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エホバの証人に対して燃え上がった攻撃目ざめよ! 1976 | 12月22日
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ないと告げられました。もちろんエホバの証人はそのような政治活動と関係することに同意できませんでしたから,自分たちの王国会館の使用を中止せざるを得ませんでした。
4月16日のラジオ演説の中で,内務大臣マルティン・ドホウ・アゾンヒホは,「そうした者共が自分たちのやり方を変えないなら,我々が後を追い掛け回してやる」と言って脅しました。同内務大臣は,4月末までにエホバの証人の代表者たちを追放するとまで言いました。
数日後,四人のエホバの証人から成る代表団が,告訴容疑について答弁するためにコトヌー2区の区長のところへ出頭しました。しかし,それらのエホバの証人は政治スローガンを口にしなかったために,逮捕されて,警察学校に連行されました。そこでは,彼らをして,「革命の備えをせよ!」というスローガンに答えさせるためさらに多くの努力が払われました。そのスローガンに対して期待される返答は,「そして闘いは続く」というものでした。
エホバの証人であるD.S.は,自分には仕事をする備えがあり,当局者の語る農業生産の一端を担う備えがある,と説明しています。しかし,闘うための備えはできておらず,戦争のための備えはできていないのです。それでこの人は,確固とした立場を保ち,そのようなスローガンに答えようとしませんでした。この四人は釈放されるまでに十日間留置されました。
一方,4月の最後の週にコトヌーでは,エホバの証人に対する攻撃手段を計画するための一時間にわたる集まりが開かれました。1976年4月30日付けのベニンの新聞エヒューズは次のような見出しを掲げました。「“エホバの証人”派ベニン人民共和国で禁令下に置かれる」。
その記事は次のように述べていました。「1976年4月27日,火曜日をもって,エホバの証人派はベニン人民共和国全土で禁令下に置かれた。……
「― エホバの証人派の追随者,および同派に属する人々による集会はすべてこれを禁ずる。
「― エホバの証人派の伝道者による戸別訪問はこれを禁ずる。
「― 同派の代表者および追随者によってこれまで使用されてきた不動産は,地方当局者によって登記され,公共の福祉に役立つ仕方で用いられる」。
さらに同紙はこう述べています。「同派の代表者たち,より正確に言えば,どこの国の国民であろうと外来者たちは,この措置が公布されてから数時間後に出国しなければならない」。
エホバの証人の宣教者を追放するというこの決定を実行に移すに当たって,少しの時間もむだにされませんでした。カルロス・プロッサーは次のように説明しています。「4月27日の午前10時ごろ,警察がやって来て,支部の責任者であるわたしに尋問しました。彼らはわたしをコトヌー・アクパクパ警察署に連行し,そこからさらに国家警察へと連行しました。わたしはそこでさらに尋問された後,コトヌー・アクパクパ警察署に連れ戻され,帰宅することが許されました。帰宅したのは午前11時半ごろでした。……わたしたちがその日,つまり4月27日付で追放されるということを聞いたのは午後8時ごろでした。……
「4月28日の[朝]8時半ごろ,警察が再びやって来て,スーツケースに荷物をまとめ,それをわたしたちのライトバンに乗せて国家警察まで来るよう命じました。……わたしたちは仕度をして出発するまでに30分の猶予を与えられました。……わたしは一人の兵士の見張りの下でものみの塔協会のライトバンを運転しました。その他の宣教者たちは警察の手で別の車に乗せられて連行されました。……
「宣教者のうち二人はトーゴへ,残りはナイジェリアへ行く準備ができていました。わたしたちナイジェリアに行く者は,国境まで警察の車で護送され,トーゴへ向かう二人は後に残されました」。こうして10人のエホバの証人は同国から追放され,ものみの塔聖書冊子協会の資産は当局の手で没収されました。
禁令下での迫害
5月10日,コトヌーの北約120㌔の地点にあるカナ会衆のエホバの証人たちは,翌日地方革命委員会に出頭するようにとの通知を受け取りました。行ってみると,市長が出迎え,彼らに敬礼をさせるために国旗を持って来ました。そのエホバの証人たちがそれを断わると,五人の人が八歳の男の子を含むエホバの証人を殴打し始めたのです。
