神の目的とエホバの証者(その8)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
二つの食卓で霊的な食物をくらべる
たとえば,1892年1月1日号の「ものみの塔」には,一つの特別記事が出されましたが,それは1927年までつづいたのです。a 「ものみの塔」の各号の中で,協会はアメリカ,カナダ,英国,そして他の多くの国々の多数の新教徒教会の使用していた聖書論議のプログラムと平行してゆきました。これらの主要な新教徒制度は,「国際日曜学校教課」と呼ぶものを出版しました。これは,会衆派牧師エフ・エヌ・ペロウベットと彼の補佐たちによつて準備された年1回発行の本で,毎日曜日の聖書研究の概略を記しています。新教徒の諸制度は,この本を研究したのです。たとえば,1908年1月19日の日曜日の研究は,ヨハネ伝 1章35-51節の聖句に基いていました。「黄金聖句」と呼ばれる研究の中心の聖句は,この部分の中の1節です。例としてあげたこの日付の聖句は,次のようです,「わたしたちは,モーセが律法の中にしるしており,預言者たちがしるしていた人,ヨセフの子,ナザレのイエスにいま出会つた」。その本の著者は,この聖句をどのように考慮すべきかについて,日曜学校の先生や牧師たちにいろいろのノートや提案を提供していました。この本はなかなか評判の良い本で,50年以上のあいだ全世界の多数の新教徒の群れは,この本を使用していたのです。
1892年以来,各号の「ものみの塔」は,翌月の日曜学校の「黄金聖句」のそれぞれに対して,協会の見地にもとづく研究を発表しました。1908年1月1日号の中には,「主の宝石を探す」という題の記事がありました。それは,例として選んだヨハネ 1:35-51にもとづく1月19日の「黄金聖句」を論じていました。それで,1927年まで,すなわち35年以上のあいだ,エホバの証者と多数の自称クリスチャン,特に新教徒は,毎日曜日に同じ聖書の記事を研究しました。しかし,それは二つのちがつた食卓で行なわれたのです。ものみの塔協会は,主の食卓から来る進歩した真理の理解にもとづいて研究しました。そして,イエスの民が忠実に目をさましているなら,イエスは来てその民に給仕するであろう,と言われたイエスの言葉を認識しました。それで,エホバの証者が野外奉仕で会つた人々は,主の食卓に給せられているものと,自分たちの教会制度に給せられているものとを比較することができました。「ものみの塔」(英文)は,これらの日曜学校の教課について次のように語つていました。
これらの教課が用いられる聖書クラスに出席する読者たちを助けるために考案されたもので参考記事になる。それらの人々は,他の人々をも全き福音にみちびき得るであろう。b
多数の善意者たちは,この比較によつて,エホバの真の食卓に給せられている豊かな霊的な食物を認めて,それを受けいれ,他の宗教的な食物をことごとく排除しました。このことは,もちろん新教徒の指導者たちをさらに怒らせることになりました。
ロイス: それは十分想像がつきますわ。正統派教会の見解と,それに反対するエホバの証者の見解が真向うから比較されているのですもの。
マリア: それは牧師たちの敵意を駆り立てるためにされたのではなく,むしろ聖書の研究生を援助して,何を信ずるかを決定させる際の助けになるものでした。救いは人の取る道如何に依るのですから,人が真理を知り,それぞれ決定をくだす機会を持たねばならないことは当然でしよう。これは,ほんとうに公明正大のことです。
ジョン: それから数年の後,協会の集会に出席していたすべてのクリスチャンの中から,自発的な奉仕者がつのられて,新しい冊子「聖書対進化論」(英文)30万冊の大規模な配布が行なわれるようになりました。この冊子は,人々が日曜日に新教徒の教会から出るときに無料で渡されました。
トム: 教会包囲戦術とも言えるものしようね。
ジョン: たぶん,そうかも知れません。しかし,キリストの御国の初期運動奉仕者たちは,ふつうの教会員の礼拝出席を妨害しようとつとめませんでした。
