ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔72 9/1 541–543ページ
  • 「メディア人ダリヨス」とはだれか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 「メディア人ダリヨス」とはだれか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
  • 関連する記事
  • ダリウス
    聖書に対する洞察,第2巻
  • ダリウス ― 正義感のある王
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
  • ライオンの口から救い出される
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
  • ライオンの穴に入れられたダニエル
    聖書から学べる大切なこと
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
塔72 9/1 541–543ページ

「メディア人ダリヨス」とはだれか

聖書はあるダリヨスという人物が「メデア人アハシュエロスの子」であることを述べています。(ダニエル 9:1)彼はおよそ62歳のとき,クロスの軍勢によるバビロン征服に続いて,カルデヤ人の王ベルシャザルの王国を継ぎました。―ダニエル 5:30,31。

メデア人ダリヨスの治世に預言者ダニエルは政府の高い地位につけられました。後に,ダリヨスがダニエルを首相にしようと考えていたころ,他の高官たちが策略をめぐらしたため,ダニエルはライオンの穴に投げ込まれる破目にあいました。しかし,ダニエルは奇跡的に救い出され,逆に,陰謀家たちとその家族がライオンの穴に役げ込まれました。次いでダリヨス王は,「我国の各州の人みなダニルの神を畏れ敬ふべし」という趣旨の布告をその全土に発布させました。―ダニエル 6:4-27。

ところが,聖書に収められている情報を別にすれば,メデア人ダリヨスについては何一つ明確に知られてはいません。その名前すら古代の碑文には出ていません。それで,ダリヨスははたして実在の人物であろうか,聖書以外の資料にはどうして彼のことが出ていないのだろうか,別名で知られていたのだろうかというような疑問が生じます。

古代の歴史的文書の中でダリヨスは別名で出ていると考える学者もいますが,その認定の仕方はしばしば聖書の詳細な点とは合致しません。ダリヨスをクロスの子カンビセス2世と同一視しようとする学者もいますが,その考え方は,バビロン崩壊のとき,ダリヨスは「62歳」だったという点と合いません。同様に,ダリヨスはほかならぬクロスの別名かもしれないとする見方も,ダリヨスの父がメデア人だった事実と一致しません。聖書は確かにクロスを「ペルシヤ人」と呼んでいます。(ダニエル 6:28)その母は(古代のある史家の主張のように)メデア人だったかもしれませんが,クロスの円筒印章によれば,その父はペルシヤ人のカンビセス1世です。

また,ダリヨスをギリシアの史家クセノフォンの述べる,クロスの「おじ」と考えられる人物,「アスチュアゲスの子キャクサレス」と同一視する学者もいます。しかし,アスチュアゲスがキャクサレスという名の息子を持っていたかどうかは疑問です。史家ヘロドトスは,アスチュアゲスは息子をもうけずに死んだとしているからです。

さらに近年になって,幾人かの学者はダリヨスを,メデア・ペルシヤによるバビロン征服後,その都の総督となったグバル(ゴブリアス)と同一視する見方を支持してきました。それら学者の提出する証拠は基本的にいって次のようなものです。

ナボニドス年代記はクロスのバビロン入城について述べたのち,「彼の総督グバルはバビロンに(副)総督たちを任じた」としるしている。他の楔状文字のテキストは,グバルが基本的にいってそれ以前のバビロニア帝国を包含する地域を支配したことを示している。メデア人ダリヨスは,『カルデヤ人の王とされた』と言われているが(ダニエル 9:1),クロス王をさす場合のような通常の名称,「ペルシヤの王」とは呼ばれていない。(ダニエル 10:1)したがって,グバルの治めた地域は少なくとも,ダリヨスの治めた地域と同じだったと考えられる。

