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年齢や能力が妨げとなりますかものみの塔 1965 | 6月15日
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時間とそのまえの少しの時間を思い出します。そして貴重な経験をしたものだ,と思いました。きょう話をした男の人,女の人,若い人,老いた人は,一見したところ一般の人と変わりません。しかしその話しかたにはどこか変わったところがあります。演壇に上がったときの確信と落ち着きのある態度,自信のある声,真に重要で有益なことを聴衆に向かって話せるというこの人たちの喜びを見て,私たちは,ここにこそ学ぶことを少しもいとわぬ人たちがいる,ということに気づきました。しかも彼らは,自分の能力あるいは進歩だけに心を奪われて,他の人々に『御国のよいたより』を伝道することの必要さを無視しないのです。
いろいろお世話になりましたと,学校のしもべに感謝の言葉を述べると,彼は別れぎわに,今晩の集会を要約するかのようにこう語りました。「この人たちは,『自分のことと教のこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる』という使徒パウロの助言にまじめに従っているのです。『私は年をとりすぎて,若すぎて,弱すぎて,強すぎて』そのような学校のプログラムには参加できない,といえる人があるでしょうか」。
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恐れずにエホバに奉仕するものみの塔 1965 | 6月15日
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恐れずにエホバに奉仕する
エホバの証者が困難な状況下で熱心に働く国々
― 1965年度エホバの証者の年鑑から ―
伝道者最高数: 104,597
人口合計: 420,365,600
比率: 4,019人に1人
昨年はどこにいるエホバの証者も,「聖霊に満たされて,大胆に神の言を語る」という年の聖句に心を用いました。(使行 4:31)鉄のカーテンの背後の国や,迫害の激しい国に住んでいて,そこで御国のよいおとずれを伝道するには,いっそうの大胆さが必要です。しかしそういう場合にエホバ神は,聖霊,すなわちご自身の活動力をいっそう豊かに与えて,ご自分の民を大胆にされるようです。この聖句は,使徒行伝の3,4章に記録されているごとく,ペテロやヨハネが大胆に語った時代を私たちに思いおこさせます。初期キリスト教時代の宗教指導者や政治権力者たちは,イエスが弟子たちに,望み,祈り求めるようにと教えられていた神の国のよいおとずれの伝道をやめさせようとしました。しかし当時伝道をやめさることができなかったのと同じく,今日でもそれは不可能です。彼らはキリストの弟子をいく人か殺し,そのからだを滅ぼしましたが,そうした忠実な人々の魂を滅ぼすことはできませんでした。エホバ神はご自身に忠実に奉仕する者たちをおぼえられます。そして復活の約束があることも私たちは知っています。
今日エホバのクリスチャン証者たちは,どんなに困難な状況のもとでもわざを押し進めていきます。次にかかげる経験は,すべてのクリスチャンにとってよい励ましになります。クリスチャンは,時が良くても悪くても,光を輝かさねばなりません。今日の世界には,神の国よいたよりを伝道するのに時の悪い国が多くあります。しかしそれでも神の国は宣べ伝えられており,私たちはみなそのことに大きな喜びを感じます。
アルバニア
1964奉仕年度のアルバニアにおける戸別伝道の記録はありません。しかし,状態が悪化しているにもかかわらず,この国でも真理の伝道はつづけられています。兄弟たちは迫害にあっていますが,過去12ヵ月の間に伝道者の数は相当の増加をみました。エホバの証者であるがゆえに,また神のことばを語ったという理由で,いく人かの兄弟が逮捕されました。なかには強制労働収容所に送られた兄弟もあります。そういう場合,家族は路頭にまようことになります。しかしほかの兄弟たちがあとに残された者を援助し,そうすることによって神への忠実を示しています。彼らは,夫を収容所に取られた人々に必要な援助を与えます。もしエホバの証者であることがわかったなら,きびしく監視されるのですから,聖書の研究をつづけることがいかにむずかしいかは想像がつきます。所によっては人と聖書の勉強をすることはできません。できることといえば,自分で聖書を読み,信頼できる兄弟や姉妹と話すくらいのことです。私たちの絶えざる祈りは,天のみ父が,私たちの同労者に恵みを給い,この最も困難な時代に,アルバニアの兄弟姉妹を力づけて下さることです。
