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    ものみの塔 1981 | 12月1日
    • 小麦と雑草を産出する畑

      「畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください」― マタイ 13:36。

      1,2 (イ)種をまくことに関して,どんな原則を挙げることができますか。(ロ)これらの二つの原則に基づいたどんな例えがありますか。

      「種まきと収穫」は,「地の存続するかぎり」決して終わることがない,とエホバ神がご自分の心に語られた循環の一つです。(創世 8:21,22,新)使徒パウロは,これに関連した基本原則を示し,「なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」と書きました。―ガラテア 6:7。

      2 種まき時に良い麦を一生懸命にまいたある農夫は,これらの基本的な事実に基づいて,ふさわしい季節が来れば収穫があると確信していました。種まきのあとに収穫が続くのは物の道理です。同様に,畑で働く者たちから,畑に小麦だけではなく何かの雑草が生えているということをしばらくたって知らされたその農夫は,きっとだれかが卑劣な行為をしたに違いないと考えました。自分が何をまいたかを知っていたからです。それは小麦であって,雑草ではありませんでした。この新しい事態の進展によって,一つの決定が必要になりました。雇人たちは直ちに処置することを提案し,すぐにも雑草を引き抜きたいと考えていましたが,賢い農夫は彼らのはやる心を押し静め,そのままにしておくようにと彼らに告げました。雑草を抜くときに小麦を傷付けることを恐れたからです。両方とも成長させておくのです。収穫の季節になって本物の小麦と偽物とを分けても遅過ぎません。

      3 イエスは王国に関連したどんな重要な事態の進展を例えで示しておられますか。分ける業は何の特色となりますか。

      3 これはイエス・キリストがお用いになった例えで,イエスが地上で開始された業に生じてくるある事態を描写するためのものでした。この種まきの業には,「天の王国」として知られる天的な政府でイエスと共になる真のクリスチャンという,要求されている穀物を生産する目的がありました。イエスはこのようにして,良い種をまくご自分の業が,敵である悪魔サタンの妨害に遭うことを予告されたのです。畑は小麦のようなクリスチャンという望ましい収穫物だけではなく,雑草のような偽物のクリスチャンも産出します。両者とも,分ける業が行なわれる収穫の時まで成長するままにしておかれます。それにこの分ける業は,「事物の体制の終結」である「終わりの日」のもう一つの特色です。―マタイ 13:24-30,36-43。マタイ 24:3; テモテ第二 3:1と比較してください。

      4 この例えがわたしたちの興味を引くのはなぜですか。

      4 あなたは現在の邪悪な体制の終わりを見ることに関心がありますか。この収穫の業の結果から個人的に影響を受けますか。さらに,付随的なこととして,イエスの例えは,幾世紀にも及ぶキリスト教の歴史を理解するかぎとなりますか。では調べてみましょう。

      小麦と雑草のたとえ話

      5,6 (イ)このたとえ話の中の「天の王国」という表現がキリストの天の政府のことであり得ないのはなぜですか。(ロ)では,王国に関する例えは,何に言及しているのですか,そして何を示しているのですか。

      5 イエスはこのたとえ話を,ご自分が滞在しておられた家にほど近いガリラヤ湖畔で,ご自分の弟子たちと,好奇心の強い大群衆とに語り,こう言われました。「天の王国は,自分の畑にりっぱな種をまいた人のようになっています。人びとが眠っている間にその人の敵がやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました。葉が生え出て実を生み出すと,そのさいに雑草も現われました」― マタイ 13:24-26。

      6 マタイ 13章に記されている王国に関する他の例えを一読してみると,これらの例えの中で用いられている「天の王国」という表現が,天にある完成されたメシアの政府ないしは王国のことではないという理解が得られます。「雑草」や,パン種に似た「悪」(33節。コリント第一 5:8),あるいは邪悪でふさわしくない「魚」になぞらえられる人々(47-50節)が,キリストの天の王国でキリストと交わるところを想像できますか。そんなことは想像もつきません。ですからこれらの例えは,「天の王国」におけるキリストの将来の仲間たちを選ぶことに関連して,良い事態と悪い事態の進展について述べたものに違いありません。特に小麦と雑草に関するたとえ話は,キリストと共にその王国で統治する召しを受けていると主張する,地上にいる人々のある状態を示すものです。この状況は,象徴的な「収穫」の時に終わりますが,それまでしばらくの間許されることになっています。

