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  • アレキサンダー大王と聖書の預言
    ものみの塔 1961 | 2月1日
    • アレキサンダーの海軍はツロの港に強引に押し入り,閉じこめられていたツロの艦隊を滅ぼしました。間もない中にマケドニア人はあらゆる方向からツロに攻めこんできました。街路や広場で行なわれた殺戮はもの凄いものでした。この町の頑強な反抗に激怒したマケドニア人は,情ようしゃなく振舞いました。ツロの大部分は燃されてしまいました。約8000人のツロ人は殺され,2000人の若者はマケドニアの捕虜を殺したことに対する報復として海岸で杭にかけられました。約3万人のツロ人は奴隷として売られてしまいました。この包囲攻撃は,西暦前332年1月の中旬から7月の中旬までつづきました。

      アレキサンダーは,次にエルサレムにはいりました。歴史家チャールス・ローリンは,「古代の歴史」(英文)の中で次のように述べています,「エルサレムでは,大祭司が後にダニエル書の預言の言葉を彼に示した。その言葉は,その大君主について述べているものである……アレキサンダーが,かくも明白で事実とぴったり合う有利な約束を聞いて,たいへんなよろこびと感嘆の念につつまれたことを想像するのはむずかしいことではない。彼はエルサレムを去る前にユダヤ人を集めて,どんな願いごとでも申すが良いと告げた」。

      アレキサンダーはそれからエジプトに行きました。ペルシャの支配に愛想をつかしていたエジプトは,彼を解放者として歓迎しました。西暦前332年,彼はナイル川の河口にアレキサンドリアの町を設立しました。

      アレキサンダーはふたたび北上し,約4万7000の軍隊をひきつれてバビロンに向かいました。ダリウス3世は,講和を数度申込みました。ダリウスからの最後の申込にたいしてアレキサンダーはその使者にこう答えました。「彼〔ダリウス〕が余の次の地位に甘んじて,余と同等である振りなどしないなら,彼の言葉を聞かないでもない。世界は二つの太陽を許さず,二人の君主を許さない,と彼に告げよ」。

      ガウガメラにおける勝利

      それでダリウスは戦争の準備をしました。こんどはダリウスはイスサスで戦った時の軍隊よりも約2倍も大きな軍隊を召集し,100万人ぐらいの軍隊を集めました。4万7000の軍隊をひきいるアレキサンダーはユーフラテス川とチグリス川を渡り,ガウガメラの村近くで大軍隊の先頭に立つダリウスと会いました。ガウガメラの村は,ニネベの廃墟から北東28キロのところにあります。ダリウスは戦列の前線に200台の戦車鎌をつけた車と15頭の象をおきました。ペルシャの王は,これらによってアレキサンダーの方陣を切断し,混乱状態におとし入れて,それからペルシャの騎兵で粉砕してしまおうと希望しました。

      戦争が始まると,これらの車は平地を突進して方陣目がけて殺倒してきました。しかし,アレキサンダーは,これらの車を無力化させるよう軽装の軍隊に命じました。彼らは弓矢を放って馬と禦者を傷つけました。方陣にたどりついたわずかな車も,敵を害せずに素通りしてしまいました。槍兵は車のために隊伍を開き,背後からその車をすぐにつかまえてしまったのです。その戦いはものすごいものでした。方陣の槍の穂先はダリウスの側近くだんだん迫ってきました。ダリウス王の御者が,投槍で倒れたとき,王は車から降りて馬に乗り,戦場から逃げました。間もなくペルシャの軍隊はその指導者に従い,大混乱のうちに敗走し始めました。アレキサンダーは逃走者たちを追跡し,アリアンによると,30万人のペルシャ人が殺されました。逃げたダリウスはかつては,彼の同盟者であった者たちにより殺されました。

      バビロン再建の計画は失敗

      バビロンはただちに降伏しました。アレキサンダーは,この都を世界の首都にしようと決意しました。そしてバビロンにおける大建築計画をいくつか始めました。しかし,バビロンを再び大きな都にしようとする彼の計画は成功しませんでした。このたびは,アレキサンダーは聖書の預言と反対の行いをしたからです。天の神は御自分の預言者イザヤを通して次のように言われました,「バビロンは,神に滅ぼされたソドム,ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え,世々にいたるまで住みつく者がなく……」(イザヤ 13:19,20,新口)それで,聖書的に滅亡が定められていたバビロンを再建しようとしたアレキサンダーの計画は失敗に帰しました。他の地方を征服してバビロンに帰ってきてから後,酒宴を催したアレキサンダーは西暦前323年,33才で高熱のために死んでしまいました。

