ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目74 3/22 16–19ページ
  • 仏教は人を啓発する道ですか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 仏教は人を啓発する道ですか
  • 目ざめよ! 1974
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 何についての「悟り」?
  • 涅槃への道
  • 仏教は人間の精神的要求を満たすか
  • 将来の希望はどうか
  • 仏陀の教えの起源
  • 仏教 ― 神なしに行なわれる悟りの探求
    神を探求する人類の歩み
  • ボロブドール ― 哲学を反映する石の建造物
    目ざめよ! 1972
  • 第8部 ― 西暦前563年ころ以降 ― 解放を約束した悟り
    目ざめよ! 1989
  • その考えが東洋の宗教に入り込む
    人は死ぬとどうなりますか
もっと見る
目ざめよ! 1974
目74 3/22 16–19ページ

仏教は人を啓発する道ですか

仏教はアジアにおいて発達し,信者も大部分は依然としてアジア大陸にいます。しかし最近は世界の他の場所でも仏教への関心が高まっており,多くの人が仏教を「悟り」への道として期待を寄せています。

仏教の基礎をなすのは,「仏陀」(「覚者」という意味)として知られるようになったゴータマ・シッダールタとその教えです。シッダールタ(悉達多)は西暦前6世紀にインドのある王族に生まれました。

まだ若かったころ彼は,すべての人が病気,苦悩,老衰,死という共通の運命を持つ事実を見て,心を悩ますようになりました。そして彼は王宮での生活を捨て,求道の旅に出る決意をしました。

ゴータマは6年間きびしい苦行を行ないました。この期間に彼は多くの教師や哲人たちと論じましたが,人生がなぜ不快な事で満ちているように思われるのか,その理由については満足のいく答えを得ることができませんでした。彼はどうしたでしょうか。

ゴータマはヒンズー教徒として成長し,精神統一の行を含むヨーガに通じていました。彼はめい想によって真理を探求する決意をし,菩提樹と呼ばれた大きなイチジクの木の下に座しました。彼の主張によるとここで彼は悟りを開き,仏陀となりました。

何についての「悟り」?

幾世紀にも渡って多くの追随者を引きつけてきた仏陀の悟りは,何についての悟りだったでしょうか。この質問に答える前に,西暦前6世紀のインドの人びとにかんする背景的資料を検討してみましょう。

仏典を研究する学者T・W・ライズ・デイビッズ教授は次のように指摘しています。

「国は政治面で多くの小王国に分裂し,その大部分は,狭量な専政君主によって支配されていた。多くの場合支配者の関心は,社会の人々の関心と同じではなかった。……不幸な者たちは,魂の輪廻という都合のよい教理を信じ,彼らの災いは前世における彼ら自身の行ないの当然の結果であって,今は避けることができないが,現在善行を積んでおけば,将来の存在状態においては逃れることができるかもしれないのだと納得していた。[彼らは]次に生まれてくるときにより良い運命を得ることを望んでいた」。

仏陀自身も,死後の魂の輪廻に対する信仰の影響を受けていました。彼はこれを基礎にして複雑な哲学を展開しました。一般に仏教徒は,転生は五つの異なる状態で起こると信じています。つまり(1)地獄において(八熱地獄,八寒地獄,そして他に小さな地獄がある),(2)動物として,(3)「餓鬼」(小さな口と大きな腹を持ち,飢えと渇きにさいなまれているゆうれい)として,(4)人間として,(5)神としての転生です。もちろん派によってはこの種々の「状態」をいくぶん違う順序で列挙するかもしれません。

仏陀は,一切がひとつの状態から他の状態へと絶えず変化している,と信じていました。常住不変のものはひとつとして存在しないと考えました。仏陀はその人生観を次のように言い表わしています。