      7,8 (イ)「人の子」とはだれですか。(ロ)他のどんな預言が,「人の子」について,また「りっぱな種」によって象徴される人々について述べていますか。

      7 「家あるじ」つまり「種をまいた人」,「自分の畑」,「りっぱな種」,「その人の敵」そして「雑草」などの象徴的な意味については,イエスご自身がそのあとのところで説明しておられます。このように記されています。「群衆を去らせたのち,イエスは家の中にはいられた。すると弟子たちがみもとに来て,『畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください』と言った。イエスは応じて言われた,『りっぱな種をまく者は人の子です。畑は世界です。りっぱな種とは王国の子たちです。しかし雑草は邪悪な者の子たちであり,それをまいた敵とは悪魔です』」― マタイ 13:36-39。

      8 イエスはご自身を「人の子」と認めておられました。(マタイ 8:20; 25:31; 26:64)興味深いのは,ダニエルに与えられた幻の中でイエスが王国に関連して「人の子」と預言的に呼ばれていたことです。それは次のような預言です。「この方[『人の子』]には支配権と尊厳と王国とが与えられた。もろもろの民,国民またもろもろの言語の者が皆,この方に仕えるためであった。その支配権は,過ぎ去ることのない,定めなく続く支配権で,その王国は滅びに至ることのないものである」。この人の子には共に支配を行なう仲間がいることを示して,この預言的な幻は,さらにこう続いています。「そして,王国と,支配権と,全天下のもろもろの王国の偉観とは,至上者の聖なる者である民に与えられた。彼らの王国は定めなく続く王国であり,すべての支配権はまさに彼らに仕え,また従う」― ダニエル 7:13,14,27,新。

      「りっぱな種」をまく

      9 「畑」とは何ですか。イエスがそこに「りっぱな種」をまかれたのはなぜですか。

      9 このたとえ話の「家あるじ」であるイエスは,こうした「聖なる者たち」,つまり「王国の子ら」を必要な数だけ世から集めることを目的として「畑にりっぱな種」をまかれます。この「畑」は人類の世である「世界[ギリシャ語でコスモス]」として説明されています。イエスが地上で宣教を行なわれて以来,人類は「耕されている……畑」,つまり「りっぱな種」である「王国の子ら」をまき,また栽培する機会を与える宗教上の畑となりました。(コリント第一 3:9)イエスは地上での3年半にわたる宣教期間中,「畑」のユダヤ人の部分を熱心に準備なさいました。(マタイ 9:35-38)そして西暦33年のペンテコステ以降は,まず最初はユダヤ人の中に,最終的には全世界つまり「畑」に「りっぱな種」をまかれました。―使徒 1:8。

      10 ユダヤ人と改宗者たちの中で,種をまく業はどのように進歩しましたか。

      10 イエスは「りっぱな種」について説明し,「[これら]は王国の子たちです」とおっしゃいました。これら霊によって生み出され,油そそがれた「王国の子たち」の最初の人々は,イエスの忠実な使徒たちと,西暦33年のペンテコステの日にエルサレムで聖霊の賜物を受けた100人余りの男女の弟子たちでした。(使徒 1:13-15; 2:1-4)その同じ日に,ユダヤ人と改宗者が合わせて約3,000人,新しく設立されたクリスチャン会衆に加えられました。(使徒 2:5-11,41)エホバはこの種まきの業を祝福され,「救われてゆく者たちを日ごとに彼らに加えてゆかれた」ので,やがて「男の数[女性は数えられていないと思われる]はおよそ五千になった」のです。そのすぐあとには,さらに次のように記録されています。「主を信じる者が,男も女も大ぜい加えられていった」。(使徒 2:47; 4:4; 5:14)種まきの業は,ユダヤ人と改宗者たちの中で急速に前進しました。

      11 サマリア人と非ユダヤ人の中で,種をまく業はどのように進歩しましたか。

      11 種まき人であられるイエスは,サマリア人の中に種がまかれるように取り計らわれたあと(使徒 8章),聖霊により,その業を無割礼の非ユダヤ人,つまり異邦人にまで拡大されました。(使徒 10章; 13:1-5,46,47)クリスチャン会衆は数十年もたたないうちに,はるか西方とまではゆかないまでも,北アフリカから黒海に,またバビロニアからイタリアにわたって設立されました。(使徒 2:5-11。ペテロ第一 5:13。ローマ 15:24。コロサイ 1:5,6,23)熱心に種をまいた結果,『葉が生え出て実を生み出しました』。―マタイ 13:26。