ロイス: でも,なんだか問題をわざわざ求めているようですね。
ジョン: 私たちは,その見地に立つて考えていません。もつとも,たとえ問題が起きたとしても,人々には自分自身で決定する機会が与えられねばならない,と私たちは知つていました。預言者エレミヤがエルサレムの宗教的なユダヤ人に音信を述べ伝えたとき,彼は問題だけを探していたと思いますか。
ロイス: 〔笑いながら〕もちろん,思いません。すると,エレミヤも預言的な「型」と仰言られるのでしよう。
ジョン: エレミヤのわざについて聖書の述べている言葉を読んでみましよう。エレミヤ記 7章2節を読んでいただけますか。
ロイス: 〔読む〕「汝エホバの室の門にたちそこにてこの言をのべて言へ,エホバを拝まんとてこの門にいりしユダのすべての人よエホバの言をきけ」私はこの聖句に注解したいと思いません。
ジョン: 別の聖句も読んでみましよう。エレミヤ記 11章6節です。
ロイス: このところです。〔読む〕「汝すべてこれらの言をユダのまちまちとエルサレムのちまたにしめし,汝らこの契約の言をききてこれを行へといふべし」なるほど,今日のエホバの証者のわざの前例とも言えますね。その仕事はどのように行なわれましたか。
ジヨン: 1899年4月15日号の「シオンのものみの塔」は,それを「自発者の奉仕」と呼び,その計画を次のように述べています。この活動についての望ましい計画は,各町または村で働く友たちが,計画案をつくつてどの教会もはぶかれることなく,しかも,二度と奉仕をうけるようにしないことである。大きな教会では,教会員が出るとたんすぐに配られねばならぬため,すくなくとも2人か3人が必要である。概して言うと,配布する者が教会から人々が歩く道に沿つて半町ぐらい離れたところに立つ方が良い効果を収める。c
アメリカ合衆国,カナダ,そして英国の幾千人という自発奉仕者は,熱心にこの仕事に参加しました。そして,その最初の年の中には,このようにして94万8459冊の冊子が人々に配られました。d このわざは長い年月つづけられて,特に日曜日になされました。そして,ついに家から家の配布のわざも行なわれるようになり,日曜日の朝には家庭の戸口に冊子を置いて行くわざもなされました。毎年二度か三度,新しい冊子は発表され,教会出席者たちに幾百万冊もくばられました。このような仕方で,真理の水は教会の門のところにまで達し,宗教的な羊飼の牧場に溢れ出て行つたのです。
トム: 牧師たちが奮然として激怒の反応を示したことは間ちがいない。
ジョン: 牧師たちの敵意にみちた反応は,強烈なものでした。牧師たちは,街頭に立つて無料の冊子配布している伝道者を捕えるために,幾度も計画を立てました。それで,協会は時折り法律の助言を与えることが必要でした。官憲当局の妨害があつたからです。官憲当局は,牧師からそそのかされて「法律による悪巧み」をつくり,そのような冊子の街頭伝道に対する勇気をなくさせ,妨害し,あるいは全く中止させようとしました。e
ロイス: このわざから良い結果が得られたことと思います。
ジョン: たしかに,そのとおりです。ますます大ぜいの人々は真理を知るようになり,それぞれの属していた教会から離れて来ました。それらの人々が教会から離れることを援助するため,そして教会の名簿からそれらの人の名前を取り消す教会側の責任者たちに対する証言のため,特別に印刷された「脱退」の手紙が1900年からつくられました。これらの手紙は,ものみの塔協会用紙に印刷され,適切な証言の言葉が記されていました。それで,その手紙に署名する人は聖書についての知識をいつそう多く得ることになりました。それは,啓示とか,特別の霊感とかまぼろしによるのでなく,聖書を注意深く分析的に研究した結果です。その手紙の中には,教会で教えている偽りの教理に反する簡単な教理がすこし述べられておりました。その手紙に署名する人は,教会で教える教理は間ちがいであると知るにいたつたのです。