「誕生は苦悩である。老衰は苦悩である。死は苦悩である。悲哀,悲嘆,苦痛,不幸,失意は苦悩である。欲しいものが手にはいらないことは苦悩である」。

仏陀の悟りは,果てしのない輪廻転生からいかにして脱出するか,ということと関係がありました。どうすればそれは可能ですか。

それは「四聖諦」,つまり四つの聖なる真理を認めることによります。これは次のように要約できるでしょう。(1)人生は一切皆苦。(2)苦悩の原因は温愛もしくは欲望にある。(3)欲望を滅すれば苦悩から解放される。(4)苦悩から脱出する道は,四つの倫理的教え ― 正しいことば,努力,行為,生活の営み ― および四つの精神的教え ― 正しい見解,願望,精進,めい想 ― から成る八正道を守ることです。

したがって仏陀の見解によると,人を転生のくさりにつなぐのは欲望です。そのくさりから逃れるためには,感覚を喜ばせるものに対する欲望を残りなく滅ぼさなければなりません。生存への一切の渇愛を超越しなければなりません。めい想はその境地にいたりつく手段と考えられました。

涅槃への道

仏陀が説いたのは,すべての注意をひとつの対象,身体の特定の部分,あるいはひとつの句またはなぞに集中する種類のめい想でした。そうしているうちに他の考えや感情や想像が思いから消滅するのです。そうしためい想によって,空中浮揚,遠くの人に自分の姿を見せる能力,精神感応力などを含む「超人間的特質」もしくは能力をさえ発達させた人たちもいます。めい想をする人は,苦痛や快楽に対して無関心となり,生もそれに伴う快楽も欲しない境地に達すると言われています。この境地に達した時に人は転生の必要から解放されたと言われます。その人は涅槃に達したのです。では涅槃とは何でしょうか。

梵語の教授ウォルター・E・クラークの説明によると,涅槃とは「人間の知識やことばでは達しえない,つまり表わしえない」状態です。それは「認識しうる世界の中のどんなものとも完全に異なるもの」です。これはあなたにとって望ましいものに聞こえますか。生にも気づかずまたそれを望みもしない状態が,人生において遭遇する詰問題の解決に役だつでしょうか。

仏教は人間の精神的要求を満たすか

人間は生来,神を崇拝しようとする欲求を持っています。ですからなんらかの形の宗教を常に有してきました。仏教は人間の精神的要求を満たせますか。宇宙はどのようにして出現したか,生命はどのようにして地上に存在するようになったか,なぜ悪が存在するのか,悪のなくなることが果たしてあるのか,といった質問に答えることができますか。

宇宙の起源については仏陀はこう言いました。「現象的存在の起源は人知では想像も及ばない。また,無知によって妨げられ,欲望のわなにかかっている人間の起源は発見できるものではない」。仏教書によると,宇宙は,古びた先の宇宙の離散した要素から進化したものです。現在の宇宙はやがて分解し,それから別の宇宙が生ずる,と仏教徒は信じています。

禅思想にかんする仏教哲学者,鈴木大拙は次のように強調しています。

「われわれ東洋人にとっては……神も,創造者も,物事の始まりも,『ことば』も,『ロゴス』も,『空』も存在しない。そう言えば西洋人は,『それは実にばかげたことである。全く考えられないことである』と叫ぶだろう。東洋人は,『あなたの言うとおりである。「思考」が少しでも存在するかぎり,あなたはジレンマかあるいは不条理という底のない穴に落ち込むのを逃れることはできない』と言うであろう」。[下線は本誌編集者]

あなたはこのことをどのようにお考えですか。人が思考力を用いるなら,それを『ばかげたこと』とするものを信じたいと思いますか。あなた自身の経験からみて,思考は「ジレンマもしくは不条理という底のない穴」にのみつながるものですか。思考を停止すると,人生の諸問題によりよく対処できますか。創造者はいないと言って証明できない進化論を信ずるのは実際に悟りと言えますか。そのような哲学は人の精神的要求を満たすことは決してできません。事実それは,古代における仏陀の追随者をさえ満足させることができませんでした。

