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  • 司祭たちが語る独身制の非
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 10/1 583–584ページ

司祭たちが語る独身制の非

教皇パウロ6世は,教会法が僧職者の結婚を禁じていることは正しいと言っています。彼はそれを「珠玉」と呼びました。ことしのはじめ,彼は,「それは楽しいもの,愛すべきもの,カトリック教のものであり,われわれは,それを維持し,擁護しなければならない」と述べました。

しかし,若手のカトリック司祭の大多数は,意見を異にしています。ある調査によると,若手司祭の80%以上が,童貞制に関する教会法の改正を望んでいます。年配の司祭の中にも,童貞制に関する戒律は,まちがっていると考える人が多数います。彼らは,そのどこがまちがっていると言うのでしょうか。

聖書に基づく根拠がない

多くのカトリック司祭は即座に,同法が聖書にもとづいていないことを指摘します。聖書は,そのようなことを教えていません。聖書は,独身を「賜物」として述べています。であれば,それを教会が義務づける権利はない,と司祭たちは論じます。

イエス・キリストは,「みなに[独身に関する]このことばがわかるとは限らない。……これが理解できるものは,理解せよ」と言われました。そして,使徒パウロは,彼自身独身でしたが,こう言いました。「私は,みなが私のようにあってほしいのだが,おのおのは神からそれぞれの賜物を受けている。ある人はこれを,他の人はそれを」。―マタイ 19:11,12。コリント前 7:7。いずれも,カトリック・バルバロ訳。

カトリックの司祭ジョン・A・オブライエンも,聖書のこれらのことばが,宗教上の特定の階級を指して言われているのでないことを強調して,つぎのように述べています。「キリストのことばも,パウロのことばも,司祭または聖職志望者を,特に,あるいは,もっぱら対象にしたものではなく,クリスチャン全般に対して言われたことばであって,天国のために独身でいることは,クリスチャン生活の正道と言えよう,ということを示すにすぎない」。

次いで,オブライエン司祭は,聖書は僧職者の結婚を禁じていないことを説明して,こう述べています。「[パウロは]コリント人にこう書き送っている。『私たちには,他の使徒たちや主の兄弟やケファと同様に,信者の婦人をいっしょにつれて行く権利がないのか』。(コリント前 9:5,バ)ここで使われているグネという語は,女または妻の両方を意味するが,文脈からすれば,とくにケファ(ペテロ)に言及していることからして,ここでは妻の意であることを暗示していると考えることができよう」。

このように,初期クリスチャンの間では独身は義務ではなく,随意の事柄であったことを,司祭たちは一様に指摘しています。カトリックの神学者ハンス・クングはこう述べています。「ペテロや他の使徒たちは,イエスの正規の弟子になったときでさえ,結婚していたし,また,ずっとそのままの状態であった。そしてそれは,その後いく世紀ものあいだ,同共同体の指導者たちの型となった」。

カトリック教会が童貞制の戒律を課すようになったのは,西暦1139年以後のことです。それ以前は,既婚者の教皇がたくさんいました。事実,最近の教皇ヨハネス23世は,「聖職者の童貞制は教義ではない。聖書はそれを課してもいない。変更することは容易でさえある。私がペンを取り上げ,教令に著名をすれば,望む司祭は翌日にでも結婚できる」と言いました。

まちがった根拠

司祭たちはまた,童貞制の戒律採用に影響した,まちがった考え方を指摘します。教会の指導層の考え方は,聖オーガスチンの教えに支配されていた,と彼らは言います。オーガスチンは354年から430年まで生きた人で,「カトリック百科事典」はこの人のことを「[カトリックの]教父の中で最も偉大な人物」と呼んでいます。

オーガスチンは,結婚について次のように書きました。「女性のへつらい,あの肉体の接触ほど,男性の思いを高潔な事柄から引き離すものはない。そうした接触なしに妻を所有することはできない」。

カトリック神学者R・J・バニックの指摘するところによると,カトリックの考えは,たしかに,そうした見方の影響を受けたし,今でも受けています。「キリスト教は,性欲を特に悪で汚れたもののようにみなすという,現在でも広く受け入れられている考えを,われわれの文化に浸透させたオーガスチンの責任は大きい」と彼は語っています。

しかし,オーガスチンは何に影響されて,結婚と性を低く見たのでしょうか。ジョン・オブライエンなどの司祭たちは,それはオーガスチンがある女と11年ばかり同棲していたからだと言います。また,カトリックの法律の教師ジョン・T・ヌーナンはつぎのように述べています。「オーガスチンは,半永久的な結婚生活で,この罪深い性交を経験したために,性交そのものには,理性的なもの,霊的なもの,秘蹟に類するものは何もない,と考えたのである」―「なぜ司祭たちは去るか」(1969年)。