翌日,そのエホバの証人たちは,ボヒコンにある最寄りの警察署に連行され,そこで数時間にわたって絶え間なく殴打されました。「人民に名誉と栄光と勝利あれ」と,エホバの証人に言わせようとする努力が払われましたが,彼らは,「エホバに名誉と栄光と勝利あれ」と答えました。また,「我々は自分たちの力をだれに求めるか」とも尋ねられました。彼らは,「自分自身に」と答えることが求められていましたが,「エホバに」と答えました。そこで警察は彼らをさらに殴打し,妥協させようとしました。
女性たちと八歳の少年を含むエホバの証人は,一昼夜ずっと拘留されました。翌朝,スローガンを言わせようとする試みが再度なされ,彼らがそれを拒むと,さらに殴打されました。結局,正午近くなって警察署長がやって来て,エホバの証人がひどく殴打されているのを見,警官たちにやめるよう命じました。署長がエホバの証人を尋問したいと思ったからです。
「お前たちはなぜスローガンを口にしないのか。その理由は何かね」と署長は尋ねました。彼らは,自分たちがイエス・キリストの示した模範に倣って,いかなる国の政治活動にも関与しないからである,と答えました。「私たちは局外中立を保ちます。そして私たちのクリスチャン良心は,政治スローガンを唱えることを潔しとしません」。しかし警察署長は,「いや,それ以上のことがあるはずだ。別の理由があるに違いない」と言いましたが,ほかの理由はない,という答えが返ってきました。
最後に警察署長は,彼らを釈放はするが,王国会館で集会を開くことや,宣べ伝える業に携わることはできない,と述べました。しかし,自分たちの家で小さなグループで集まることに異存はないとも述べました。そこでエホバの証人たちは「その点を書面に記し,集会を開いてもよいという書き付けをいただけますか」と尋ねました。すると警察署長は,「いや,そんな書き付けは渡せない」と答えました。
アウハンバ・セコウ村で,土地の革命家たちがエホバの証人G.A.に近付いて来て,政治スローガンを叫びました。エホバの証人がそれに答えようとしないと,四人の人たちが彼に飛び掛かり,意識不明になるまで殴打しました。その人が倒れると四人は逃げ出しました。彼が死んだと思ったようです。
しかし数分後,この人は起き上がりました。彼を殴打した人々のうちの一人は遠くからそれを見たのです。ところが,その男が戻って来る間もなく,棒切れやこん棒で武装した別の人々がそこにやって来ました。そのエホバの証人は二番目のグループの人々にも殴打され,血まみれになって再び倒れました。この二番目のグループの人々は,殺人を犯したと考えて,恐れを感じ始め,自分たちの持っていたこん棒を捨てて逃げ出しました。暴徒が立ち去った後,エホバの証人であるG.A.はどうにか立ち上がって,自分の家へ帰りました。
同国の北西部にあるアトゴン村のエホバの証人たちは,土地の革命委員会の成員が自分たちを逮捕しようとしていることを察知しました。そこで,夜の間に“奥地”のずっと深いところまで避難しました。男の人たちは,ブリキ板を使って,自分と家族が寝るための場所を整えることができました。さらに,30㍍余り離れた所に,集会を開くための別の場所を設けました。彼らは地面をいす代わりに用い,木の枝を束ねて,集会の司会者が用いられるようなテーブルを作りました。これらのエホバの証人たちはその後離散し,中には国外へ逃げた人もいます。
アイセッサでは革命委員会が王国会館を閉鎖しましたが,数日後その地の市長がかぎを持って来て,主宰監督に手渡し,「かぎを渡すから,次の土曜日にお前たちの仲間全員を集めて特別集会を開くために会館の用意をしておくがよい」と言いました。主宰監督はその集会の詳細が知らされない限り,かぎを受け取ることはできないという態度を示しました。市長は言おうとしませんでしたが,当局者たちはエホバの証人に対して問題を引き起こすことをもくろんでおり,もしかすると一網打尽に全員を逮捕しようとしていたのかもしれません。それでエホバの証人たちは,国境を越えて,ナイジェリアに逃げ込みました。
5月の初め,特別開拓者(エホバの証人の全時間伝道者)であるD.S.がコトヌー市内を歩いていると,彼がエホバの証人であることを知っている人に出会いました。その特別開拓者が政治スローガンによる呼び掛けに答えることを拒むと,彼は警察へ連行されました。それから数週間にわたってひどく殴打された後,釈放されました。その殴打の結果,この人は医師の手当てを受けねばなりませんでした。
