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平和のための努力が現在それほどまでになされているのはなぜか目ざめよ! 1973 | 4月22日
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にも,人間の諸問題を解決するにも役だたないので,多くの人は教会の価値に疑問を持ちはじめています。しかし,宗教指導者たちは現在,世界に平和が訪れれば,自分たちが大きな益を得られるという望みを持っています。
もし,『世界の平和と安全』の宣言がまもなく全世界に告げ知らされ,そして教会がその平和をもたらすことにある程度寄与したと主張できる立場であれば,弱くなった教会の影響力,威信,人びとの教会に対する支持は,少なくともある程度回復されるかもしれません。教会はそれを必要としています。そして教会はそのことを知っています。
法王パウロ6世は,意見の相違,批判,反抗などがカトリック教会を悩ましており,「隠すことのできない,また隠すつもりもない,憂慮すべき事態」をつくり出していることを認めました。―1972年6月24日付のニューヨーク・タイムズ紙。
世界平和のための協定はその憂慮を静め,将来に対する確信を深めるのに大いにあずかって力があるでしょう。宗教のリバイバル,世界宗教の力の更新などの希望をかきたてるでしょう。
したがって,人びとが世界の平和と安全のために全力をあげて努力する理由は多く,またきわめて強いものです。そして人びとがやがて,「平和だ,安全だ」という叫びを時代のスローガンとするところまで事を運ぶのは明らかです。
しかし大きな問題は,それは永続するだろうか,ということです。
わたしたちはこれからその質問に対する答えを知ることができます。
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生活の「道」目ざめよ! 1973 | 4月22日
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生活の「道」
あなたの友人や知人のほとんどはおそらく,宗教もしくは宗教的な見解を持っていると主張するでしょう。しかし,そのような人びとの宗教はどのようなものですか。霊感を受けた使徒パウロは,わたしたちの時代に関して,多くの者が『敬虔の形をとりてその徳を捨つる者とならん』と述べました。―テモテ後 3:5。
「心理学から見た人間」と題する本の中で,ゴードン・W・オールポートは次のように述べました。「多くの人にとって,宗教とはものぐさな一種の習慣,もしくは儀式や家族の便宜あるいは個人的慰安のために用いられる部族独特の一種の投資物である。それは利用すべきものであって,そのために生きるものではない。それは,自分の地位を高めたり,自己過信の念を支えたりするために用いられる場合もあれば,現実に対抗する防塁,また自分自身の生活様式に神の是認を付与するための手段として用いられることもある。そのような宗教心は,神はわたしと同じ仕方で物事を考えているのだということを人に確信させるものである。神学的な表現を用いれば,本質的に不敬虔な人間は神に頼ることはあっても,自我を退けはしない。この種の宗教は自己中心主義のたてである」― 131ページ。
それとは対照的に,西暦1世紀にイエスの追随者となった人びとは,神の「道」に属する人びとと呼ばれています。(使行 19:9,23)彼らは,神とキリストに対する信仰を中心にした道もしくは生き方につき従いました。どうすれば自分にとって宗教を,神を喜ばせうる満足のゆく生活の道とすることができるかを知りたいと考えておられるなら,エホバの証人は喜んでご援助いたします。
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