グバルは一度も「ダリヨス」と呼ばれてはいないので,「ダリヨス」というのは彼の称号もしくは王位の名称ではないかとする見方もあります。グバルのことを「王」として述べている楔状文字の刻板は一つもないとする反論に対しては,グバルをダリヨスと同一視する考えの支持者は次の事実を指摘します。つまり,ベルシヤザルは父ナボニドスから王権を委任されましたが,グバルの場合と同様,楔状文字の刻板の中ではベルシヤザルは王という称号で呼ばれてはいないということです。

これに類することとして,ホウィトコーム教授は,ダニエル書 6章1,2節ではダリヨスが『その国に百二十人の牧伯[総督の意]を立てた』としるされているとおり,グバルが「バビロンに(副)総督たちを任じた」ことに注意を促しています。この理由で同教授は,総督中の総督としてグバルは部下から王といって呼びかけられたと考えられると結論しています。―「メデア人ダリウス」31-33ページ。

前述の事がらと一致して,ある学者たちは,メデア人ダリヨスはおそらく,最高の君主クロスの部下としてカルデヤ王国を治めた副王であったと考えています。この見方を支持する人たちは,ダリヨスが「その国を〔受けた〕」,また「カルデヤ人の王とせられ」たと述べられている事実を指摘し,それは彼が確かに上位の君主の部下であったことを示す証拠であるとしています。―ダニエル 5:31〔新〕; 9:1。

ダリヨスを認定するこの見解は理にかなってはいますが,決定的なものとはみなせません。歴史上の記録にはグバルの国籍や血統に言及したものがないため,グバルがまさしく「メデヤ人」で「アハシュエロスの子」であったかどうかを確証する根拠がありません。また,ダニエル書 6章6-9節には,ダリヨスが30日の間,彼以外のいかなる神また人間に祈願することも不法行為とみなすという布告を定めるほどの権威を持っていたことが示されていますが,歴史上の記録にはそのようなことはしるされてはいません。さらに聖書によれば,ダリヨスの統治は短く,その後クロスがバビロンに対する王権を執ったことを示しています。(ダニエル 6:28; 9:1。歴代下 36:20-23)ところが,楔状文字の刻板によれば,グバルは14年間その地位にとどまりました。

メデヤ人ダリヨスがだれであったかを今確定できないからといって驚くにはあたりません。近東で出土した楔状文字の刻板は何万枚にものぼりますが,それら刻板の示す歴史は,さまざまの間げきや空白があって,非常に不完全なものです。また,(ヨセフスが引用しているように)史家ヘロドトス,クセノフォン,クテシアス,ベロッソスなどの記録は,クロスの治世およびバビロン倒壊前後のできごとに関しては,みなまちまちで,種々の点で互いに食い違っています。

ダリヨスに関する情報がこのように入手できないもう一つの強力な理由は,ダニエル書そのものの中に見られます。ダリヨスがダニエルを優遇し,その王国内の者すべてに「ダニエルの神を畏れ」るよう命じたことは,バビロニアの祭司たちの不満と憤りを買ったに違いありません。そして,書記たちはそれら祭司たちの指図のもとで歴史上のできごとを記録したのです。ですから,ダリヨスの治世は比較的に短かったにしても,その記録が後に書き変えられ,彼に関する証拠事実が抹殺されたとしても不思議ではありません。当時の歴史を見ると,ほかにも同様の処置の取られた例が知られています。現代でさえ,ある土地ではそのようなことが行なわれています。

もとよりメデア人ダリヨスの史実性は一般の歴史上の資料証拠の有無には依存していません。聖書の歴史的確実性は,追加される発見物によって再三立証されており,それは,しばしば矛盾する一般の歴史の記録とは著しい対照をなしています。アッシリア学者D・J・ワイズマンがダリヨスに関するダニエルの記録について述べたとおりです。「……その叙述はどうみても純粋の歴史的記述といえよう。この時期の歴史上の記録の多くが欠損していることからして,この史実を退ける理由はない」― 新聖書辞典,293ページ。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする