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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
塔54 5/1 166–171ページ

神の記憶

『これを怪しむな。記憶の墓にいる者が,みな彼の声を聞いて,出てくるときがある。』― ヨハネ 5:28,29,新世。

1 人間についての神の最後の目的は何ですか? それはどのように実現されますか,しかし何に依りますか?

完全な人は,栄光ある創り主の完全な反映です。地上で人間の生命が始まつた時は,そのような状態でした。そして,『聖なる都,新らしきエルサレム』の統治の下に,神が人類と再び住まわれる時に,再びそのような状態となるでありましよう。そして,すべてのものは新しくされ,各人の命の型のあらゆる不完全を取り除かれ直されるでありましよう。その時に,この新しくされた地上に住む人は誰でもその造り主の像を完全に反映します。丁度清いしずかな水の池が,夕空や,また周囲の岩と木の葉のこまかいところまできれいに反映するようです。その時を今幻しに思いうかべ,待ち望むことは価値ある良いことです。しかし,それは他のことにもまさつて神の記憶に依るのです。黙示 21:2-5; 22:1-3。

2 いまは裁きの日であると悟ることは,どのように私たちに影響しますか?

2 あなたはこのようなことを考えてはなりません「ああ,だがその日まではまだまだ長い。そして現在の悪い組織制度と腐敗した影響に私は束縛されているように感ずる。』この記事の目的は,あなたを助けて現在が裁きの日であり,また新しいの社会の成員として,新しい天と新しい地にあなたの生活の型を一致させることはできることであり,そしてそうするのは現在においてひじように大切なことであるとあなたに認識させることなのです。現在は神の義しい聖なるみ意と目的を支持するか,あるいは反対するかということの決定の時であります。前にのべました栄光ある幻しを見たすぐ後に,ヨハネは次のように言いました『定められた時は近づいている。不正を行う者は,なお不正をさせておけ,そして汚い者はなお汚いままにさせておけ。しかし義しい者にはなお義しいことを行わせ,聖なる者はなお聖であれ。』― 黙示 22:10,11,新世。

3 私たちの研究についての基礎はどこにありますか?『生命の型』という言い表わし方は,どのように理解されますか?

3 それでも,いろいろの事は反対していると,あなたは言いますか? そして,そのすべてのことは神の記憶に依ると述べられたことにあなたは驚いていますか? 答えをするために,そしてまたこの教えと関係するすべての問題を正しく理解するために,ヘブル書 11章に書かれている使徒の論議を用い,彼の見地に基いて研究をいたしましよう。この章はすばらしい定義をのべているものであり,また信仰の記録でありますので,多くの読者は良くご存知でありましよう。しかし,それだけにかぎらず,その章の中には,神の記憶についての,この題のもつとも大切なことと,また私たちの命の型の事柄についての大切なことも組み込まれています。「命の型」という言い表わし方は,あなたの現在の性格とあなたの生活しているその生活の種類を意味するものです。あなたの生活は,あなたを導くある原則によつて支配されるか,あるいは今日の多くの人に見られるように,なんの原則も持たず,ただ世間一般の流れとともにおし流されてゆくかでありましよう。

4 (イ)私たちは誰に信仰を持ちますか?(ロ)ヘブル書 11章にはどんな報いが書かれていますか?

4 ヘブル書 11章で,使徒はひとりひとりの名前の前に,『信仰によつて……』という言い表わしかたで紹介をしているということに,お気づきでしよう。それから,使徒は各人の強い信仰を証明する記録された証拠を続けて書いています。しかし,その信仰とは誰にたいするものであり,何にたいするものですか? これは,いま私たちが関心を払う質問です,そしてパウロは次のように言つて答えています『神に近づく者は,神が存在されるということと,彼を熱心に求める者には,報いを与える方であるということを信じなければならない。』(ヘブル 11:6,新世)このことは,神が存在されるという事実を認めるだけではなく,神は永久に存在される永遠自存の方であるという事実を認めることをも意味します。それとともに,神を熱心に求める者には,報いが与えられるという約束にも人は信じなければなりません。そして,神は永久に存在されるのですから,神に認められうけいれられる人は,その報いを永久に楽しむということは,まつたく理のかなつたことです。それでは,その報いとは何ですか? 使徒パウロは,このことについては,同じ章の少し後のところで良く説明をしています。信仰を持つていたすべての人はどのように『より良い場所,すなわち天に属する場所を待ち望んでいた』か,そしてまた神は『彼らのために都を用意されている。』とパウロは語つています。同じ手紙の後の方で,その都は『生きている(自存している)神の都,すなわち天的エルサレム』であるとはつきり表し示しています。(ヘブル 11:16; 12:22,新世。黙示 21:2をも見なさい)このことによつて,聖なる型が最後的に完成されるのを私たちの心は見ることができます。同時に私たちは古い過去にも結びつけられています。なぜならば,アベルは真の信仰を表わした者の初めの者であるとパウロは書いているからです。古い過去と遠い将来をこのように結びつけることに,記憶と型がひつようになるのです。これらの二つの言葉,記憶と型はひじように関係しあつている言葉ですので,この点をかんたんに論議してみましよう。