      雑草をまき足す

      12,13 「敵」とはだれですか。その敵は「人びとが眠っている間」にどのように雑草をまきましたか。

      12 ところが悪事が企てられました。イエスのたとえ話は次のように警告していました。「その人[種まき人]の敵がやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました。葉が生え出て実を生み出すと,そのさいに雑草も現われました」。(マタイ 13:25,26)イエスは「その人の敵」を,「人びとが眠っている間に」妨害行為に出る「悪魔」としておられます。聖書の中では「眠り」は死あるいは霊的な眠気を象徴する場合があります。(マタイ 9:24。ローマ 13:11。テサロニケ第一 5:6)パウロは『自分の行程を終える』ことについて語ってから,エフェソスのクリスチャン会衆から来た長老たちに次のように語りました。「わたしが去ったのちに,圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなたがた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう。ですから,目ざめていなさい」― 使徒 20:24-31。

      13 歴史的な事実が示すところによると,サタンが「やって来て,小麦の間に雑草をまき足した」のは,「人びとが眠っている間」のことでした。一団となって背教に対する『抑制力として働いた』人たちが死の眠りにつくようになると,多くのクリスチャンの長老たちは,『目ざめている』ことをしなくなりました。(テサロニケ第二 2:3,6-8)彼らは霊的に眠気を覚え,「王国の子たち」の中に入り込み始めていた「圧制的なおおかみ」から彼らを守りませんでした。その圧制的な者たちが,「りっぱな種」の中にまかれた「雑草」でした。使徒のうち最後まで生きていたヨハネは,使徒時代の終わりが近付いていることに言及し,こう書きました。「あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります。彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし彼らが出て行ったのは,すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです」― ヨハネ第一 2:18,19。

      14 イエスのたとえ話に出て来る雑草の種類についてどんな情報が与えられていますか。

      14 イエスは,『雑草は邪悪な者の子たちです』と言われました。(マタイ 13:38)H・B・トリストラムは,自著「聖書の博物学」の中で,このたとえ話に出て来る雑草の種類について注解し,次のように書いています。「毒麦(ジザニア)は,アラビア語でズウワーンと呼ばれているものと同じで,ギリシャ名はこれから来ている。Lolium temulentum,すなわち有芒毒麦。毒麦はライグラスの一種で,種子の部分に毒があり,イネ科中唯一の有毒種である。ズウワーンの語源は“おう吐”を意味するザーン。毒麦を食べると,激しいおう吐,けいれん,下痢を起こし,その結果死ぬことも珍しくないからである。この植物の葉は,大部分の野草よりも幅が広く,穂が出るまでは小麦と見分けがつかない」。

      15 (イ)「雑草」は「小麦」が変質したものですか。(ロ)ですから,「人の子」はどんなことに関して潔白ですか。

      15 注目すべきなのは,この「雑草」は,タルムードaを信奉するユダヤ人や他の人々がかつて信じていたような,小麦が変質したものではないということです。小麦の種は決して雑草に変わることはありません。これは,「地は草を,種を結ぶ草木を,……その種類に従って産する果実の木を地の上に生え出させるように」というエホバの不変の法則に反します。(創世 1:11,12,新)この科学的な事実からすると,「人の子」キリスト・イエス,すなわち「りっぱな種をまく者」は,「その人の畑」で生ずることに対して全く責任がありません。キリストがまいた「りっぱな種」は決して雑草の実にはならなかったでしょう。りっぱな種は「小麦」すなわち真の「王国の子たち」しか産出できません。その人の「畑」でその後に生じたことは,その人の敵が「雑草」つまり「邪悪な者の子たち」を計画的に,また敵意を抱いてまき足していったことの直接的な結果でした。

      16 「小麦」と「雑草」に関するたとえ話は,歴史的に見てどのように興味深いものですか。

      16 したがって,「小麦」と「雑草」に関するイエスの例えは,幾世紀にもわたるキリスト教の歴史を説明するのに大いに役立ちます。歴史的事実は,使徒たちが死んだあとに,サタンが真のクリスチャンの会衆の中に,多くの「雑草」,「圧制的なおおかみ」,そして「反キリスト」を引き入れたことを示しています。イエス,パウロ,ペテロ,ヨハネ,ユダが予告していた通りです。(使徒 20:29。ペテロ第二 2:1-3。ヨハネ第一 2:18。ユダ 4)この点についてはイエスも次のように述べておられました。「葉が生え出て実を生み出すと,そのさいに雑草も現われました」― マタイ 13:26。

