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コロサイものみの塔出版物索引 1951-1985
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2:18 塔85 7/15 10-20; 塔83 4/1 28; 塔78 7/15 18-19; 塔74 433; 塔64 754; 目64 1/22 6; 塔61 293-294; 塔52 149
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コロサイ 注釈 2章新世界訳聖書 (スタディー版)
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見せ掛けの謙遜さ: こう訳されているギリシャ語は単に,「謙遜さ」や「へりくだった考え」を意味する。しかし,パウロはこの節の後半で,偽りを教える人が「思い上がって」いると述べていて,ここで言っている謙遜さが本物ではないことを明確にしている。本当の謙遜さについては,使徒 20:19の注釈を参照。
見せ掛けの謙遜さ……を好む人: パウロはここで,偽りを教える人たちについて警告している。その人たちは謙遜に見えることを好んだ。中には,神からの好意を受けるかどうかは,制限を守ることに懸かっていると主張する人もいたようだ。それは自ら勝手に課した制限だった。彼らは,物質的なものを放棄したり,特定の物を食べなかったり,宗教的な日を祝ったりしていた。どれもクリスチャンには求められていなかった。そうしたことを行う人は謙遜に見えたかもしれないが,実際には「罪深い考え方」によって「思い上がって」いて,他の人たちから称賛を得るために信心深そうにしていた。(マタ 6:1)
天使の崇拝: パウロはこの崇拝について詳しいことは述べていない。ギリシャ語の表現からは,いろいろな可能性が考えられる。例えば,コロサイの一部の人たちは,天使が行う崇拝をまねようとしたり,天使の恭しい態度に倣っていると考えたりした。または,助けや保護を求めるなど,天使そのものを崇拝していた。天使崇拝が後代にコロサイ地方で,いわゆるキリスト教や異教で行われていたという証拠がある。4世紀にラオデキアで,教会の権威者たちがそのような崇拝をとがめたが,その後100年は続いた。いずれにしても,エホバの忠実な天使は崇拝されることを拒む。(啓 19:10; 22:8,9)パウロはここで,そのような崇拝には「見せ掛けの謙遜さ」がしばしば伴うことを述べている。(この節の見せ掛けの謙遜さに関する注釈を参照。)クリスチャンが創造物を崇拝するなら,永遠の命の「賞を得られなくなる」。(マタ 4:10。ロマ 1:25)
崇拝: ここで使われているギリシャ語(トレースケイア)は,正しいか間違っているかを問わず,「崇拝の方式」を指すと理解されている。(使徒 26:5)同じ語がヤコ 1:27に出ていて,本文で「崇拝の型」,脚注で「宗教」と訳されている。ヤコ 1:26では「崇拝」と訳されている。
自分が見たものの「上に立ち」: または,「自分が見たものに固執し」。ここでパウロは,偽りを教えるある人たちが取った立場を表現しているようだ。「上に立ち[直訳,「踏み入り」,王国行間逐語訳(英語)]」という表現は,見たと主張する事柄を詳しく説明したことを意味したのかもしれない。パウロは,秘儀(入信の儀式など)か,偽りを教える人が与えられたと主張する幻のことを言っていたのかもしれない。いずれにしても,その人たちは,自分たちの知恵がクリスチャンの兄弟たちの知恵より優れていると感じていたようだ。それを権威の根拠にした。そのような人は,会衆は神の子以外の知識や知恵の源に指示を仰ぐことができると主張していた。それでパウロは助言を与えている。コロ 2:3の注釈を参照。
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