5,6 (イ)記憶はどのように不思議な能力のように見えますか?(ロ)それはどのように貴重な賜物ですか?

5 記憶とは何ですか? 記憶とは精神の能力であつて,それによつて以前の考えとか印象を心に保ち,思い起すことができます。記憶がどのように人間の頭脳の中で作用するかということに強い関心をはらう必要はありません。実際に,科学的な答えもはたしてどの程度まで,確かなものかどうか疑わしいものです。良く知つている人なのですが,その人の名前が思い出せないとか,あるいはまちがつた名前を言うような時,私たちは多く記憶の不完全と不十分なことを悲しみなげきますが,それでもこの記憶という特別の能力の非常な力と可能性に驚かざるをえません。私たちは不完全ですが,それでも記憶ということについて人間の心は何をすることができるかと考える時,全く驚くほどです。例をあげるならば,才能ある音楽家は他の能力とともに彼の心を用います,そして何時間もピアノの所に坐り演奏しますが,最もこみいつた音楽を正確に思いだし,發表するのです。しかもその音楽はすばらしい調和を保つものなのです。よく考えてみると人間が完全な状態にもどる時には,人間の欲するもの,そして記憶しようと決定するものはすべて完全に記憶することができる能力を人間は制限なしに楽しむでありましよう。これと反対に,心からなくしてしまおうと欲するものをすべて,人間は考えて忘れることができるでしよう。完全な人間は,『ああ,記憶できればなあ!』とも『忘れることができればなあ!』など言う必要はありません。そしてその日がすぐきてもらいたいというのが,私たちすべてのものの願いです。

6 記憶はすばらしい賜ものですが,そればかりではなく,記憶はまた非常に貴重な賜物です。しかし,それにはもちろん,貴重なものを私たちは持つていて記憶するということが条件です。今の状態の下であつても,私たちは記憶の助けをうけて,ある特別の幸福な経験を思いおこし,回想する時に,非常なたのしみとよろこびを得ます。ある人と会つて,真の友情がもたらす非常なよろこびをその人と,初めて経験したのは。たぶん昔しの記憶でありましよう。また読者の多くは,ヱホバのすばらしい目的とご親切なご準備についての正確な理解をまつたく認識した時を良く記憶しているでしよう。そうです,そのような記憶は強く,そしてやさしく私たちの心と気持の奥底までゆすぶるほどに強く訴えるものです。そのような記憶は,私たちの唇の上に幸福なほほえみをもたらすか,或は思わず目に涙をうかばせるようなものでありましよう。ご親切な創造主がくださつたこの愛ある賜ものを是非とも十分に感謝いたしましよう,そして賢く用いましよう。

7 神の目的についての最も良い導きはどこにありますか? その導きは私たちに何を見させますか?