5月3日,コトヌーの北約650㌔の地点にあるカンディで働いていた二人の特別開拓者は,同日警察署に出頭するようにとの召喚状を受け取りました。二人が警察署に着くと,警察署長であるドボヌー氏は身分証明書の提示を求めました。その年までの納税証書がその証明書に添付されているのを見て,署長は,「お前たちは当局に対して従順で,税金を納めてきたようだな」と言いました。
署長は,開拓者たちに,その地区の他のエホバの証人の氏名を言わせようとしましたが,二人はそれを拒否しました。すると二人はシャツとズボンを脱ぐよう命じられ,警察署長からこう言われました。「さて,間もなく氏名を言って,我々に協力したいと思うようになるだろうよ」。
それから警官が呼び入れられ,警官たちはクリスチャン兄弟姉妹の名を言わせようとして,警棒を使って交代で開拓者たちを殴打しました。こうした残忍な仕打ちにもかかわらず,このエホバの証人たちは,警察に自分の友人たちの住所氏名を教えたりして,友人たちの安全を脅かすようなことをしませんでした。
やがて,その特別開拓者のうちの一人,I.K.はコトヌーに護送されました。その地の刑務所の中で,彼はそこに捕らわれているエホバの証人が自分一人だけではないことに気付きました。そこには,愛国歌を歌ったり,国旗掲揚式に参加したりすることを拒み,それゆえに殴打されている人々がほかにも大勢いたのです。
一人の若者は,「なぜお前は国歌を歌ったり,この国旗掲揚式に参加したりしないのか」と尋ねられたとき,こう答えました。「わたしのクリスチャン良心がそれを許さないのです。また,聖書はそのような崇拝を認めていません」。それを聞いて警官はその若者の頭をなぐり,そのため若者は鼻血を出してしまいました。
I.K.は,自分の父親および幾人かの友好的な警官のお陰で,5月19日に刑務所から釈放されました。数日後,彼は国境を越えてナイジェリアに行くことができました。そして同地の病院で手当てを受け,殴打された箇所が治るまで数週間療養しました。
事態の要約
学校で行なわれる国家主義的な行事のゆえに,エホバの証人の子供で禁令下に置かれてから登校できる者はほとんどいません。しかし,5月20日までは,15歳の若者が一人まだ登校していました。ところがその日,同級生の一人が教師に,「A君が歌わないのに,どうしてぼくは歌わなければいけないのか」と告げました。そうしたことを少なくとも二回聞かされた教師は,やむなくそのエホバの証人に歌うよう強く求めました。彼が拒むと,その出来事は付近一帯に広く知られるようになりました。厳しい措置が取られるということを知ったその若者は,国境を越えてナイジェリアに行きました。
雇用の面でも同様の事態が見られます。エホバの証人は政治的な行事に参加しないために,職場を離れざるを得なくなっています。伝えられるところによると逮捕されたり,投獄されたりする恐れがあったため,600人ほどのエホバの証人は国境を越えてナイジェリアに逃げ,他の人々もトーゴへ逃げました。警察は大勢のエホバの証人,なかでも著名なクリスチャンの長老たちの後を追っており,ラジオで彼らの氏名を幾度か発表したこともありました。
エホバの証人がどのように監視されているかを示す一つの例を挙げることにしましょう。コトヌーにまだ残っていたクリスチャンの一長老は,兄弟たちを何人か自宅に招待して食事を共にし,その機会を利用して彼らに幾らかの励ましを与えました。この長老が一人のエホバの証人を迎え入れると,集会を開いているのではないかと言って,土地の“革命防衛隊”の隊員がやって来ました。長老は,数人の友人を食事に招待しただけであると説明し,そうした目的で友人を自宅に招くことも違法であるのかと尋ねました。
すでに述べたとおり,ベニン全土にあるすべての王国会館は閉鎖され,伝道の業はどこへ行っても禁止されています。多くの場所でエホバの証人に対する監視の目が厳しいため,家族単位などの小さなグループで集まり合うことさえ非常に困難になっています。中には,夜中に起きて一緒に聖書を研究するエホバの証人もいます。
一方,同国の中には,エホバの証人がやや自由に集まり合える地区もあります。そうした所では,集会ごとに集まる時間や場所を変えて,定期的に集会を開くことができます。ある村の村長は,エホバの証人を逮捕せよとの召喚状を受け取ったとしても,彼らを守るためにできる限り手を尽くすと語りました。