      17 「雑草」が特に明らかになったのはいつですか。

      17 これらの「雑草」は西暦2世紀および3世紀に特に明らかになり,魂は本来不滅であるとか,地獄の火とか,三位一体という非聖書的な教理が,いわゆる教会の教父たちによって教えられるようになりました。これらの人々の多くは,聖書の教えに忠実なクリスチャンの監督というより,哲学者に近い存在でした。西暦4世紀の初め,異教徒であったコンスタンティヌス大帝が背教したキリスト教とローマの異教とを融合させるに至ってそれは頂点に達しました。ローマ・カトリック,ロシア正教,ギリシャ正教,プロテスタントの種々の教派などに見られるこうした偽りのキリスト教は,過去幾世紀もの間,また現在に至るまで,「雑草」をはびこらせてきました。

      「両方ともいっしょに成長させておきなさい」

      18 イエスのたとえ話によれば,その後どんな進展が見られますか。

      18 「人の子の」「奴隷たち」はこうした事態にも困惑することはありませんでした。イエスのたとえ話は続きます。「それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,『ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。では,どうしてそれに雑草が生えてくるのでしょうか』。彼は言いました,『敵である人がこれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってこれを集めることをお望みですか』。彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦をいっしょに根こぎにすることがないようにだ。収穫まで両方ともいっしょに成長させておきなさい。収穫の季節になったら,わたしは刈る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることにかかりなさい,と言おう』」― マタイ 13:27-30。

      19 「家あるじの奴隷たち」が心を痛めていたのはなぜですか。

      19 これら心を痛めていた「奴隷たち」(27節)が「刈る者たち」(30節)と同じ者であるかどうか,イエスは説明しておられません。もし同じであるなら,み使いたちが彼らの主人の畑のおびただしい「雑草」に心を痛めていたことになります。(マタイ 13:39)これらの「奴隷たち」は,「邪悪な者の子たち」を象徴する有芒毒麦をすぐに抜き取るべきかどうかと尋ねています。(マタイ 13:38)彼らは,悪魔である「敵」が悪意をもってまいた「雑草」つまり偽りのクリスチャンたちが,本物の「王国の子たち」である真の「小麦」の成長を止めるのではないかという心配を抱いていました。

      20 「家あるじ」は自分の「奴隷たち」にどのように答えましたか。このことは,歴史によってどのように証明されてきましたか。

      20 ところが「人の子」である家あるじは,自分の「奴隷たち」が出掛けて行って「雑草」つまり偽りのクリスチャンたちを集め,彼らを真のクリスチャンである「小麦」から分ける権威をお与えにはなりませんでした。「収穫まで両方ともいっしょに成長させておきなさい」と述べておられます。それで,真のクリスチャンも偽りのクリスチャンも,人類の「畑」つまり「世界」で共に成長してきたのです。それでも,「収穫の季節」は必ず来なければなりませんでした。それはいつのことですか。このことはあなたにどのような影響を与えますか。

  • 「終わりの時」における収穫
    ものみの塔 1981 | 12月1日
    • 「終わりの時」における収穫

      『収穫は事物の体制の終結です』― マタイ 13:39。

      1 イエスの予告された「収穫」が二重の意味で喜びの理由となるのはなぜですか。

      豊かな収穫はいつでも人の心を喜びと感謝で満たします。収穫期は,長期にわたる重労働の実を刈り取る時です。「小麦」と「雑草」に関するキリストのたとえ話の中で予告されていた収穫は,二重の意味で全人類にとって喜びとなります。なぜでしょうか。なぜなら,収穫はキリストの「定めなく続く支配権」に共にあずかる「王国の子たち」,すなわち「聖なる者たち」の必要な人員が集められて,地を支配する良い政府が確かなものにされることを意味するだけでなく,この「収穫」自体,わたしたちが「事物の体制の終結」の時に,そして義の新秩序の門口にいる証拠となるからです。―ダニエル 7:14,27,新。マタイ 13:38,39。ペテロ第二 3:13。

      「シンテレイア」と「テロス」

      2 ギリシャ語のシンテレイアの訳語として,「終わり」より「終結」の方がすぐれているのはなぜですか。したがってシンテレイアは,ダニエル書の中に述べられているどんな期間に相当しますか。