それで司祭たちは,童貞制の戒律は誤った根拠にもとづいていると言います。性と結婚にかんする,あやまった,そして聖書に反する考え方が同戒律の採用に寄与した,というわけです。

悪い実

したがって,まちがった根拠を持ち,聖書に反する戒律が悪い実を結んでも,驚くにはおよびません。強制的な童貞制の戒律の非を論ずる多くの司祭は,その悪い実を指摘し,カトリック教会は,司祭たちが結婚するのでないかぎり,彼らのゆゆしい不品行を黙認し,許しさえする,と述べています。

エドワード・フランク・ヘンリケスは,結婚して,司祭の職を退くまで16年間,カトリックの司祭を勤めていました。彼はつぎのように述懐しています。

「教会法の下では,聖職者の淫行や姦淫,男色,ゆゆしい乱交など,聖職者の常軌を逸した行為,また,その他いかなる形の性的倒錯や,長期間にわたる,めかけ囲いさえなんらの処罰を科されず,結婚をすると,それだけ罪を“犯した”として処罰されるのは,重大な問題ではなかろうか。これは許しがたい罪悪である。私は司祭たちが ― 恥ずかしいことに,私自身も口にしたことがあるのだが ― 君のしたいようにすればいい,しかし,結婚してはいけないよ,と言うのを何度耳にしたことだろう!」。

カトリック教会の学者として,「エルサレム聖書」および「ジェローム聖書の注釈」の完成に大いに寄与したジョセフ・ブレンキンソップは,不行跡のありふれた例をあげつぎのように述べています。

「私は,ラテン・アメリカのある国の教区で働く司祭たちで,週末にはきまったように女の子を泊めながら,聖職をやめることなど夢想だにしなかった司祭たちを,個人的に知っている。そのうちのひとりは,もっともらしい説明を実にうまくやってのけたが,問題のインディオの娘たちにおよぼす影響について私が尋ねたところ,驚いたのを私は覚えている……。

「独身の『賜物』は,公式発表によって想定されているよりも,ずっとまれなものであるということは,最近の経験のみならず,教会の歴史全体からみても明らかなようである」。

これは実情を最もよく知っている人たちの告白です。たとえば,カトリックの司祭ピーター・リガは,ノートルダムで神学教授をつとめ,アメリカ,カリフォルニア州セントメリー大学で教鞭をとったことのある人ですが,彼は,独身生活にはいった人々の性関係の上で犯す罪は,「たいへんなもの」で,公表される件数ほど少ないものではないことを認めています。強制的な独身生活の美徳をたたえる教会当局者たちの不正直を指摘して,彼はつぎのように説明しています。

「正直を旨とするならば,公然のめかけ囲いから,正式の結婚,情婦や愛人関係,プラトニックなあいびきにいたる種々の手段で問題を組織的に解決した,無数の聖職者たちの相殺的な証言を要求する必要があろう。神学校や修道院における希釈された形の同性愛その他の不健全な性行為は,ゆううつな証拠があまりにも多いので,含めなくてもよい。広範囲に見られる,こうした現象が,世間に知られておらず,また,理解のある忠実な信者たちが,個々の場合をうまく言い抜けて悪評が立たないようにするからといって,それは,意識的に不正な手段を講じて,不都合な証拠を無視してよいという口実にならない」―「結婚した司祭と結婚した修道女」,(1968年)

教会内部のこういう事情に直面して,多くの司祭たちはどうしていますか。リガ司祭は,「理非をわきまえた高潔な司祭たちが幾千人となく」司祭の職を去っていることを指摘しています。1968年には,アメリカだけで推定2,700名が司祭の職を退きました。ですから,カトリック教会は,「一番できのわるいむすこではなく,一番できのよいむすこたちを失っているのだ」とリガは語りました。

アメリカ東海岸にある一修道院の院長は,この大量辞職の影響を嘆いて,こう述べました。「聖職の下で人間性がいかにゆがめられているかは,聖職者の減少する階層において,いよいよ明らかになるであろう。……多くの者は,人間性のゆがめられた人々のただ中での生活を貫きたいとは考えていないが,私もそのうちのひとりである」。

僧職を去る司祭たちを非難できますか。教会組織が,聖書に反する慣習を固執するとき,神を恐れる人ならだれでも,そうした組織を離れたいと思うのは当然ではないでしょうか。今や,多くの人がそうしているのです。

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