      彼の帝国はどうなりましたか。聖書の預言は「その国は破られ,天の四方に分かたれます。それは彼の子孫に帰せず……」と明白に示しました。(ダニエル 11:4,新口)象徴的な雄やぎについては,神の御使はダニエルにこう告げていました,「かの雄やぎはギリシャの王です。その目の間の大きな角は,その第一の王です。またその角が折れて,その代りに四つの角が生じたのは,その民から四つの国が起るのです。しかし,第一の王のような勢力はない」。―ダニエル 8:21,22,新口。

      神の御言葉はけっして失敗に終ることがありません。その預言の通り,西暦前301年のイプサスにおける天下分け目の戦いが行なわれた時までには,アレキサンダーの4人の将軍は,それぞれ自分の勢力をにぎっていました。歴史家ローリンは,このことや,またバビロンについての神の定めについて,次のような注解をしるしました。「古今未曽有の強力な君が努力をしたにもかかわらず,この無敵なのろいの力と重さは明白に示された。この君は,自分の計画を遂行するということに関しては,最もねばり強く行なう者であった。この君のくわだては,ひとつとして失敗したことがない。ところが,これ〔バビロンの再建〕には失敗したのである。その仕事は,他の仕事ほどむずかしいものとは見えなかった。……かくも明白で,正確で,しかも事実にぴったり合う一連の預言以上にすばらしいもの,神性なものがあるだろうか。預言は,その君が自分の家族からの合法的な後継者をひとりも残さずに死んでしまい,その4人の将軍は彼の帝国をめいめい分けてしまうとまで指摘しているのである。

      アレキサンダー大王の生涯は,聖書の預言が正確に成就されていると示します。このことは,その預言を与えられた方エホバ神をあがめます。自分のすることを成功させたいとのぞむ人は,みな神の預言的な言葉に一致して生活しなさい。神の御言葉は決して失敗に終わることはありません。

  • 神の目的とエホバの証者(その11)
    ものみの塔 1961 | 2月1日
    • 神の目的とエホバの証者(その11)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      第9章 1914年にすべての国が終る

      トム: 1914年がついにきて第一次世界大戦が始まったとき,エホバの証者たちの天下になったと思うがね。

      ジョン: かならずしもそうではありませんでした。その年の最初の数ヶ月のあいだ,宗教指導者や他の者たちは,ラッセルとものみの塔協会に多くの嘲笑をあびせていました。なぜなら,その初期の月々には,エホバの証者が期待していたようなことは,何も異邦人の国民に生じなかったからです。

      マリア: もちろん,このことは証言のわざを中止させませんでした。なぜなら協会はその年の秋に終りがくると期待していたからです。1月までには「創造の写真 ― 劇」の準備は完成し,4月までにはその12組を31の都市に送り出しました。報告によると毎日3万5000人以上の人が,この異常な作品を見聞きして感心していました。a

      ジョン: そのとおりです。しかし,その年がだんだん進んで,欧州中は緊張の空気がみなぎっていても,暴力がおこらなかったので,御国の音信に対する嘲笑は増加してきました。しかし,諸国民や諸国家が,いま第一次世界大戦と呼ばれるものにどんどん突入して行ったとき,大変化が生じました。戦争直前の最初の数ヵ月間,はなはだしい不安の期間が欧州にのぞみました。しかし,その年の7月27日から8月までの時は,世界を震動させた驚きの期間でした。戦争が始まり,それとともに諸国民に苦難がのぞんだため,彼らの期待していた苦難の時とくらべ合わせて,エホバの証者のわざがいま顕著なものになることはとうぜん理解できます。

      典型的な一般新聞の反応は,指導的なニューヨークの一新聞「ザ・ワールド」にあらわれました。この新聞の日曜雑誌欄のところに,人目をひきつける見出し「1914年にすべての国が終る」の下に,長い特別記事が掲載されました。ここにその記事の一部を掲載します。

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