このように,新しく興味を持つた人が真理について確信するようになるにつれて,この世の組織から自由に離れて立たねばならぬ責任が指摘されました。そして,そのことを願う人々は,この手紙を提出しました。このことは30年間つづけられましたが,それは教会制度から脱退する人のとる立場について健全な聖書的な論議を提供しただけでなく,さらに御国の音信を支持する者と反対する者たちとのあいだにいつそうの分裂をもたらしました。f
トム: わざは,その重味のためにつぶれなかつたというわけですね。初期のクリスチャンたちを弁護した法律家のガマリエルの述べた原則が大事なものであるとすれば,あなた方の制度の進歩に対して人々は考えをめぐらすことが必要でしたね。
ジョン: そのときにはわざが始まつたばかりでした。そのわけで,反対もあつたのです。しかし,そのわざに対して大ぜいの人々は真剣な考慮を払うようになりました。
第7章 反対の根本をばくろする
トム: ジョンさん,先週あなたは宗教指導者たちが教義の点でラッセルに応答しようとした,と仰言いましたね。それは,どう行なわれたのですか。
ジョン: それは限られた努力で,実際のところ彼らの目的は失敗に帰しました。幾十万,幾百万という聖書の冊子やパンフレットが(ペンシルバニア州の)ピッツバーグ本部から遠い所にまでたえず配布されるにつれて,牧師の反対はますますはつきりした形をとるようになりました。これらの著名な指導者たちは,なんらかの手を打たねばならないと感じたのです。彼らは,福音伝道同盟の認可しない者が聖書のことを権威をもつて語ることに反対しました。ラッセルは,この同盟に属している大きな宗派の経営した神学校を卒業した者ではありません。それで,牧師たちはものみの塔協会の会長であつたラッセルを嘲笑し,特に彼が「パストー」(牧者)と呼ばれることに反対しました。彼らは無節操な新聞を自分たちの道具として,ラッセル個人について,また彼の妻との間の不和について偽りの醜聞をつくりあげて,ひろめました。g
それから,1903年の3月10日,牧師たちの同盟は,高い教育を身につけて弁論に巧みな人を選んで,ラッセルの聖書解明に返答しようとつとめました。彼らは,6日間の公開討論会を開いてラッセルに挑戦しようとしました。実際には,これはラッセルの信用をなくして,ラッセルを「無知で無学な人」とばくろするための別の試みでした。ラッセルの討論相手は,ピッツバーグ,ノース・アベニュー・メソジスト監督教会の牧師イー・エル・イートン博士でした。申込みをうけてから2日以内にラッセルは,誠実な気持をもって,この申し込みをうけ入れ,討論は記録破りの聴衆の前でピッツバーグのカーネーギー・ホールでその年の秋に行なわれました。
最初の論題は,10月18日の日曜日の午後に討論されました。イートンは,救いをはかる神のめぐみは人類の堕落の時から始められ,死後には裁きがないと聖書が教えていると肯定の論を提出しました。ラッセルは,聖書的に否定しました。
第2番目は,10月20日,火曜日の夜,ラッセルは死者の魂が無意識でその体は墓にあることを聖書は明白に教えていると肯定の論を提出しました。イートンは否定しました。
第3番目は,10月22日の木曜日の夜,救われる者はみな霊者になり,大審判の後に天に入る,と聖書は教えているとイートンは肯定の論を提出しました。ラッセルは否定しました。
第4番目は,10月27日の火曜日の夜,ラッセルは,福音時代の「聖徒」だけが「第一の復活」に参加する,と聖書が教えていると肯定の論を提出しました。また大ぜいの群衆は,その後の復活によつて救われると論じました。イートンは否定しました。
第5番目は,10月29日の木曜日,ラッセルは,キリストの再臨と千年統治の両方の目的は,地上の全家族を祝福することである,と聖書が教えている,とラッセルは肯定の論を出し,イートンは否定しました。
第6番目の最後の討論は,11月1日の日曜日でした。罪に対する神罰はついには矯正不能な者に加えられるもので,永久につづく,想像を絶する大きなくるしみであると聖書は教えている,とイートンは論じました。ラッセルは,この地獄の火の教理を強く否定しました。h
