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物質主義か霊的生活 必要なのはどちらかものみの塔 1961 | 9月1日
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心に取り入れるかをはかる際,神の言葉を導きにします。「すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」。―ピリピ 4:8,新口。
他の人を助けて霊的生活をさせる
他の人を助けて,真の霊的生活の必要性を認めさせるよう努めるなら,自分自身も霊的な面で気をくばるようになります。この点についてゲラルド・ゴビンは1959年8月号のカトリックの雑誌「知らせ」の中で,エホバの証者の活動を評して次のように述べています,「カトリックの一般信徒たちは,エホバの証者の会員から,ひとつの大切な教訓を,得ることができる。すなわち彼らは,生活の中でその宗教を非常に大切な要素としているので,自分の知識を深め,そしてそれを ― あたかも生死の問題であるかのように ― ひろめるために,喜んで今よりもっと多くの時間を捧げようとしている」。
昨年エホバの証者は,1億3100万時間以上を費し,179の国々において50万以上の家庭で聖書研究を司会して,人々を霊的に富ませました。またほかの人々にも神の御国の祝福を語りました。この活動は「先ず神の国……を求めなさい」というイエスの教訓に対する答であり,また,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」というイエスの預言に対する解答でもあるのです。―マタイ 6:33; 24:14,新口。
エホバの証者は喜んで,あなたが真の霊的生活を取り入れるのを助けます。エホバの証者はお宅で,あなたと共に喜んで聖書を検討いたします。さらに,ほとんど毎週の日曜日,御国会館で,霊的に力づけられる聖書の話を聞くことができます。あなたも招待されています。
霊的生活を追い求めて下さい。束の間の栄光を追い求めて,なぜあなたの生命を犠牲にするのですか。真の神からの誉を求めて下さい。物質主義ですか,あるいは霊的生活ですか。あなたの生命と幸福は,その正しい撰択にかかっています。
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スワジーランドにてものみの塔 1961 | 9月1日
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スワジーランドにて
スワジーランドのほとんどの会衆の区域では家が非常にまばらです。そのような区域に行くのは,なかなかおもしろい経験です。自動車に乗って会衆の区域に行くと,人間は一体どこにいるのだろうかと思います。見えるのはただ,何キロも続いている木の茂みです。しかし,そこここに部落があらわれてきます。伝道者は何キロも歩かねばなりません。そして午前中訪問できるのは,3軒か4軒にすぎません。特にこれは,ほとんどたいていの家族が,ねん土としばでできた自分たちの小屋に伝道者を招き入れるからです。その床にそのまますわるか,草で編んだ敷物の上にすわると,家族全部がまわりにやってきて,おとずれを聞きます。―1961年のエホバの証者の年鑑より
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箴言の背後にある考えものみの塔 1961 | 9月1日
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箴言の背後にある考え
箴言は,「わずかな言葉につつまれたたくさんの知恵」と言われています。箴言のヘブル語メシアリムは,比較という意味です。それは,わずかな言葉で周知の真理,あるいは明白な真理を述べる簡潔な文章という意味以上のものを持ちます。
箴言は穀粒の核になぞらえることができます。核は小さなものですが,拡大増加して幾百万人もの人の食物を供給することができます。箴言はまた貴重なダイアモンドのようです。ダイアモンドは小さなものですが,一財産を構成します。わずかな力しかない子供でもダイアモンドをかくして,持ちはこぶことができます。しかし,そのダイアモンドと同じ価値の鉄とか,他の下等金属をあちこち輸送するのに多くの人の力が必要になるでしょう。同じことは箴言についても言えます。それは精神的な知恵と道徳的な知恵を持つものであって,貴重なものです。それは小さくて持ちはこぶことができるもの,そして記憶力が悪い人でもおぼえることができます。それでいて,教訓的な価値では貴重なものです。
本の数がすこししかなかった昔では生命と行儀についての戒めは,できるだけわずかな言葉にちぢめられて,記憶
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