたいと望む少なからぬ人々は,一つのきびしい問題に直面しなければなりません。なぜなら,ここでは一夫多妻の風習がゆきわたっているからです。北アメリカから訪れた代表のために設けられた特別のプログラムでは,幾千人もの正直なアフリカの人たちが生活を神の意志に一致させ,神を喜ばせたいとのどれほど強い願いをいだいているかが,真に迫った実演によって明らかにされました。
舞台で再現された場面は,ひとりのアフリカのしゅう長が「とこしえの命に導く真理」と題する本をエホバの証人といっしょに学ぶところから始まりました。まもなく彼は一夫多妻の生活をしているかぎり,バプテスマを受ける資格が得られず,エホバ神のしもべにもなれないことを理解しました。しかし,そのしゅう長はどうすればよいのでしょうか。彼には6人の妻があったのです。ひとりを除く他のすべての妻をあきらめないかぎり受け入れられないことが聖書には示されていました。深く考えた末,彼は一番若い妻を残して,5人の妻と別れることにしました。その若い妻によって多くの子どもをもうけられるからです。しかし,ここでも聖書は,「汝の少き時の妻を楽しめ」と訓戒しています。―箴言 5:18。
それで,その人は妻たちを集め,自分が行なわなければならないこと,すなわち,第1番目の妻をそばに残して,他の妻たちを離婚しなければならないことを説明しました。そして,彼女たちが自活できるまで,あるいは再婚するまで扶養することを申し出たのです。彼は,妻たちの反論や,しゅう長をやめるに際して受けた圧力に対してもしっかりした立場を保ちました。その結果,離婚した妻のうちのひとりは,そうした処置の妥当性や清さを見て,エホバの証人になりました。これは,幾千ものそうしたケースの一例にすぎませんが,訪問者たちは,世界の他の土地に住むクリスチャン兄弟たちと同様,アフリカのエホバの証人も聖書の高い標準に従って生活していることをこの経験から知りました。
フリータウンでの大会を観察したある人は,珍しいでき事を目にしました。大会には,いつもお互いに憎みあっている11の部族の人たちが,他の国々の代表者たちとともに出席していたのです。それはどんな結果になりましたか。その観察者はこう述べています。『第1日目には6人の警官が場内を歩いているのが見られました。二日目にはふたりの警官が日影で腰かけていました。最終日には1,540人が出席したのですが,ひとりの警官も見あたりませんでした。シエラレオネが現在非常事態下にあることを考えれば,これは驚くべきことです』。そうした人々の間での一致は単に可能であるというにとどまらず,実現しているのです。
象牙海岸のアビジャン
象牙海岸は,15世紀に象牙貿易の中心であったため,その名前が付けられたのですが,現在ではコーヒーが主要な産物です。この土地では,1964年にエホバの証人のわざが禁止されました。3年後にそれが解除された時,証人たちは非常に大きな喜びに包まれ,最初の集会では声がかれるまで王国の歌をうたいました。
現在その土地には10の会衆と六つの宣教者の家があって,440人の活発な奉仕者が働いており,彼らは1,000名の人々とともに家庭聖書研究をしています。そのわざが実を結んだことは,アビジャンでの大会に1,003名が出席したことによって示されました。それら出席者たちは,アビジャンを訪れたアメリカからの訪問者による励ましや,また彼らとの親しい交わりを得てとても喜びました。
ガーナのアクラとクマシ
かつて「黄金海岸」と呼ばれたガーナは今なお金やダイヤモンドを産出しますが,主要な輸出品は,ココアやチョコレートの原料になるカカオです。世界最大の人工湖,レイク・ボルタはガーナの中東部に位置しています。首都のアクラと2番目に大きな都市クマシがこの国での二つの大会開催地となりました。ガーナでは50以上の言語や方言が話されています。しかしおもに使われているのは,ツイ語,エウエ語,およびガ語を含む六つの言語で,英語が公用語になっています。
訪問者たちは,男女ともに身にまとっているケンテ織りの,美しく明かるい色彩の上衣を鑑賞しました。また,「アフロ」というヘヤースタイルがアフリカで一般的なスタイルでないことを知りました。たとえばガーナの女性は髪の毛を二つに分けてそれぞれの束を黒い糸でぐるぐる巻き,短いおさげのようにします。各のスタイルに従って,「トウモロコシの列」とか「母親のポップコーン」,「Y形」その他の名前が付いています。