マリア: その討論に出席していたある人々は,興味深い物語りを話しています。もちろん,幾千人というメソジスト派の教会員およびピッツバーグ地方の他の宗派の者だけでなく,兄弟たちはみな出席しました。最初の夜,ラッセルが会場についたとき,びつくりしたことにイートン博士だけでなく数人の著名な新教徒の牧師が演壇のうしろにいて,委員会のような形式で坐つていました。イートンは討論の間中これらの牧師からノートを幾度も手渡され,討論の際の指導をうけたのです。一方,ラッセルは全くひとりだけで立ちました。幾年かの後,出版物に出たこつけいな漫画には,パストー・ラッセルを獅子の穴にいたダニエルとして表わされていました。
「地獄の火」は消された
ロイス: この討論の結果は何でしたか。
ジョン: 全体としてラッセルは6つの討論の一つ一つに勝利を収めました。特に,最後の地獄についての討論に勝ちました。出席していた牧師のひとりは,その勝利を認めて,最後の討論が終つた後にラッセルのところに来て「あなたが地獄にホースを向けて,あの火を消すのを見てうれしく思つた」と告げたそうです。i さらに,それから後はイートンの会衆に属していた大ぜいの人々はエホバの証者になりました。全くのところ,いまでも生存しているある年老いた兄弟たちは,かつてイートンの会衆の会員でした。これは,背教の偽りの教理に対する真理の力を強力に表わすものでした。
トム: 「地獄の火」の教理を信ずる人がいるなど,ちよつと考えられませんね。愛の権化と考えられる神が,そんな場所をつくるなどということを信ずるのは,理に合いません。
ロイス: 私もとうてい信じられません。しかし,私たちの教会は,地獄の火については多く教えていません。子供の頃から,教会で地獄についての話を聞いた覚えはありません。
ジョン: ロイスさん,多分その通りでしよう。教会の教えがこのように変化したのは,科学の知識が進歩したからではありません。そのわけは,あの牧師がパストー・ラッセルに告げた言葉どおりです。初期の聖書研究生たちは,聖書の教えを大々的に伝える仕事を行ない,象徴的に言つて,地獄の火を消しました。このことは,著名な宗教指導者や福音伝道者の怒りをひきおこしたため,これら初期の証者たちはしばしば「地獄否定者」と嘲笑的に呼ばれました。もちろん,その仇名のつけ方は正しくありません。エホバの証者は,「地獄」と訳されている聖書の「ショオール」をたしかに信じているからです。地獄はくるしみの場所ではありません。聖書中の地獄は,人類の共通の墓である,と聖書は明白に示しております。死人は,復活の時までその場所にいます。
パストー・ラッセルは,この「地獄」についての論題をひろく用いました。そして,彼の最も人気のあつた講演ひとつは,「地獄へ行つて帰つてくる」でした。1905年から1907年までのあいだ,ラッセルは特別な汽車か自動車に乗つて,アメリカ合衆国とカナダ中を旅行し,1日間の大会を開きました。この大会のときに,この公開講演が中心になりました。両方の国のほとんどの大都市では,会場は聴衆でいつぱいでした。j このすばらしい講演の中で,パストー・ラッセルは,聴衆を機智に富んだ,こつけいな想像上の旅行に誘い,地獄へ行つて戻つてきました。この講演の中でラッセルの提出した反論不能の論議と,この全期間中聖書研究生の提出した論議は,多数の人々に永久の印象を与えました。
ラッセルの「大会自動車」や「大会列車」時代については,たくさんの興味深い物語が伝えられています。たとえば,カリフォルニア州のオークランド市では,兄弟たちは推定した数の聴衆を収容できるだけの大きな会堂を借りることができませんでした。それで,代表者は日曜日午後の公開講演会のために,オークランド市内にあるいちばん大きなメソジストの教会を借りることにしました。その契約に署名した教会側の人は,講演の題を知つていなかつたのです。講演の日より1週間か2週間前になつて,いつものとおりビラがまき始められ,幾千人もの人を講演に招待しました。そして,新聞や掲示板には,有料の広告が大きく出され,「オークランド・メソジスト教会で行なわれるシー・テイー・ラッセルの講演『地獄へ行つて戻る』に出席しなさい」と発表されました。