アルバート・S・ゲデン教授は次のように説明しています。

「理想,もしくは愛と忠順の理想化された対象への人間の渇望は非常に強いものがあった。……その欲求は,[仏陀の死後]彼を神格化することにおいて満たされ,満足を得た。……彼とともにヒンズー教の神々が,もしくはそのうちのより重要でより人気のある神々が再び紹介されるようになった。しかしそれらは常に,属性と力の点で仏陀に次ぐものとされた。こうして自然神教的な理論体系は事実上の多神論となった」。

西暦の初めごろ仏陀の像が登場しました。篤信の仏教徒が集まった簡素な場所はきらびやかな寺院に代わりました。それらの寺院の中には,ヒンズー教の神であるビシュヌ,シバ,ガネシャなどの像を安置したものもありました。仏陀が,神について追随者たちを啓発しようとしなかったために生じた空白は,彼自身が神格化されることと,他の諸宗教の神々や儀式を採り入れることによって埋められました。

日常生活のための導きはどうでしょうか。仏教には確かに道徳的な教えがいくつか含まれています。たとえば,殺生,盗み,邪淫,虚言,飲酒を禁ずる「五戒」があります。しかし道徳的教えだけでは不十分です。人びとは,日常生活において数多くの決定を行なうための導きを必要とします。仏教徒の多くはその導きをどこに求めますか。L・A・ワッデル教授は次のように観察しています。

「仏教徒と自称する人びとの大多数は,人生に一時期を画する時 ― 誕生,結婚,死 ― や病気の時はもちろん,ほとんど日常さはん事に近い事がらにかんしてまで占いに頼っている。……ビルマ人は,[保守的な]『南方』部派仏教の信者の典型と考えられているかもしれないが,天宮図と祈祷師のとりことなっている」。

仏教徒も,ほかの人たちと同じように,種々の問題について霊的な導きを必要とします。仏陀の哲学はその必要を満たさないために彼らは占いに頼るのです。

将来の希望はどうか

仏教は将来に対する希望を差し伸べていますか。仏教徒は,宇宙の進化と破滅のひとつの時代を四つの「数えることのできない」期間に分けます。そのひとつの期間の長さについて仏陀はこう言いました。「鉄の山にモスリンのベールが100年ごとに触れるとすると,その山は,その数えることのできない期間が終わらぬうちに破壊されてしまうであろう」。四つのこうした「数えることのできない」期間の後に,一切が再び繰り返されるのです。ですから,仏教徒の信仰によると,悪と苦悩は常に存在してきたものであり,また繰り返される世界の一部として引き続き存在するものです。

涅槃は希望としてどうでしょうか。これにも疑問があります。なぜなら,涅槃は人が輪廻転生の終わりに達したことを意味すると考えられているからです。仏教の僧侶のなかには,転生のサイクルに逆もどりしないよう焼身自殺をした人さえいます。しかしもし人が再び生まれないとしたらその人はどうなりますか。仏陀はこれを「教化に役だたない疑問」のひとつと考えました。彼は言いました。

「わたしは,聖者は死後生存すると説明してはいない。聖者は死後存在しないとも説明してはいない。聖者は死後生存することもあり生存しないこともあると説明してはいない。聖者は死後生存するとも生存しないとも説明していない」。

言いかえれば,仏陀は,無数の転生を経験しなければならない大多数の衆生の希望のない状態の将来は言うに及ばず,仏教徒である「聖者」の将来の希望についてさえ何も教えなかったということです。

仏陀の教えの起源

転生および,一つの世における人の行為は次の世でその人に影響を及ぼすという思想に対する仏陀の信仰は,ヒンズー教からきたものです。めい想と涅槃の思想もそうです。ではこれらのヒンズー教の信仰はどこで始まったのでしょうか。