      2 一部の聖書翻訳は,「収穫」は「世の終」であるとイエスが言われたように信じ込ませようとしてきましたが,イエスはそうは言われませんでした。(欽定訳。アメリカ標準訳。エルサレム聖書)そのような翻訳は,シンテレイアとテロスという二つのギリシャ語を区別していないのです。W・E・バインの「新約聖書用語解説辞典」には,シンテレイアの説明として「この語は終末を示すものではなく,物事が定められた頂点へと向かって行くことを示す」と述べられています。ですから「収穫は事物の体制の終結[シンテレイア]であ(る)」と語られたイエスは,始めと終わりがある一定の活動期間について述べておられたのです。マタイ 13章30節によると,イエスは「収穫の季節」に言及しておられますが,これは明らかに,預言者ダニエルが「終わりの時」と述べた期間,つまりある期間のことを指し示しています。(ダニエル 12:4,新)おもしろいことに,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の翻訳者たちはダニエルのこの節を翻訳した際,シンテレイアという言葉を用いました。

      3 「収穫の季節」は何と関係していますか。そしてギリシャ語のテロスは何を意味し,その語はマタイ 24章14節では何に関して用いられていますか。

      3 この同じ言葉は,マタイ 24章3節の中でも用いられています。そこでは,弟子たちがイエスに次のように尋ねています。「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結[シンテレイア]のしるしには何がありますか」。そういうわけで,「収穫の季節」は刈り入れ人としてのキリストの,目に見えない臨在と関連があります。弟子たちの質問に対する答えとして,イエスは国際的な戦争,食糧不足,疫病,大地震,不法,恐れる傾向が一般化することなどを列挙しました。(マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章の類似の記述と比較してください。)それから,その「収穫の季節」に終わりが到来することを示し,イエスはこう付け加えておられます。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わり[テロス]が来るのです」。(マタイ 24:14)テロスという語は,「終末,中止……最後の部分,終止,特に最終的な事物の終結,宇宙的ドラマの最後の行動という意味における」「終わり」のことですa。

      4 「終結」つまり「終わりの時」はいつ始まりましたか。したがって「収穫」に関して何と言えますか。

      4 1914年以降の現代史の諸事実は,聖書預言の成就であり,現在の事物の体制が「終わりの時」すなわち「終結」(シンテレイア)の時に入ってかなりの時間が経過していることを示しています。W・E・バインの言葉を再び引用すれば,わたしたちは「物事が定められた頂点(つまり終わり[テロス])に向かって行く」様子を目撃しているのです。ですから,イエスの例えの「収穫」は今行なわれているに違いありません。事実,それは頂点に近付いているに違いありません。たとえ話のほかの部分で予告されていた様々な出来事は,1914年以来はっきり見られるでしょうか。

      「地の収穫物はすっかり熟している」

      5 収穫の時に「人の子」はそのみ使いたちに何をするように命じますか。

      5 「畑の雑草の例え」に関する説明を続けて,イエスは次のように述べられました。「収穫は事物の体制の終結であり,刈り手はみ使いたちです。それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものと不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」― マタイ 13:39-42。

      6 どんな人々の間に置かれたまま「小麦」は成長することになりましたか。

      6 「人の子」は,「事物の体制の終結」の時に,真の「王国の子たち」の間から「すべてつまずきのもとになるものと不法を行なっている者」を取り去るために「刈り手」であるみ使いたちを遣わすでしょう。前の記事が示しているように,悪魔が夜のうちにまき足した「雑草」は組織的な背教,つまり抑圧的な宗教指導者の階級組織の支配する偽りのキリスト教を生み出しました。その宗教指導者たちは,使徒パウロが予告していた「不法の人」を構成するようになりました。(テサロニケ第二 2:3-12)真の「小麦」は「終わりの時」まで,このような「雑草」の中に置かれたまま成長することになりました。それから「人の子」がその「刈り手」に,「邪悪な者の子たち」と「王国の子たち」を分けるように命令するのです。

      7 収穫の時を見分けるのに,どんな類似の預言が助けになりますか。

      7 この分ける業が始まったのはいつでしょうか。これに類似したある興味深い預言を調べると,その時についての疑問は解決します。それは次のような預言です。「またわたしが見ると,見よ,白い雲があり,その雲の上には人の子のような者が座っており,その頭には黄金の冠があり,その手には鋭いかまがあった。また,別の使いが神殿の聖所から現われて,雲の上に座している者に大声でこう叫んだ。『あなたのかまを入れて刈り取りなさい。刈り取る時が来たからであり,地の収穫物はすっかり熟しているのである』。すると,雲の上に座している者がそのかまを地に突き入れ,地は刈り取られた」― 啓示 14:14-16。