7 しかし,神の記憶についてはどうでしようか? 創造主の心がどのように働き,その機能と能力がなんであるかなどと人間が論議するのは,僭越なことです。創造主ご自身がよろこんで人間に与え,知らせられているものだけを人間は論議することができます。彼は人間に与え,知らせていますか? まちがいなく,彼はそうされています。創造されたものの目に見える業でさえも,果てしない創造主の能力と智慧と心を雄弁に証明しています。使徒はこのように申しています『神の見ることのできない性質,すなわち永遠の力と神なることとは,世の創造の時以来,造られたものによつて理解することができ,明らかに見られる。』(ロマ 1:20,新世)しかし,人間家族についての神の目的をより多く十分に神が示されているものは,彼の書かれた言葉の中にあり,そしてその言葉によるものです。またそれと兼ねてその言葉によつて,私たちは神の心がどのように働くかを知ることができます。始めに,人間を創造した記録に,神はこう言われました『私たちの様子にしたがつて,私たちの像のように,人間を造ろう。』(創世 1:26,新世)それは精神能力において,そして考えることと,記憶という点において,その様子が似ているということを確かに意味するものです。じつさいに,聖書に書かれている最初の会話は,記憶の試験にも関係がありました。蛇はエバに言いました『神が……を言つたのは全くその通りであるか?』 そして,エバは答えて神の言つたことを彼女は記憶し,理解し,完全にくり返して言うことができると示しました。―創世 3:1-3,新世。

8 その目的に関係する神の記憶について聖書は何を示していますか?

8 さて,神の記憶についてのこの問題をヘブル書 11章で論議されていることがらの見地から研究いたしましよう。その章で,パウロは信仰をもつた男と女の長い表を書き,そしてそれらの者たちが共に信仰をもつた報いのことを語つているのを,私たちは記憶しています。この報いは,天てきな都を中心としていました。しかし,信仰を持つた最初の人アベルに,都のことについて何か言われましたか? いいえ,言われませんでした。しかし,アベルの時代に,神は彼の最初の約束をすでに与えられていました。その約束とは,都の約束ではなくて,最後には蛇の頭を砕く女の裔についての約束でした。(創世 3:15。ロマ 16:20)聖書に書かれてあるこの主題を研究いたしますと,神はその最初の約束をつねに心にとめられているという事実は一番はつきりと示されています。そればかりではなく,その約束が最後にはどのように成しとげられるかということを,神ははつきりと知つており,決心していました。彼は自らこう語られています『私はヱホバである,私は終りのことを初めから語り,私のような者は一人もいない。……私の意見はなしとげられ,私のすべの喜びをする。』(イザヤ 46:9,10ア標)このすばらしい神の言葉は,神の記憶はけつして偶然な仕方で働かないということを示します。私たちの場合ではしばしば,ある事柄が私たちの記憶を早めるなどいたしますが,それはある密接に関連したことがらに私たちが注意をむけるからです。しかし,神の記憶はそのようなものではありません。神は終りのことを初めから知つており決心しておられると言う時,神はそのことをいつも気にとめておかれそのことについて常に考えられ,記憶されているということを意味します。それはまた,他のあることをも意味します。すなわち,彼は目的を立てられ,そして企画をされる神ということを意味します。ここで,私たちが興味を持つている他の言葉,すなわち『型』という言葉が必要となります。

型

9 『型』という言葉は聖書でどのように用いられていますか? それは何という他の言葉と関係がありますか?

9 型は,写してある導きとして,または雛型として役立つよう形造られているか,設計されているものです。型という言葉は,『模型』という言葉とその意味は似ています。『模型』という言葉は,将来にくるあるものの形または代表物を示します。『型』という言葉は,聖書の中に二,三度表われています。その使用についての良い例は,ヘブル書 8章に見出されます。その章で使徒はイスラエル人の祭司たちと幕屋の制度のことを話し,こう言つています『人々は,天にあることの模型の代表と影にあつて,聖なる奉仕をささげている。というのは,モーセが完全な幕屋を作ろうとした時に,神から次のように命ぜられたからである「お前に山で示した型(欄外,模型)に従つてすべてのものをつくるようになさい。」』(ヘブル 8:5)それから,パウロはひき続いてその型,または模型の成就について説明を続けています。彼は型とその成就との間の密接な調和を示していますが,同時に成就は型よりもより良く,より大きいことを示しています。じつさいに,ヘブル人への手紙の全部は,この論議の形式にもとづいています。

10 (イ)型はいつも何を含みますか?(ロ)これは,私たちの研究の題にどのようにあてはまりますか?