教会の長老たちは,たいへん怒つて,その契約をすぐに破ろうと欲しました。弁護士からの忠告で,長老は契約を破ることができるが,しかしラッセルが訴訟を起こすなら,ラッセルの言う通りの額の金を支払わねばならぬと知りました。それで,その弁護士は,なし得る最善のことは,集会の時が来たとき,門番を居らせないようにすることだ,と教えました。
パストー・ラッセルは,いつもの通り,予定されていた講演の時より1時間早く会場に到着しました。おどろいたことに,大ぜいの人々は教会の外に立つていたのです。ラッセルは,いつたいどうしたわけかとたずねました。責任を取つていた兄弟たちは,門番がいないので教会に入れないと告げました。「契約をしてあるのでしよう。そして,いくらかの前払いもしてあるのでしよう?」とラッセルは聞きました。兄弟たちが,「そうです」と答えるのを聞いたラッセルは,「それでは,この場所は法律的に言つて次の数時間は我々のものである。もし正面から入れないなら,兄弟のひとりを地下室へもぐりこませ,人々のために戸を開けなさい」と彼は告げました。兄弟たちはその通り行なつて,その大きな集会はオークランド・メソジスト教会で成功裡に行なわれました。
反対は進歩を止めることに失敗
トム: すると,ラッセルは勇敢な人であつただけでなく,機略に富んだ人だつたようですな。
ジョン: ラッセルは,神から与えられた任務から,すぐに転向させられるような人ではありませんでした。彼は,自分が行なつていたわざは,正直な心を持つすべてのクリスチャンにとつて,神の御こころに従うことであり,最善をつくしてその責任を果たそうと決意しました。ラッセルとその制度に対して加えられた一切の反対は,その前進の活動をとめませんでした。これら初期の証者たちの熱心さと活動は,科学の面で進歩発達した現代では,十分に認識しがたいものです。忠実な証者たちのこの群れは,その数が小さいものですが,反対をうけても恐れず,目前にある大きな仕事を見てもひるみませんでした。
わざは,どんどんひろまつて,制度は拡大しました。1903年,イートン ― ラッセルの討論が行なわれるすこし前に,ラッセルは第2回目の欧州旅行をしました。そのとき,彼はドイツに協会の支部事務所を設立しました。k 翌年,オーストラリアに支部がつくられました。l この頃には,真理の種子は遠い地の南アフリカ,a日本bそして英領西インド諸島の良い地に落ち始めました。ジャマイカのキングストンで大会が開かれ,400人が出席し,公開集会には600人が出席しました。c アメリカ合衆国内でも拡大はつづき,1908年までには,オハイオ州プットーイン・ベイで8月29日から9月7日まで大会を開き,4800人という推定最高数の人々が出席しました。d
幾百万冊という数の文書は配布され,この時までには3万人がものみの塔の予約者でした。そして,そのうちの幾千人という人々は,神の御言葉を知りたいと切実に願つていた他の人々に,聖書の真理を伝えることに参加しました。さらに,聖書の真理にたいするこの大きな要求にこたえるため,またキリスト教国の牧師の反対にうちかつため,そしてこれら誠実な聖書研究生たちに順次啓示される真理の洪水に歩調をそろえるため,新しい文書がたえず出版されました。そして,最初は一部分しか理解できなかつた真理は,はつきりと分かるようになり,洗練されました。
トム: ラッセルが行なつた討論は,イートンが相手の時の1回だけでしたか。