      8 啓示 14章14節で「人の子」はどのように描かれていますか。したがって,どんな出来事があったあとに,収穫は始まるはずですか。

      8 ここで見る「人の子」イエス・キリストは,「畑にりっぱな種」をまく種まき人ではなく,「地の収穫物」のために行動を起こそうとしている,冠をいただいた王です。この方が雲の上に座しておられることは,目に見えないその臨在を象徴しています。(使徒 1:9-11。啓示 1:7)ですからこの「収穫」は,キリストの臨在の期間中,キリストが王冠をいただき,「日を経た方」であられるエホバから「支配権と尊厳と王国」を受けたあとに生ずるはずです。(ダニエル 7:13,14,新)したがってこの収穫が始まったのは,1914年後のいつかです。その年は,「終わりの時」つまり「事物の体制の終結」の時の始まりを画する年でした。

      9 分ける業が始まったのはいつですか。

      9 1914年後のいつ,人の子は,「王国の子たち」と「邪悪な者の子たち」であるまがいものの「小麦」,言い換えれば偽りのキリスト教の宗教上の指導者たちである「不法の人」を含む「不法を行なっている者」を分けるために「自分の使いたちを遣わし」たのでしょうか。その答えは事実と一致していなければなりません。その事実の示すところによれば,1919年に,「小麦」で象徴されている,霊によって生み出された油そそがれた「王国の子たち」は,人類の宗教上の畑を荒らし回っていた偽りのクリスチャンたち,つまり「雑草」から自由にされ始めました。「地の収穫物」は熟しており,「人の子」がかまを突き入れて刈り取る時が到来したのです。このたとえ話は,「人の子」が「刈り手」であるみ使いたちを用いてそうなさることを明らかにしています。

      雑草は集められて火で焼かれる

      10 幾世紀もの間真の「小麦」を見分けることが難しかったのはなぜですか。しかしいつ以降,「小麦」と「雑草」の違いを明確に区別できるようになりましたか。

      10 イエスは「畑の雑草の例え」の中でこのように語られました。「収穫の季節になったら,わたしは刈る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし……なさい,と言おう」。(マタイ 13:30)幾世紀もの間,「小麦」つまり真の「王国の子たち」のはっきりした実体は,増殖性の強い「雑草」すなわち王国の相続者としての希望を持つと主張する背教したクリスチャンたちによって覆い隠されてきました。霊によって生み出された真のクリスチャンたちが,悪魔の支配する偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから解放された1919年以降になって初めて,「小麦」と「雑草」の違いがはっきりと表われるようになりました。

      11 「雑草」にはだれが含まれますか。どのように彼らは縛られて束にされましたか。

      11 この象徴的な「雑草」には「不法を行なっている者」だけでなく,偽りのクリスチャンすべてが含まれます。「つまずきのもとになるもの」を教える現代の背教者も例外ではありません。「よこしまな奴隷」,『愚かな処女』,「邪悪で無精な奴隷」もその中に含まれるでしょう。(マタイ 24:48-51; 25:1-12,14-30)彼らを火で焼くために『縛って束にする』ということは,彼らが様々な教会やキリスト教世界の宗派に分けられるということを表わしているのではありません。そのような背教した教会組織をみ使いたちが作ったとは言えないからです。さらに,偽りのキリスト教の多くの宗派は幾世紀もの間存続してきましたが,縛ることと束にすることが行なわれるのは,「終わりの時」の「収穫の季節」の間です。「雑草」を縛って束にするということは,1919年以降,真のクリスチャンと偽りのクリスチャンの分離が,人々の心の中でも,実際の分離においても,一層明らかになったという意味です。み使いたちは「雑草」が,真の「王国の子たち」である「小麦」の中に再び戻ることがないようにするので,「雑草」である「邪悪な者の子たち」は『縛られる』のです。

      12 「火の燃える炉」は何を象徴していますか。この「雑草」がその炉の中に投げ込まれるのはいつですか。

      12 み使いたちが「雑草」を縛ったあとにどうするかについて,イエスは次のように付け加えておられます。「それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」。(マタイ 13:42)わたしたちが調べているのはたとえ話であることを忘れないようにしましょう。「小麦」と「雑草」が象徴的なものであるなら,「火の燃える炉」,『泣き悲しむこと』,そして『歯ぎしりすること』なども象徴的なものです。マタイ 25章41節および46節は,「永遠の火」が「永遠の切断」を象徴することを示していますし,啓示の書(20:14; 21:8)には,「火の湖」が,復活の希望のない滅び,つまり「第二の死」を意味すると述べられています。ですから「雑草」は滅びへの道をたどっているのです。