10 一つの型,または模型ということを話す時には,いつもそれには特別の目的または企画が結びつけられているということを注意してください。最初に,型そのものは偶然にまかされて作られているのではなく,ある目的にしたがつて作られているということです。それから,その希望した目標を全く達成しようと強く期待しながら,行うあらゆる順序と,関係するあらゆる仕方は,原の型と全く一致調和していなければなりません。つけ加えられたり,又大きくもされましようが,しかしすべてのものは最初の型と,それに結びついている目的とに調和していなければなりません。このことは,私たちがいま論議していることについて,なんと真であるかを見てごらんなさい。この場合,最初の型はある目に見える物質のものではなくて,エデンで与えられた裔についての約束の言葉でした。アベルの時にそれだけの約束しかありませんでしたが,彼はそれを信仰の基いとして持ちました。そして,それは十分でした。その時よりこのかた,神はいろいろと約束をつけ加えて与えられましたが,すべては最初の約束と調和しており,最初の約束の発展でありました。それから,パウロはヘブル書 11章で,永遠に存在される唯一人の真の神に同じ信仰を持ち,そして原の約束が全く成就される時に与えると神の約束されたすばらしい報いに同じ信仰を持つた人々を記しましたが,パウロはそれらの人々を一つの連続せる鎖に正当に結び合わせることができました。『都』という主題は,つけ加えられた主題であつて,時がたつにつれて型として用いられたことは真です。しかし,調和はたやすく見ることができます,なぜならばその都は神の支配する制度と政府を象徴していますが,その都の王は,ほかの者ではない約束された『裔』,すなわち神の女が産むところの神の子,王イエス・キリストであるからです。

11 ヘブル書 11章に録されている者たちとクリスチャンたちはどのように密接に結ばれていますか?

11 また,その連続せる鎖は,キリストのくる前に生活して死んだ信仰の人で終つていないことに注意してください。その鎖は,キリストに従う者たちおも結びつけているのです。そしてキリストは証者のすべての群の中心であり,要点であります。前に述べてありますが,この点において,この研究は,現在の決定の時に生活している私たちを助けて,正しい手本に私たちの生活を従わせる必要を認識させるものです。その鎖りの中に書かれている人と『私たちを取りかこんでいる雲のような証者』から得るすべてのはげましと,忠告のほかに,『私たちは,信仰の指導者であり,完成者であるイエスをしつかりと見つめる。』(ヘブル 12:1,2,新世)そうです,彼等と同じ信仰を私たちは持ち,同じようにその信仰を表わし同じ都を期待して頼らねばなりません。アブラハム,イサク,ヤコブのように,現在の悪い組織制度とその腐敗している影響の中にあつて,私たちは『他国人,一時的に住まう人』であると自らを証明しなければなりません。『なぜならば,ここには永続する都を私たちは持つていない。私たちは将来にくる都を熱心に求めているのである。』― ヘブル 11:13; 13:14,新世。

12,13 (イ)その目的についての神の記憶と型は,彼の御名と言葉にどのように関係がありますか?(ロ)パウロの言うことは,ただ一つの面だけで信仰を強めますか?

12 それですから,信仰の問題についてのパウロの論議は,神の確かな記憶と,そして神がいつも心に留めておられる神の目的の調和せる型について明白に説明し表わしているものです。実は,神の御自身の御名そのものがこれと同じことを強く強調しています。神の御名であるヱホバという名は,神の与えた型が完成するということに正しく信仰を持つことに対して,最初の基いを与えるものです。彼は自ら次のように語られています『ヱホバである私は変ることはない。』ヱホバはいつも彼の契約を心に留めておられます。彼の言葉もまた,一人の造物主を表わし示しています。その造物主は,糸をどのようにたぐり,主題を順次にどのように取りあつかうかを知つています,そして栄光に輝く,調和のある型を織りだします。その概略は簡単でありますが,その中に織りこまれた詳細においては複雑なものです。―マラキ 3:6。創世 9:15,16。レビ 26:42,45。エゼキエル 16:6。

13 しかしパウロの論議は,神の目的についての神の記憶に信仰を持つよう私たちを大きくはげまし,支持するばかりではありません。それ以外の他のものに信仰を持つ強い基いを与えるものです。それは何ですか?

復活に信仰を持つ

14 (イ)復活を信ずることは,真の信仰を必要とするとイエスは示しましたか?(ロ)キリスト教国の教えは,どのようにこの教理に違反していますか?