ジョン: そうではありません。1908年,新教徒たちは,キリストの弟子派に属する長老エル・エス・ホワイトを挑戦者にしました。この派は,アメリカ南部でいちばん大きな新教徒の群れの一つです。この群れは,ラッセルの大きな人気と,大聴衆を講演に呼び集め得るラッセルの能力を巧く利用して,この公開討論会をキリストの弟子派の宗教復興会に変えようと希望しました。しかし,パストー・ラッセルは,彼らの動機をあやしみ,討論の行なわれるオハイオ州シンシナテイ市で,この期間中に8日間の大会をひそかに取りきめました。もしこのことがなされなかつたなら,シンシナテイ市の小さな会衆は,そこに出席を予定されていたキリストの弟子派の者たちの数で圧倒されてしまつたでしよう。1908年,2月23-28日までに予定されていた6つの討論は予定通りに行なわれて,幾千人という人はラッセルの楽勝を目撃しました。ラッセルは,この時までには討論がたいへん上手になつていました。e 討論の全文とラッセルおよびエルダー・ホワイト両人の写真は,シンシナテイの「エンクァイアラー」(英文)に掲載されました。f たぶんこの一連の討論で得られた成功は,エルダー・ホワイトの提唱した討論会後の宗教復興運動の結果から判断することができます。3月1日,日曜日午後の聖書研究生の大会最後の集会には,2100人が出席しました。しかし,同じ日にエルダー・ホワイトが始めた宗教復興運動に出席した人の数は,彼を含めてわずか31人だけでした。他の人々も挑戦を申し込み,それらの挑戦はうけ入れられました。が,最後の瞬間になると,挑戦者たちが申込みを取り消すのが常でした。g
敵は内部から攻撃を加えた
ロイス: パストー・ラッセルと制度内の者とのあいだに問題がありましたか。
ジョン: ありました。いつでも,利己主義,ほこり,あるいは野心のために,物事がはつきり見えない人がいました。しかし,これらの反対者たちは,神が用いている径路の質,力そして忠実をためすのに役立ちました。はじめのころ,バーバーとのあいだに生じたあがないの教理についての問題をおぼえておられるでしよう。それから,このことからすこし経つてのち,その試験を通つた者のひとりは,高等批評のわなに陥り,自分に従う弟子たちをひこうと努めました。h
次のふるい分けは,それからすぐ後に起こりました。そして,たとえ意図が良いものであつても,主の径路と競争し合うことは,必ず失敗することを表わしました。その件について,ラッセルは次のように報じています。すなわち,仲間のひとりは,
「ものみの塔」と同じ形式に従い,別の新聞を開始して,神の計画の簡単な特色のいくらかを再出版しようと図つた。彼はある種の宣教者,第一人者の教師になろうと望んだ。彼はあがないの点で正しい側に立つた,と私は知つていたので,彼の成功を祈り,彼の新聞,「シオンのデイスター」(いまでは長年のあいだ印刷が中断されている)の見本1枚を約1万人の我々の読者に紹介した。……しかし,1年足らずのうちにそれは厚かましくも不誠実の道に走つた。i
それから,1890年代の初期に,反逆の種子はさらに制度内に播かれました。ある顕著な奉仕者たちは,パストー・ラッセルに反対して,協会を自分たちの思いのままに運営しようと欲しました。1893年,イリノイ州シカゴの大会の後,これらの陰謀家たちは,ラッセルの人気を終らせ,協会の会長を辞任させるためのキメ手とも言うべき悪事をたくらみました。この問題はパストー・ラッセルをひどくなやませ,悲しませました。しかし,すべての事実が明るみに出されたとき,ラッセルの正しいことは証明されラッセルに反対の陰謀を企てたものは間もない中に全く影をひそめ,奉仕のわざは彼らなしでつづけられて行きました。j
さて,今度は別のことが生じました。ラッセル夫人は,長年のあいだ協会の理事でもあり,役員でもありました。また協会の秘書会計士の仕事もしていました。彼女はまた「ものみの塔」誌の共同編集者で「ものみの塔」に定期的に寄稿していました。ちよつと前にお話した問題が生じたとき,ラッセル夫人はたくさんの会衆を訪問して,自分の夫のために論じました。彼女は,教育を受けた聡明な婦人であつたため,人々は彼女を快く受けいれたのです。しかし,その結果として,彼女は強い立場を求め,「ものみの塔」誌内に出版すべきものの決定権を得ようとしました。このような野心は,持つてはならないもの,悪いものです。ちようどモーセの妹ミリアムの場合と良く似ています。ミリアムは,イスラエルの指導者である自分の兄に反抗して,自分を顕著な者にしようとつとめました。k 「ものみの塔」誌に述べられている聖書的な見解と一致しない限り,ラッセル夫人の記事は出版されないことになりました。彼女がこのことを認識したとき,たいへんな動揺を感じ,その不満な気持はだんだん高まつて,遂に協会と彼女の夫との関係をたち切る段階にまで達しました。このため,ラッセルは彼女のために別の家をつくり,彼女を経済的に支えることが必要になりました。