      13 雑草によって象徴されている人々は,いつまたどのように泣き,また歯ぎしりしましたか。しかし彼らが一層激しく嘆くのはいつですか。

      13 「火の燃える炉」が完全な滅びを象徴する以上,「雑草」が「泣き悲しんだり歯ぎしりしたりする」ことは,彼らが滅ぼされる前に生じなければなりません。現在までの何十年かの間,偽りのクリスチャンたち,特にキリスト教世界の僧職者である「不法の人」は,「王国の子たち」つまりエホバの油そそがれた証人たちから,強烈な聖書の真理による攻撃を受け,自分たちの実体が「邪悪な者の子たち」であることを暴露されたという事実を嘆いてきました。(マタイ 13:38。啓示 8,9章b)背教者の僧職者は,エホバの証人がエホバの「善意の年」だけではなく,「復しゅうの日」をも恐れずに宣べ伝えていることに対して歯ぎしりしてきました。(イザヤ 61:1,2,新)しかしながら,そのような「雑草」はみな,「人の子」がまもなく到来して,彼らとサタンの世の残りの部分を滅ぼす時,一層激しく嘆き,歯ぎしりするでしょう。―マタイ 24:30。

      『義人たちは太陽のように明るく輝く』

      14 「小麦」はどこに集められますか。このような「義人たち」は何を行ないますか。

      14 「刈る者たち」に,滅ぼすために「雑草」を縛るよう命令してから,「人の子」はその使いたちに「小麦をわたしの倉に集めることにかかりなさい」という別の命令を与えています。(マタイ 13:30)そしてイエスはこのたとえ話の説明を,次のように結んでおられます。「その時,義人たちはその父の王国で太陽のように明るく輝くのです。耳のある人は聴きなさい」― マタイ 13:43。

      15,16 (イ)「義人」が輝くのはなぜ天においてではありませんか。(ロ)どこでまたどのように,「義人」は輝きますか。彼らはどこに集められますか。

      15 啓示 21章23節には,天の王国政府つまり新しいエルサレムについて次のように述べられています。「そしてその都市は,太陽や月が照らす必要はない。神の栄光がそれを明るく照らし,そのともしびは子羊であったからである」。したがって,天の王国の光は,復活した「王国の子たち」に依存しているわけではありません。それは輝かしい神の光に浴しているのです。この地上の諸国民とは何という違いでしょう。(エフェソス 4:17,18; 5:8)パウロは,「王国の子たち」がまだ地上にいる間,エホバが彼らのためにどんなことを行なわれるかを説明し,こう書いています。「神はわたしたちをやみの権威から救い出し,ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」― コロサイ 1:13。

      16 ゆえに,「義人たち」が「その父の王国で太陽のように明るく」輝くというのは,地上にいるこうした油そそがれたクリスチャンたちが啓発を受けている状態,およびその栄光ある奉仕のことを述べているのです。彼らは地上で『世を照らす者として輝きます』。(フィリピ 2:15。マタイ 5:14)彼らが1919年以来集め入れられてきた「倉」は,「その父の王国」であると言えます。クリスチャン会衆は,エホバの宇宙主権を認める神権的な組織だからです。それは清い組織です。み使いたちによって「すべてつまずきのもとになるものと不法を行なっている者」は集め出されるからです。―マタイ 13:30,41,43。

      「地の収穫物」は続く

      17 どれほどの「王国の子たち」が収穫されますか。しかし取り入れる業が続けられるのはなぜですか。

      17 こうしたことすべてはあなたにどんな影響を与えますか。「耳のある人は聴きなさい」という言葉でイエスがこの例えを結んでおられることを心に留めましょう。(マタイ 13:43)確かにこのたとえ話は,キリストの天的政府を構成するのに必要とされる「王国の子たち」の全成員を集めることを説明しています。「地の収穫物」について述べている啓示の章(14章)の中では,このようにして収穫され,天の「シオンの山」で「子羊」と共に統治する人々の数が14万4,000であることが明らかにされています。しかしその章は次のことも付け加えています。「これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」。(啓示 14:1-4)「初穂」の収穫があるなら,農耕年の最後に畑の他の実を取り入れることによって象徴されている,遅くに取り入れる他の実もあるということです。ですから取り入れる業は続いており,それは確かにあなたに影響を与えます。