ブルガリア
昔アモスという預言者は,エホバが,パンや水のききんではなく,エホバの言葉を聞くことのききんを送られる日が来る,と預言しました。(アモス 8:11)ブルガリアにもこのききんがあるといえます。牧師は人々を霊的に栄養不良のままの状態で放置しています。ですからまじめな人々はより良いものを求めており,ある人はエホバの証者をとおしてそれを得ます。共産主義支配のため公然と伝道することはできません。彼らは,神の国のよいおとずれを伝える人々を容赦なく投獄するのです。にもかかわらずかなりの数の兄弟たちにより,よいわざが成し遂げられています。兄弟たちは状況に応じて最善をつくします。その結果,真理を求める人々は真理にかんして知識を深め,円熟し,しっかりした立場をとるようになり,この世から離れます。彼らは,神のご予定のときに救いがくること,現在は最後まで忠実を保つことが最も大切であることを知っています。
チェコスロバキア
あらゆる職業の人々がエホバ神に献身しますがチェコスロバキアにおいてもそのことは同じです。昨年はかなりの数の人がバプテスマを受け,組織は着実に増大しています。エホバの証者は「心のいためるものをいやす」ためにつかわされます。(イザヤ 61:1)次に述べる経験はまさにその好例といえるでしょう。ある村の若い男の人がひどい事件で命をおとし,母親と妹は悲しみにくれていました。そこで同じ村に住むエホバの証者は,その人たちを慰めてあげようと考えました。この伝道者は次のように書いています。「葬式の時,私は墓地で娘さんに話しかけました。彼女は,兄さんが死んだときの有様を説明し,これから兄さんが永遠の火の中で責苦にあうのかと思うと悲しくてたまらない,と心を打ち明けて話してくれました。この娘さんは悲しみのあまり,自殺して兄さんのところへ行きたい,とまで考えていましたが,私の慰めの言葉ですこし悲しみが和らいできました。そして,私がお宅に伺いますので,死者の状態や新しい秩序のもとにおける復活のよいおとずれについて聖書をお調べになってみませんか,とすすめたところ,彼女はその申し出を受け入れました。それ以来私はその娘さんおよびお母さんと聖書の勉強をつづけています。ふたりの悲しみは喜びに変りました。そして娘さん自身が活発に奉仕するようになり,いま妹さんと聖書の勉強をしています。次の機会にはバプテスマを受けることを楽しみにしています」。
偶然の伝道がよい結果を生む場合も少なくありません。次の経験でわかるように,この方法で「羊」になる見込みのある人が見つかることもあるので,偶然の伝道は決して軽視できません。ある公園でのこと,一組の夫婦がベンチに腰をかけ,女の人は痛む足を休めていました。そこに中年の兄弟が通りかかって会話がはじまりました,そして兄弟は,足によく効くくすりをもってることを婦人に約束し,その夫妻の家を訪ねました。彼は約束のくすりをもって行っただけでなく,霊的ないやし,つまりエホバの御国のおとずれをも携えて行きました。そして地が楽園になるとすべての痛みや病気がなくなることを聖書から示しました。いくぶん興味がありそうなので,その兄弟は2ヵ月ほど定期的に訪問をつづけました。夫妻は近くの町に移転しましたが,その後も奥さんのほうの聖書に対する関心はさめず,熱心にエホバの証者をさがしてついに見つけました。そして聖書の勉強を再び始め,のちに献身してバプテスマを受けました。いまではご主人も真理に興味を示すようになり,妻がクリスチャンの兄弟たちと交わるのを少しも妨げません。この経験は,痛い足のことから始まったちょっとした会話からでも,弟子がつくれることを物語るものです。
東ドイツ
東ドイツのエホバの証者は,共産主義政府によって厳重に監視されていますが,昨年は直接の干渉はあまりありませんでした。東ドイツで投獄されているエホバの証者は約70人で,昨年中新たに逮捕された者はわずか9人であり,釈放された者は48人でした。
昨年の暮れ,1950年以来獄につながれていた4人の兄弟が釈放され,西ドイツに送られました。そのうちの2人はマグデブルクのベテルの家の家族で,他の2人は会衆のしもべおよび正規開拓者でした。共産主義者によって裁判されたとき,この4人は終身刑を言い渡されましたが,のちに懲役刑15年に減刑されました。彼らはもともと
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