14 『記憶の墓にいるものが,皆彼の声を聞いて出てくるであろう。』というすばらしい発表をイエスがした時,『これを怪しむな』という言葉を前につけたのは,理由のないことではありませんでした。(ヨハネ 5:28,29,新世)聖書に教えられている復活を信ずることは,信仰についてもつとも厳しい試験の一つであるとイエスは良く理解していました。もちろん,キリスト教国が一般に復活の教義を説明している仕方によれば,真の信仰を持たなくても良いものです。それですから,一般大衆は聖書の真理よりもキリスト教国の教えの方をうけ入れるのです。普通一般の教えによると,人間は不滅の魂であるところの真の自我を持つているのであつて,死は生命からの中止または切断を意味するのではなくして,むしろより全き生命に導く戸口を意味するというのです。しかし,そのような教えをうけ入れるならば,復活の意味は単に体と魂の再結合にすぎないということになりましよう。この復活という問題について,キリスト教国の偽りの教えと論争するために,聖書からの証明を書いて述べるのは,この研究における私たちの目標ではありません。その種の問題は,この雑誌の以前の号や,ものみの塔協会の他の出版物の中に十分研究されています。神の記憶についてのより良い理解と認識を得ることによつて,復活に対する信仰を強めること,そしてこのことは私たちの生活の型をどれ程強く影響するかを見るのが私たちの目的です

15 ヨハネ伝 5章28,29節の前後の文の関係から何が示されますか? 記憶の墓とゲヘナとの対照は何ですか?

15 イエス自身が,復活に対して非常に大きな信仰を持つていたことは疑いありません。復活ということは,イエス自身の考えと思いから生じたのではありません。死から甦えるという権威と力を含めて,すべてのほまれは彼の天的父にささげられるべきであるとイエスは認めました。死から甦えるとは,再び生命に立ちまたは起きることであつて,それこそ『復活』(ギリシヤ語でアナスタスイス)という言葉の本当の意味です。ヨハネ伝 5章19-27節を読む時に,このことは明白に判ります。28節と29節で最高潮がきます。特に『記憶の墓』と言われていることに注意しなさい。これは,他の場所である『ゲヘナ』とは全く対照をなすものです。ゲヘナでは,刑を執行された罪人の死体が投げこまれました,なぜならば彼等は死から復活をうけるにはあまりに卑しいと考えられましたので,鄭重な埋葬もされず,記憶の墓も持つていませんでした。

16 (イ)イエスは,伝道之書 9章5,10節と一致しているとどのように言いましたか?(ロ)ヨハネ伝 11章25節でイエスの述べたことはどのように正しいと判明しましたか?

16 イエスは『記憶の墓』という言葉を用いましたが,このことは伝道之書 9章5,10節(ア標)に書かれてある霊感の記事とイエスは全く同意していることを示すものです。こう書かれています『生きている者は,死ぬことを知る,しかし死んでいる者は何も知らない,……お前が行くシォール(墓)には,働きも,考えも,知識も,知慧もない。』そうです,シォールは人類の共通な墓であつて,その地上の生涯が終る時に人間が行くところです。彼の選ばれた多くの者たちをその記憶の中に留めることができる天的父の力と能力とにイエスは全き確信を持つていましたので,その当時一般に使われていた『記憶の墓』という表現をイエスは用いました。イエスは『私は復活であり生命である』と言いましたが,それは正しいことでした,というのは後になつてイエスは神の力によつて『すでに四日間記憶の墓にいた』ラザロを死から甦えらすという疑うことのできない証拠によつて,そのことを証明しました。イエスの友であるラザロが死ぬ前,イエスはそこに居らず彼の病気を治しませんでしたが,イエスはそのことを非常によろこびました。そのイエスのよろこばれた二つの理由にどうぞ注意してください。最初の理由は,『神の栄光のためであり,それによつて神の子が崇められるためである。』第二番目の理由は,『あなたがたが信ずるため』でありました。確かに,私たちは復活に強い信仰を持つべきであり,疑う理由は全くありません。―ヨハネ 11:4,15,17,25,新世。

17 ヨブは何を述べることによつて,復活への信仰を表わしましたか?

