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マルコ 注釈 1章新世界訳聖書 (スタディー版)
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すぐ: ギリシャ語エウテュスはマルコ 1章に11回出てくるが,ここはその最初の箇所。(マル 1:10,12,18,20,21,23,28-30,42,43)このギリシャ語は,文脈に応じて,「すぐ」,「すぐに」,「直ちに」などと訳されている。マルコは,自分の書いた福音書でこの語を40回以上も使っていて,緊迫感のある生き生きとした記述になっている。
天: マタ 3:16の注釈を参照。
天が分かれて: 神は,イエスが天の事柄を認識できるようにしたようだ。この時に,人間になる前の記憶も思い出せるようにしたのだろう。バプテスマ以後のイエス自身の言葉,特に33年の過ぎ越しの晩の親密な祈りは,人間になる前のことをイエスが知っていたことを示している。また,天で見聞きした父の言葉や行動,受けていた栄光を思い出していたことも示している。(ヨハ 6:46; 7:28,29; 8:26,28,38; 14:2; 17:5)バプテスマを受けて任命された時にこうした記憶がイエスによみがえったのだろう。
ハトのように: ハトは神聖な目的で用いられ,象徴的な意味もあった。犠牲として捧げられた。(マル 11:15。ヨハ 2:14-16)潔白や清浄の象徴だった。(マタ 10:16)ノアの放ったハトがオリーブの葉をくわえて箱船に戻ったことは,洪水の水が引いたこと(創 8:11),休息と平和の時が近いこと(創 5:29)を示していた。それで,イエスのバプテスマの時,エホバはハトを使って,イエスのメシアとしての役割に注意を引いていたと思われる。清浄で罪のない神の子が人類のために命を犠牲にして,王として治める休息と平和の時期の基礎を据えるのである。神の聖なる力つまり神の送り出す力がバプテスマを受けたイエスの上に下ってくる様子は,ハトが止まり木に舞い降りる時のようだったのかもしれない。
上に: または,「中に」。その場合,イエスの中に入ったということ。
見た: ヨハ 1:32,33から分かるように,バプテストのヨハネも見たが,マルコはイエスの視点で書いているようだ。
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