この村長は,逮捕されると脅されたエホバの証人が大勢同国を後にしたという事態を見て,非常に憂慮しています。そして,いかなる方法であってもエホバの証人を妨害する者がいれば,そうしたもん着を引き起こす者を逮捕するという警告を自分の村に発しました。それ以来,その村ではエホバの証人にいやがらせをする者はいません。この村長は地方長官に,エホバの証人が村民の中で一番善良な人々であり,彼らが税金を期限内にきちんと納め,共同作業を支持するということを告げました。
このように,ベニン共和国の中には,エホバの証人にとって事態が他の地区よりも困難な所もありますが,それは大抵地方の当局者にかかっています。しかし,エホバの証人に対する同国の公式の立場は,その活動を全面的にやめさせ,すべての人をして同国のイデオロギーに従わせることです。
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何ができるか目ざめよ! 1976 | 12月22日
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何ができるか
自由を愛する人であれば,どこに住んでいようと,次のような事柄が行なわれるべきであるという点に同意されるでしょう。すなわち,ベニン政府は自国民に信教の自由を与え,エホバの証人に対する虐待行為をやめるべきであるという点です。しかも,政府当局者,中でもケレコウ大統領はそうした事ができる立場にあります。では,なぜそうしようとしないのでしょうか。
同国政府は,宗教を敵視しているわけではないと主張しています。実際のところ,ベニン人民共和国は信教の自由を認めると唱えています。1974年11月30日に行なわれた国家進路演説の第九項でケレコウ大統領は次のように述べました。
「ベニン人民の革命は,宗教上の信念に関して厳正中立を守る。ただし,その信念は革命の進展の妨げとなってはならない」。
ところがベニンでは,エホバの証人が「1974年11月30日の国家進路演説第九項を故意に踏みにじった」との主張が放送されています。それゆえエホバの証人は,「我々の民主的人民革命の不倶戴天の敵」と呼ばれています。しかし,どこに住んでいようと,エホバの証人を知っている人々が証言するとおり,そうした言い掛かりは真実とかけ離れています。前述のとおり,ベニンの地方自治体の首長は,エホバの証人が村の中で一番善良な人々であると語っています。彼らは期限内に税金を納め,共同作業にも携わります。
エホバの証人は,善良な人々であるとの評判を全世界で勝ち得ています。アフリカン・ウィークリィ誌は,その1950年8月30日号の中で,次の点に注目しています。「彼らがひとたび『ものみの塔』の信者になると……これらのクリスチャンはお互いの間で争ったりしない。……同教会の会員ではない人であっても,彼らが心の中に愛を抱いていることを認めざるを得ない」。「人格」と題するアフリカの別の出版物は,その1968年11月21日号の中でこう論評しています。「エホバの証人は良い特質に富んでおり,悪い点はほとんどないようである」。
ベニンに益となる
政府を転覆するどころか,エホバの証人の優れた行状と道徳は,彼らの住む国々に益をもたらしています。ベニンの前内務大臣ミッシェル・アイクペが昨年,ケレコウ大統領夫人と姦淫を犯している現場を押えられ,殺害されたことが伝えられて後,ラジオ放送は次のように報じました。「男女を問わずすべての闘士はこの出来事から教訓を学ばねばならない。中には,革命の要求する事柄が,社会における道徳態度および私生活などを含むあらゆる分野に及ぶことをまだ理解していない者がいる」。いわゆる愛国者たちが失敗するのに対して,エホバの証人は言葉と模範の両面で良い影響を及ぼし,品の良い道徳態度が社会に育まれていくのに大いに寄与しています。
そのうえ,昨年10月にベニン政府を転覆しようとしてエミール・ジンソウ元大統領が組織したとされる企てがあった場合のように,エホバの証人がいかなる政治抗争や陰謀にも荷担する恐れは全くありません。むしろエホバの証人は,政治的な問題に関して厳正中立の立場を守ります。彼らは,「上にある権威に従いなさい」という聖書の命令に従います。この場合の権威とは地上の支配者たちのことを意味しています。(ローマ 13:1,2)全能の神は,ご自分の任命した天の王イエス・キリストが地上の物事を管理し始めるまで,これら地上の支配者たちが権威を行使するのを許しておられます。