大英百科事典(1952年版)はこうみています。「[インドの]宗教は純粋にインド的なものではなく,昔の世界全体に広まっていた信仰に基づいている」。この「昔の世界全体に広まっていた信仰」はどのようにインドにはいったのでしょうか。ウィリアム・H・マックニールは,「ザ・ライズ・オブ・ザ・ウエスト」の中で次のように述べています。

「メソポタミアとインダス川流域との間に[西暦前3,000年期]から交易関係があったことは,インダス文明の初期の段階においてシュメール人がひと役買っていることを暗示する。……シュメール人との船による接触は,インダス川流域の人びとがその地方の文化的伝統の特色に順応させうる既製の基本体系や観念を供給したかもしれない」。

興味深いことに聖書は,西暦前3,000年期に,神への不従順のために人のことばが乱されたあと,メソポタミアのバベルを中心にして文化が四方に広がっていったことを指摘しています。―創世 11:1-9。

もちろん転生の教理は魂の不滅に対する信仰から出ています。興味深いことに聖書は,その教えの起源を明らかにしています。

聖書では,「魂」ということばは,こん虫であれ,鳥であれ,魚,動物,あるいは人間であれ,呼吸する生物すべてを指します。聖書の示すところによると,魂は生物全体,生物の個体をつくりあげているものすべてのことであって,非物質的な,肉体から離れて存在するものではありません。したがってアダムが創造されたとき,聖書は「最初の人アダムは生きた魂」を与えられたのではなく,「生きた魂になった」と述べています。―コリント第一 15:45。創世 1:20-28; 2:7。

人間の起源にかんする最古の記録である創世記に記述されているように,神はアダムに,ある木の実を食べてはいけないとお命じになりました。もし食べるなら『必ず死ぬ』と神は言われました。(創世 2:15-17)それは,人間の魂が可死であることを意味しましたか。そうです。預言者エゼキエルが後日,「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」と説明したとおりです。(エゼキエル 18:4,新)聖書によると,肉体が死ぬ時に生き残る霊のようなものはありません。―詩 146:4。伝道 9:5,10もごらんください。

ところが,神の反対者で,聖書が悪魔サタンとして表わしている者は,神のことばを否定して,「あなたがたは決して死にません」と言いました。(創世 3:1-5,新)しかしアダムは実際に死にました。(創世 5:5)したがって「生きた魂」は死にました。そして彼から生まれ出た人間の魂はみな現在に至るまで死んできました。

仏教流のめい想を習慣にしている人たちに対しては,サタンと配下の悪霊たちは,バビロンから出た死後の生存という偽りを押し広めるのがとくに容易です。それらの人たちは,意識的な考えを全部思いからしめ出して,悪霊の影響に身をさらすのです。ですから,そういう人たちのなかには,超自然の知能的,肉体的能力を示す人がいます。しかし,悪霊の影響に身をさらすことから実際に益が得られるでしょうか。(ご自分で,マタイによる書 12章43-45節に述べられている原則をお調べください)

偽りの上に築かれた,そして悪霊の影響を助長する体系が,人を真に啓発することはありません。死者のための真の希望は輪廻ではなく復活にあることを聖書は示しています。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来ようとしているのです」とイエスは約束されました。(ヨハネ 5:28,29)そうです,幾十億という人びとがもういちど人間として生きるのです。しかも正しい状態のもとに,この地上で。これはあてにならない約束ではありません。イエスは少なくとも3人の人間をよみがえらせて,その約束が真実であることを実証されました。―ルカ 7:11-17; 8:40-56。ヨハネ 11:1-40。

聖書はまた,地球と人間の起源,悪がどのようにして生じたか,神はこの時代にどのようにして人間の圧制に終止符を打たれるか,などについて教えています。あなたはこの希望についてもっとくわしい知識を得たいと思われませんか。エホバの証人は,あなたがその知識を得られるのを喜んでご援助いたします。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする