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アレキサンダー大王と聖書の預言ものみの塔 1961 | 2月1日
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を再建しようとしたアレキサンダーの計画は失敗に帰しました。他の地方を征服してバビロンに帰ってきてから後,酒宴を催したアレキサンダーは西暦前323年,33才で高熱のために死んでしまいました。
彼の帝国はどうなりましたか。聖書の預言は「その国は破られ,天の四方に分かたれます。それは彼の子孫に帰せず……」と明白に示しました。(ダニエル 11:4,新口)象徴的な雄やぎについては,神の御使はダニエルにこう告げていました,「かの雄やぎはギリシャの王です。その目の間の大きな角は,その第一の王です。またその角が折れて,その代りに四つの角が生じたのは,その民から四つの国が起るのです。しかし,第一の王のような勢力はない」。―ダニエル 8:21,22,新口。
神の御言葉はけっして失敗に終ることがありません。その預言の通り,西暦前301年のイプサスにおける天下分け目の戦いが行なわれた時までには,アレキサンダーの4人の将軍は,それぞれ自分の勢力をにぎっていました。歴史家ローリンは,このことや,またバビロンについての神の定めについて,次のような注解をしるしました。「古今未曽有の強力な君が努力をしたにもかかわらず,この無敵なのろいの力と重さは明白に示された。この君は,自分の計画を遂行するということに関しては,最もねばり強く行なう者であった。この君のくわだては,ひとつとして失敗したことがない。ところが,これ〔バビロンの再建〕には失敗したのである。その仕事は,他の仕事ほどむずかしいものとは見えなかった。……かくも明白で,正確で,しかも事実にぴったり合う一連の預言以上にすばらしいもの,神性なものがあるだろうか。預言は,その君が自分の家族からの合法的な後継者をひとりも残さずに死んでしまい,その4人の将軍は彼の帝国をめいめい分けてしまうとまで指摘しているのである。
アレキサンダー大王の生涯は,聖書の預言が正確に成就されていると示します。このことは,その預言を与えられた方エホバ神をあがめます。自分のすることを成功させたいとのぞむ人は,みな神の預言的な言葉に一致して生活しなさい。神の御言葉は決して失敗に終わることはありません。
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神の目的とエホバの証者(その11)ものみの塔 1961 | 2月1日
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神の目的とエホバの証者(その11)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第9章 1914年にすべての国が終る
トム: 1914年がついにきて第一次世界大戦が始まったとき,エホバの証者たちの天下になったと思うがね。
ジョン: かならずしもそうではありませんでした。その年の最初の数ヶ月のあいだ,宗教指導者や他の者たちは,ラッセルとものみの塔協会に多くの嘲笑をあびせていました。なぜなら,その初期の月々には,エホバの証者が期待していたようなことは,何も異邦人の国民に生じなかったからです。
マリア: もちろん,このことは証言のわざを中止させませんでした。なぜなら協会はその年の秋に終りがくると期待していたからです。1月までには「創造の写真 ― 劇」の準備は完成し,4月までにはその12組を31の都市に送り出しました。報告によると毎日3万5000人以上の人が,この異常な作品を見聞きして感心していました。a
ジョン: そのとおりです。しかし,その年がだんだん進んで,欧州中は緊張の空気がみなぎっていても,暴力がおこらなかったので,御国の音信に対する嘲笑は増加してきました。しかし,諸国民や諸国家が,いま第一次世界大戦と呼ばれるものにどんどん突入して行ったとき,大変化が生じました。戦争直前の最初の数ヵ月間,はなはだしい不安の期間が欧州にのぞみました。しかし,その年の7月27日から8月までの時は,世界を震動させた驚きの期間でした。戦争が始まり,それとともに諸国民に苦難がのぞんだため,彼らの期待していた苦難の時とくらべ合わせて,エホバの証者のわざがいま顕著なものになることはとうぜん理解できます。
典型的な一般新聞の反応は,指導的なニューヨークの一新聞「ザ・ワールド」にあらわれました。この新聞の日曜雑誌欄のところに,人目をひきつける見出し「1914年にすべての国が終る」の下に,長い特別記事が掲載されました。ここにその記事の一部を掲載します。
ラッセル牧師の「万国聖書研究生たち」の計算によると,1914年は預言者ダニエルの語った「苦しみの時」である。この年は,400万部も売れた「時は近づけり」という本の中で地の国々の滅亡の時と預言されていた。
欧州で恐ろしい戦争が始まったことは,特別の預言を成就した。ここ25年,『千年統治黎明派』として良く知られている『万国聖書研究生たち』は,伝道士や出版物を用いて,聖書に預言されている怒りの日は1914年に始まると世界に宣明していた。旅行をしている幾百人という福音伝道士たちは,『1914年に気をつけよ!』と叫んでいた。この奇妙な信条を代表する彼らは,『神の御国は近づいた』という教理を宣明しながら,国内をあまねく歩きまわった。……
幾百万という人々は,これら福音伝道士の言葉に耳を傾けて聞いたはずであった……また,彼らの宣伝は宗教的な出版物や,国内の幾百という新聞を通して,講演や,討論,研究クラス,活動写真によってなされたのであるが,一般の人は「千年統治黎明派」というような運動が存在していることを知らない……
チャールス・ティー・ラッセル牧師は,1874年から聖書のこの解釈を説いてきた……ラッセル牧師は1889年に次の言葉を書いた,「強力な聖書の証拠から判断すると,この世の国々の最終的な終りと神の御の完全な設立は,西暦1914年の終りまでに達成されることはたしかな事実と考えられる」。……
しかし,苦難が1914年に頂点に達すると言うことは,奇妙であった。おそらくラッセル牧師がきらびやかな派手な書き方をせず,非常に落ちついた,高等数学式の書き方をしたためであろうか,ともかく不思議な理由で一般の世界は彼のことをほとんど認めなかった。彼の「ブルックリン幕屋」にいる研究生たちには,このことは期待されていたことであり,この世は苦難の日が過ぎさるまで,神の警告に耳を傾けて聞いたことは一度もなく,また決してないであろう,と言う。……
そして,1914年には戦争が来る。それはすべての人が恐れていた戦争で,決しておこることはないと考えられていた戦争だ。ラッセル牧師は「私があなたがたにそう言った」とは語っていない。また彼は現代の歴史に合わせるため預言を訂正しているのではない。彼と彼の研究生たちは,10月まで待つのをいとわない。彼らは10月こそ1914年の真実の終りであると考えている。b
トム: 世界大戦が始まった後でも,すべての人はこの預言を受けいれなかったと思います。
ジョン: そうです。イエスは,このはげしい苦難の時は末の日に来る,と預言しました。しかし,終りの時が来たことを示すすべての証拠があっても,大ぜいの人はその証拠をうけいれないということも聖書中に示されました。たとえばペテロは,次のように述べました,「終りの時にあざける者たちが,あざけりながら出てきて,自分の欲情のままに生活し,『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから,すべてのものは天地創造の初めからそのままであって,変ってはいない』と言うであろう」。c
良いたよりの伝道はつづく
ロイス: それはいろいろな感情がまじり合った時であったにちがいありません。
ジョン: その通りです,証者たち自身も認識できなかったたくさんのことが生じました。1914年前の40年間,彼らは聖書的な啓発によって,この年を指摘してきました。d さて,実際の証拠は,彼らが聖書研究を通して到達した結論を証明するように見えました。それで,彼らは次のことを確信しました,すなわち1914年10月1日は,異邦人の諸国家が地上で行使していた主権に対するエホバの寛容の期間2520年を合法的に終らせたこと,および「全国民の終り」は合法的に1914年に来たということです!e それで,証者たちは聖書に予告されていた状態が実現するのを見てよろこぶとともに,この世にもたらされた悲しみと苦難はよろこびをもたらしませんでした。また,神の御国の反対者からうけた迫害は,彼らを幸福にせず,そのわざを容易なものにしませんでした。
キリスト教国の牧師たちが,合法的な「全国民の終り」の証拠をうけいれる,ということは期待すべきではありません。むしろ,彼らはますます当時の問題に没頭し,諸国家の戦争の努力に介入したので,世界支配の論争を決する神の力に人々が頼ることにたいしてすこしの忍耐も同情をも持ちませんでした。どの国の教会も,権力をにぎっていた国家の政府を支持しました。他の国で同信仰を持つ者たちが,戦闘の反対側にいたという事実にもかかわらず,このことは行なわれたのです。そして,クリスチャン兄弟たちと認められる者たちは,いま戦場で敵対し合うようになりました。
トム: エホバの証者は戦争について何をしましたか。
ジョン: 彼らは戦争に参加することを拒絶しました。この苦難の時を指し示す預言を判断した証者たちは,神が戦争のそれぞれの側を支持しているという牧師たちの混乱した主張をうけいれることができず,またうけいれようとしませんでした。
証者たちは欧州で生じた状態に十分気づいていました。実際のところ,ジャッジ・ルサフォード自身も,戦争が始まったとき欧州にいたのです。ルサフォードが協会の法律顧問という地位についてから,彼は公開の聖書講演者としてアメリカ中を広く旅行し,特別な要求に応じて多くの大学で講演し,またアメリカや欧州の大ぜいの聴衆の前で話しました。1913年,彼は妻を伴ってエジプトとパレスチナおよびドイツを訪問しました。ドイツでは彼は合計1万8000人の聴衆に講演し,スイスでも講演しました。f
1914年,彼はパストー・ラッセルの代表として再び欧州に旅行しました。パストー・ラッセルは,健康も衰え,それに不安な世界状態の故にアメリカ合衆国から離れるのをのぞみませんでした。この資格を持ってルサフォードは第一次世界大戦が始まる数日前にドイツで聖書の講演をしていました。彼がハンブルグ
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