エホバの証人が人間よりも全能の神に従う義務の下に置かれるのは,神の律法に抵触する事柄が関係してきた場合のみです。(使徒 5:29)これは,彼らが神にのみ属すると心から信じている誉れや崇拝を,人間や象徴あるいは国家に帰すことができないという意味です。
ケレコウ大統領がこの重大な事態を自ら調査し,信教の自由と寛大さを擁護するような処置が取られるよう見届けることを,わたしたちは心から願っています。自分の良心に基づく信念に従っているために苦痛を受けている人々に対する同情心に動かされるなら,ケレコウ大統領,およびベニン人民共和国の高官にあてて訴えの手紙を書いたり,電報を打ったりしたいと思われるでしょう。そうした人々の氏名の一覧表はこの記事に付されています。
[11ページの囲み記事]
政府高官の住所氏名
Le Lieuténant-Colonel Mathieu Kérékou
Président de la République
Cotonou
People's Republic of Benin
Commandant Michel Alladaye
Ministre des Affaires Etrangères et de la Coopération
Cotonou
People's Republic of Benin
Lieuténant-Colonel Barthélémy Ohouens
Ministre de l'Industrie et de l'Artisanat
Cotonou
People's Republic of Benin
Chef d'Escadron
Vincent Guézodje
Ministre de l'Enseignement du ler Dégré
Porto Novo
People's Republic of Benin
Capitaine Augustin Honvoh
Ministre des Enseignements Technique et Supérieur
Porto Novo
People's Republic of Benin
Capitaine Dohou Martin Azonhiho
Ministre Délégué auprès du Président de la République
Chargé de l'Intérieur, de la Securité et de l'Orientation Nationale
Cotonou
People's Republic of Benin
Lieuténant Philippe Akpo
Ministre du Developpement Rural et de l'Action Coopérative
Porto Novo
People's Republic of Benin
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跡を残す小冊子目ざめよ! 1976 | 12月22日
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跡を残す小冊子
「エホバの証人は,伝説的とも言える粘り強さを持っているとの定評がある。エホバの証人は世界中で,死刑に宣せられる国々でも繁栄している。
「ジャマイカでは,他の主だった宗派すべてが衰退している中で,エホバの証人は着実に増加している。次に述べる出来事はその理由を物語っている。
「最近,ポートランド洞穴へ現地調査旅行をした際,我々は荒涼としたほこりだらけの道を一人の人にも会わず,半時間ほど進んだ。文明の唯一の形跡は,時折り見られる,野生かと思えるようなやぎだけだった。切り立った石灰岩の露出した場所に車を止め,この国でも特に荒れ果てた所を上って行った。
「ほこりにまみれ,疲れて,のどの渇ききった状態で車に戻ったが,我々が車を止めてからは風が吹いた形跡さえないように思えた。ところが,どの車の風防ガラスのワイパーの下にも,(霊によってか肉によってかは分からないが)エホバの証人が置いていったに違いない真新しい小冊子があった。T.J.」― 西インド諸島ジャマイカ,キングストン市のデイリー・グリーナー紙。
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