-
世ではなく隣人を愛しなさいものみの塔 1961 | 12月1日
-
-
のごとくに隣人を愛します。必要ならばいつでも隣人を助けます。それはちょうどこの記事の最初に出てきた,クリスチャン,つまりトラックの運転手がした通りです。イエスのたとえ話に出てくるサマリヤ人のように,クリスチャンは困っている人を助ける機会をのがさないようにします。機会があるごとに,すべての人,特に友なるクリスチャンに善をなすようにという戒めに,注意します。―ルカ 10:30-37。ガラテヤ 6:10。
しかし,世の友になるということを避けたいばかりに,献身したクリスチャンはこの点でおとることになるかもしれません。クリスチャンの奉仕者として,神の御心を行なうために献身したので,他の人に与え得る助けは,霊的なものだけであると,思う傾向があるかもしれません。しかし,そうではないのです。霊的な援助は一番大切です。しかし,物質的な援助や,手助けを隣人が必要としているばあいがあります。その時には,できる立場にあるなら,援助の手を差しのべるべきです。もちろん,感情的になって,極端なところまでいくということは好ましくありません。
自分のできる範囲で,また他の者の必要に応じて物質的な援助を常に与えるようにするかたわら,クリスチャンは,今日の世界の正義愛好者たちすべてが,霊的な意味で,非常に困っているということを決して忘れないでしょう。そういう人々は,エホバ神について,また,その御名や御言葉,目的についての知識や理解をもたないし,自分たちに対するエホバ神の御心も知りません。このような霊的必要を満たすことにつとめることこそ,クリスチャンが愛を示す最善の道です。なぜなら,「知恵が身を守るのは,金銭が身を守るようである。……知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である」。―伝道 7:12,新口。
示される侮辱とか,無関心などにもめげず,どんな天気の時でも,定期的に家から家へ行き,他の人が永遠の生命という神の御準備を学ぶようにすすめることは,クリスチャンにとって大きな隣人愛を必要とします。同時に,クリスチャンが世を愛していたら,このようなことはすべてしないでしょう。それで,私たちは世を愛すべきですか。いいえ! 隣人を愛すべきですか。そうです!
-
-
ベネズエラのエホバの証者ものみの塔 1961 | 12月1日
-
-
ベネズエラのエホバの証者
ベネズエラでも神の御心が行なわれていて,多くの人々が最愛の御子,イエス・キリストに信仰を働かせ,キリストを通してくる永遠の生命と,宇宙の最高支配者に永遠にわたる真の崇拝をささげるという栄光ある特権を得るよう励んでいます。
ひとりの宣教者は次のような経験を述べています,「新しい区域にある丘の上で働いていた時,最後の道の最後の家で,ひとりの婦人に本を配布しました。再び訪問した時,その婦人はたいして興味はもっていませんでしたが,親しげに,話をよく聞いてくれました。数回訪問してから,聖書研究が始められました。最初のうち,その婦人は勉強に対してあまり真剣でなく時にはほかの事にわずらわされて勉強しない時もありました。しかし,本を半分ぐらいすませた時,彼女は,これが大切なもの,ほかの事と異なるもの ― つまり真理であるということを認め始めました。御国会館まで行くには,長い道のりを歩かねばならなかったのですが,定期的にものみの塔の研究会にも出席しはじめました。毎週彼女の家の近辺で家から家の奉仕を一緒にしました。まもなく他の家族も勉強しはじめ,興味が増し加わるにつれ,隣人や親類の人にも話したので,それらの人も勉強に加わり,今までに9軒の違った家で,26人の人が勉強しています。そのうちの8人は伝道者で,ほかの7人も,まだわずかな期間しか勉強していませんが,私たちと一緒に奉仕に出かけました。彼らは伝道のわざをぜひしたいと考えているので,その仕方を学ぶため私たちについてきたいと思っています。最初に勉強を始めた婦人は,反対していたその夫と息子が勉強するようになり,定期的にものみの塔の研究会に出席しだしたので喜んでいます。今では娘さんも伝道者です。来月,この婦人の家は,丘の群れの奉仕中心地になります。群れの多くの人は,次の大会で洗礼を受けるのを待ち望んでいます。―1961年のエホバの証者の年鑑より
-