ガーナには14,363名の活発なエホバの証人たちからなる,289の会衆があります。アクラ競技場では14,526名の群集が二日目のプログラムに出席し,M・G・ヘンシェルによる,「神の王国の方法によって人類を救う」と題する公開講演を聞きました。最終日にはN・H・ノアが閉会のことばを話し,近い将来,「ものみの塔」誌が外国から郵送されず,ガーナにおいて三つの言語で印刷されるようになると発表し,大会出席者を喜ばせました。
ガーナのクマシの大会に出席した北アメリカの代表たちは,自然にわき起こった歓迎に深く感動させられました。彼らが2台のバスを連ねて到着すると,1万8,000人の出席者から喜びの叫びと拍手がわき上がり,何百人もの人が列をなして握手を求め,個人的に訪問客を歓迎しました。クマシでの公開講演には24,960人がスポーツ競技場を埋め,662名の新しい奉仕者がバプテスマを受けました。
トーゴのロメ
トーゴはガーナとダホメーにはさまれた国で,幅64㌔の海岸を持ち,海岸から590㌔内陸にはいっています。この国の首都ロメにおける大会は,結局わずか1日だけ開かれたに過ぎませんでしたが,それでも大成功を収めました。第1日目の夜,約4,000名の人々が集まって,トーゴの人が演じる聖書中のエステル書に基づく劇を見ました。トーゴ全土で活発に働くエホバの証人はわずか1,638名にすぎないという事実を考えると,この出席者数はきわめて注目すべきものです。
残念なことに,初日のプログラムが終わった時,保健局はコレラがまん延する恐れがあるとして,証人たちが大会出席者をコレラから守るための注意深い予防策を講じていたにもかかわらず,大会の中止を命じました。土地の証人たちは会場および必要な設備の準備に多くの時間を費やし,また,その多くはたくわえをすっかり使い,悪い道や小路を通って大会に来たのですが,自分たちが見聞きした事柄や交わりを楽しみ,幸福な気持ちで家に帰りました。
訪問した北アメリカの代表者たちは満足する
こうした事態に至って,北アメリカからの旅行者たちはどんな事柄を目にしたでしょうか。人々が愛を持ってほんとうの一致のうちに,ともに働くことのできる基礎がありますか。ある人は次のように書いています。『トーゴで大会が中止された後,兄弟たちは帰ろうとしませんでした。彼らは二日目に来ることになっていた訪問者たちを,どうしても出迎えねばならなかったのです。兄弟たちはその日一日中,夜まで支部事務所にやって来ました。そして5時に訪問者のバスが到着すると,いっせいに歌をうたい,ひとりひとりに手を差しのべて歓迎しました。兄弟たちのあいだになんとすばらしい愛が見られたのでしょう。訪問者たちはそうした愛に胸を詰まらせ,眼に涙を浮べなかった人はひとりもいなかったと思います』。
ダカールの大会後,訪問者のひとりはこう述べました。「ダカールはわたしたちの思いと心臓に深い印象を与えました。なぜならわたしたちは使徒行伝 17章26,27節で使徒パウロが述べている事柄を以前よりもいっそう深く理解できたからです。[『そして,(神は)ひとりの人からあらゆる国民を造り出して,時節を定められた。これは人々が神を求め,神をさがし尋ねて,ほんとうに見いだすためである。事実神はわたしたちおのおのから遠く離れておられるのではない』]。真理の種はこの地にまかれつつありますから,わたしたちはこの土地の人々がエホバを求める時,そのすべての上にエホバの豊かな祝福があることをお祈りします」。
旅行者たちはそれで全旅程を終えたわけでなく,アフリカの他の国々をも訪問しました。彼らは17万5,000人を優に上回る人々が平和のうちに集まっているのを見,幾千名もの人々と語り合い,何百名もの人々と個人的に親しくなりました。しかもそれらすべての人々の間に,同様な一致が見られたのです。あらゆる民族集団に属する人々が聖書の真理に基づいて一致を見い出し得ることに十分な満足を覚えて,旅行者たちは帰途に着くことができました。
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アフリカの大会に出席するため,セネガルのダカールに到着した北アメリカからの訪問者たち
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リベリアのモンロビアで演じられた聖書のエステル書に基づく劇
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上: ガーナのアクラでバプテスマを受けた662名の中の人たち,下: セネガルのダカールでは25名がバプテスマを受けた