17 死んだ者たちをその記憶の中に留められる神の能力に,そのような信仰を持つことは,なにもイエスの時代に新しいものではありません。そのことはヨブについての昔の記録からはつきり示されます。ヨブの言葉は,ヨブ記 14章13節(ア標)に記録されていますが,信仰を表わすなんという立派な言葉なのでしよう『あなたの怒りが過ぎ去るまで,私をシォールに隠し,私を隠しておいてください。そして私に定めた時を指定し,それから私を思い起してください!』

18 死んだ者すべてが神の記憶の中に留められているかどうかということについて,聖書的な答えは何ですか?

18 すでに申しましたように,死んだ者すべてを,一人残らず彼の記憶の中に留めようとは神はいたしません。神はその御心を用いてある者を記憶しますが,また御自分の意志でもつて,他の者を忘れることができ,そして忘れるのであります。そのことをどのように決定するかについて,神御自身の言葉はこのように語つています『義しき者の記憶は祝福せらる。しかし,悪い者の名前はくさる。』― シンゲン 10:7,ア標。

19 復活への信仰についてパウロは特にヘブル書 11章でどのように論じましたか?

19 また使徒パウロも死んだ者の復活に強い大きな信仰を持つていたことも,同じように疑いありません。パウロも又,この復活という教理は信仰についての厳しい試験であるということを知つていました。そのことは,例えば,アテネに於ける彼の経験からも判ります。(使行 17:31,32)パウロの書いたものの中で,この復活という題は,非常に目立つているものです。例えば,よく知られているコリント前書 15章には,あの力強い論議が書かれています。またロマ書 4章16-25節(新世)で,パウロは父アブラハムの信仰について論議していますが,そこで『死んだ者を生かし,無いものをあたかも在るように呼ばれる』神に信仰を持つことはいかに大切であるかと示しています。しかし,使徒がヘブル書 11章で取り扱われている信仰の主題と,復活についての信仰の関係に,私たちは特別に関心を持つています。この章でもまた,パウロはアブラハムとサラの例を引用して,先ず約束された裔を産み出す神の力にたいする彼らの信仰について語つています。子供を産むということについて,一般常識で考えるならば,彼らは両方とも死んだも同様でしたが,しかし神の力に信仰を持ちました。それから,このヘブル書 11章に述べられているすべての人を含めて,パウロはこう言つています『信仰をもつて,これらすべての者は死んだ。』そして最後に,こう説明しています『彼らは約束の成就をうけなかつた,なぜならば神は,私たち(クリスチャンたち)のためにより良きものを先見せられて,そして彼らは私たちと離れては完成されないからである。』(ヘブル 11:12,13,39,40,新世)それですから,結論は疑いもなくこういうことになります,すなわち約束され,そして彼らのために用意されているその都で彼らを待つているものの成就を彼らが楽しむためには,是非とも死からの復活が必要です。

20 死んだ者の復活について,私たちは何故あやしむべきではありませんか?

20 あなたはこれを怪しみますか? そのようなことが起るということについては,全くなにも不合理のものはありませんし,不自然のものはありません。かなりの年輩になつた人が,おそらく学校の時以来聞かなかつたような人の名前が言われるのを聞くというのは,けつしてめずらしいことではありません。すぐにその人のことを想いだします,そしていわば,その人を心の目に再創造します。たとえば,その人がどんな風に衣服を身につけていたか,その人の顔つき,おおくの特徴やでき事などを想い出します。また,音楽家のことをも考えてください。音楽家は,楽符のついている一曲の音楽だけでなく,多くのしかも変化している音楽を何曲も正確に記憶し再現することができるのです。人間は多くの制限をうけており,また不完全ですが,その記憶という点については,すばらしい能力を持つているということを異議なく私たちは認めます。それでは,人間の心を造り,その心がどのように働くかを正しく知つておられる全能,無限の創造者に,その記憶に留められている者すべてを,記憶の墓より呼び戻し,再生する力がないなどと私たちは考えるべきではありません。そうです,各個人を形成するすべての特質と心の印象のすべてを神は記憶されているのです。パウロは適切にこう言いました『神は死人を甦えされるということが,どうしてあなた方にとつて信ぜられないと判断されるのか?』 ただ一つの答えしかありません。『これを怪しむな。』― 使行 26:8。ヨハネ 5:28,新世。

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