おぼえていますか
最近のものみの塔を注意深くお読みになりましたか。お読みになっておれば,これらの重要な点がお分りになるはずです。ためして見て下さい。
● 自分の命をねらう者たちと向かい合った時,イエスはなぜ勇敢でしたか。
イエスは,生命の源であられるエホバ神に信頼を置いていました。―1962年3月1日号134頁。
● 国立教会があるという理由により,支配者が聖書の伝道を禁止している国で,伝道をしつづけるのは正しいことですか。
正しいことです。第1世紀に,ユダヤ人の支配者たちが伝道を禁止した時,使徒たちはこう言いました。「人間に従うよりは,神に従うべきである」。―1962年3月1日号141頁。
● いまだれがキリストのあがないから益を受けますか
そのあがないに信仰を持つ人全部です。イエスの油そそがれた追随者たちは,神によって義なる者であると宣言されています。ということは,神が彼らに人間の生命の権利を与えるという意味です。「他の羊」も,神のみまえにおいて正しい者としての立場を楽しみます。いま生命の権利を与えるわけではありませんが,神は彼らの罪を許されます。―1962年5月15日号313,314頁。
● ミカ書 5章2節に預言されているごとく,イエスはどのようにベツレヘムから出て来ましたか。
19世紀以上の昔,イエスはそこで生まれました。それに加えて,ベツレヘムという語には,面白いことに,「パンの家」または「パンの供給所」という意味があります。イエスはご自分の肉体をパンになぞらえました。そして,天に昇って,人類のためにささげた人間の犠牲の価値を差し出されました。彼は,1914年に王として立てられたので,現在では,天のパンの家(パンの供給所)とも言える所から出てきます。つまりイエスは,人間が永遠の生命を得るために必要なものを天から供給しています。―1962年5月15日号,298,301頁。
● キリストの油そそがれた追随者たちは,どのように「エホバからの露のように」また「獅子のよう」ですか。
露と同じように,彼らはエホバが善意者に与えた祝福です。そして,1919年以来反対にも屈せず,諸国民の間でライオンのように勇敢にわざをつづけてきました。―1962年5月15日号308-310頁。
● ヘブル語の「人」という語には主にどんな四つの意味がありますか。
イシュ: 単に人を意味する。アダム: 人間あるいは地の人。エノシュ: 弱い者,死ぬ者。ゲバー: 肉体的に強い強健な人を意味する。―1962年4月1日号218頁。
● 教えたり助言を与える時に,どのように理性を示しますか。
命令するよりもむしろ熱心に頼むことです。独断的でがんこであるよりも,問題を説明したり考慮することができます。―1962年6月1日号336頁。
● 理性のある人は,間違いを正された時にどのように反応しますか。
すぐにそれを聞き入れ,ほんとうに間違っていたならばすぐにあらため,間違いが大きくならないうちに矯正されたことを感謝します。―1962年6月1日号338頁。
● 人は神と友になるために,富をどのように用いることができますか。
神の好意はお金で買うことはできません。しかし,愛の心から,神をさんびするために自分の資産を使い,神の崇拝を発展させるために自分と自分の所有物を用いるなら,それは神に喜ばれることです。―1962年6月15日号366頁。
● エジプトでイスラエルの初子が救われたこと,また,イスラエルとその「混合の仲間」が紅海を通って救われたことは,何の予影でしたか。
初子は,霊によって生まれたキリストの会衆で,まだこの世にいた時に,越過の小羊の実体であるキリストに対する信仰を通して,この世の霊的暗黒から救い出された人々のことです。紅海での救いは,地上でエホバを崇拝する人々が救われてハルマゲドンを通過することを予影しました。―1962年4月1日号203,204頁。
● 黙示録 6章1-8節の騎手のグループは何を予影しましたか。
キリストの臨在が,最初の騎手によって予影されているように,戦争,ききん,疫病,および人類の普通の墓を満たすことと関連しています。そして,他の4人の騎手はそれらの事柄を予影しています。―1962年5月1日号282頁。
● 地の基をすえることについて,また海,あかつき,ひょう,雨,氷を制御することについて神がヨブに質問された時,神はヨブに何を教えられましたか。
エホバの偉大さと比較したときの人間の小さいことを教えられました。―1962年6月1日号327頁。
● 私たちが自分自身を吟味しつづけることはなぜ大切ですか。
なぜなら,私たちはみな罪のうちに生まれ,不道徳な世界に住んでいるからです。また,たとえ神のご要求を知っていても,自己過信とか無関心のために,命の道から迷い出ることがないとも限らないからです。―1962年7月1日号394頁。
● キリスト教は「個人的な事柄」ですか。
確かにそうです。それには個人的な決心と個人的な確信が必要です。しかし,それを他の人にかくしてはなりません。なぜなら,自分の信仰を仲間の信者たちに,また異なった宗教を持つ人々に話さねばならない個人的な責任があるからです。―1962年6月15日号357-359頁。
● キリスト教国が終わったあと,何が来ますか。
神の正義の新しい世がきて,真のクリスチャンはその中で永遠に清い崇拝を行ないます。―1962年4月15日号244頁。