それから幾年か後の1906年,正当な裁判の手続きの後に,彼女の別居は合法のものと宣言され,彼女はラッセルに数千ドルの裁定額を要求しました。この裁判中に語られた特定な言葉の故に,パストー・ラッセルの敵対者たちは,ラッセルが不道徳な者であり,宗教界において持つているその地位につく資格はないと示すことに努力を払つてきました。しかし,そのような非難は偽りである,と裁判所の記録は明白に示しています。裁判所の記録は,この点について次のように報告しました。
ラッセル夫人は,彼女の夫が不道徳の行いに有罪であると信じなかつた。そのように信じたことは一度もなかつた。そのことは,彼女の弁護士が(第10頁で),ラッセル夫人に次の質問をしている法廷の記録からも示される,「あなたの夫は姦淫の罪を持つていないということですね」。答「そうです」。l
ロイス: それはパストー・ラッセルにとつてずいぶんつらいことだつたでしようね。
マリア: そうでした。この結果が自分自身にとつてどういう意味を持つものか,また彼の敵が新聞でどのようにこのことを利用するか,ラッセルは良く認識していました。しかし,彼はもし自分が神のしもべであるなら,聖書中に述べられている神の原則または政策を決して捨てない,という立場を彼は取りました。それで,彼はその環境下で為し得るただ一つのことをしたのです。
[脚注]
a (ヘ)1927年の「ものみの塔」338,347頁。それと1927年の「ものみの塔」354頁1節と比較しなさい。
b (ト)1892年の「ものみの塔」(英)13頁。
c (チ)1899年の「ものみの塔」(英文)93,94頁。
d (リ)1900年の「ものみの塔」(英文)373頁。1899年の「ものみの塔」(英文)226頁。
e (ヌ)1910年の「ものみの塔」(英文)236頁。1911年の「ものみの塔」(英文)461頁。
f (ル)1900年の「ものみの塔」(英文)50頁。1908年の「ものみの塔」(英文)127頁。
g (イ)(1915年)ジェー・エフ・ルサフォード著「教会上の天における大きな戦い」(英文)7-10頁,「神聖ならざる同盟」
h (ロ)1903年の「ものみの塔」(英文)391頁。この6つの討論の内容全部については,1903年11月2日の特別編集のピッツバーグ「官報」を見なさい。
i (ハ)ジェー・エフ・ルサフォード著「教会の天での大いなる戦い」(英文)10頁。
j (ニ)1905年の「ものみの塔」(英文)224頁。1907年の「ものみの塔」(英文)112頁。
k (ホ)1903年「ものみの塔」(英文)197頁。
l (ヘ)1904年「ものみの塔」(英文)82頁。
a (ト)1907年の「ものみの塔」(英文)54-56頁。
b (チ)1907年「ものみの塔」(英文)215,216頁。
c (リ)1905年「ものみの塔」(英文)326頁。
d (ヌ)1908年「ものみの塔」(英文)275頁。
e (ル)1908年の「ものみの塔」(英文)19,70頁。
f (オ)シンシナテイ「エンクアイアラ」1908年の8月15日。
g (ワ)1908年の「ものみの塔」(英文)8と18頁。
h (カ)1916年の「ものみの塔」(英文)173と174頁。
i (ヨ)1916年の「ものみの塔」(英文)175頁。
j (タ)1894年の「ものみの塔」(英文)163-174頁。
k (レ)民数記 12:1-15。
l (ソ)ジェー・エフ・ルサフォード著「教会の天における大きな戦い」(1915年)16,19頁。また1906年の「ものみの塔」(英文)211-227頁。