      18 「王国の子たち」の収穫に加えて,どんな他の分ける業が行なわれますか。

      18 「王国の子たち」の収穫は,1919年から始まり,1930年代の初期まで速い速度で行なわれました。油そそがれたこれら忠実なクリスチャンたちが,『光を輝かせ』たので,聞く耳を持つ多くの他の人々は,キリスト教世界の様々な教会や宗派の中にいる偽りのクリスチャンたちである「雑草」から分けられることをよしとしました。(マタイ 5:16)この分ける業については,「事物の体制の終結」に関するイエスの預言の中でも予告されていました。(マタイ 24,25章)イエスはこう述べておられます。「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。そしてこれらの者[やぎ]は去って永遠の切断にはいり,義なる者たちは永遠の命にはいります」― マタイ 25:31-33,46。

      19 神のご予定の時に,「小麦」級の残っている者たちと「大群衆」に何が生じますか。

      19 このように,油そそがれたクリスチャンたちの「小麦」級の収穫は終わりに近付いていますが,「羊」を取り入れる業は続きます。神のご予定の時に,「小麦」級の残っている者たちは地上での歩みを終え,「人の子」の天の王国つまり政府の一部として,その「人の子」に加わるでしょう。彼らは14万4,000人の他の「聖なる者たち」と共に「王国を受け」ます。(ダニエル 7:18,22,27,新)現在集められつつある「羊」の「大群衆」は,現在のサタン的な事物の体制の終わり(テロス)をしるし付ける「大患難」を生き残り,「人の子」の「定めなく続く支配権」つまり天の王国の支配下の地上で,「人の子」に仕える「もろもろの民,国民,またもろもろの言語の者」の一部となるのです。―啓示 7:4,9,10,14。ダニエル 7:13,14。

      20 収穫がかなり進んでいるという事実は何を示していますか。そのためあなたは何をすべきですか。なぜですか。

      20 あなたは,「小麦」と「雑草」の例えの成就に関しどんな立場にありますか。「王国の子たち」の「収穫」がかなり進んでいるということは,「事物の体制の終結[シンテレイア]」がその終わり(テロス)に近付いているという意味です。小麦のような,キリストの油そそがれた「兄弟たち」に対する態度,および彼らをどのように待遇するかということは,あなたが「永遠の切断」に入るか,それとも「永遠の命」を受けるかを左右するものとなります。(マタイ 25:34-46)「忠実で思慮深い奴隷」である油そそがれた「小麦」級の忠節な仲間であることを実証してください。その人々に,キリストは霊的な『食物を時に応じて』備える任務を与えておられるのです。(マタイ 24:45)この取り入れの業を熱心に続けてください。忘れてはなりません。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わり[テロス]が来るのです」。そして「終わり[テロス]まで耐え忍んだ人が救われる者」なのです。―マタイ 24:13,14。

      [脚注]

      a W・バウエル著,W・F・アーント,F・W・ギングリッヒ共訳,「新約聖書および他の初期キリスト教文献に関する希英辞典」。

      b ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会が1969年に発行した『その時,神の秘義は終了する』と題する本(日本文は1976年発行)の16,17章をご覧ください。

  • 教会員であることにはどんな意味があるか
    ものみの塔 1981 | 12月1日
    • 教会員であることにはどんな意味があるか

      米国マサチューセッツ州の,郊外を含むボストン地域を対象に行なわれた調査の結果を基に,ハートフォード財団神学校の一研究者は,「信仰を持つ人や参加する人は依然として非常に多い」という意見を述べました。インタビューに応じた人々の90%は神を信じていると答え,70%以上が教会に所属していると答えました。

      しかしこの調査を行なったボストン・グローブ紙は,「組織宗教は個人に対して少しも感化を与えていないようだ」と述べています。なぜかというと,「深刻な問題」が生じた時に僧職者に相談して助言を求めると答えたのは,調査の対象になった人々全体のわずか5%,そして教会員でそのように答えたのはわずか7%に過ぎなかったからです。

      また,「教会員の大多数が聖書を読まず,食事の時に祈りをせず,教会に定期的に出席していない」こともこの調査で分かりました。カトリック教徒と称する人々の間では聖書を幾らか定期的に読む人は11%,そして聖書を導きとして用いる人はわずか8%に過ぎません。プロテスタントの場合,その数字はそれぞれ23%と15%です。

      聖書は,人間が「敬神の専念という形」を取りながら「その力において実質のない者」となる時が来ることを予告していました。これは使徒パウロが,「終わりの日」の時のクリスチャンと称する人々の大多数について述べた言葉です。(テモテ第二 3:1-5)災いの前兆が見えませんか。

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